石原千秋の『漱石はどう読まれてきたか』をどう読むか57 人に通じるように書こう
生方智子の「「新しい男」の身体―『それから』の可能性―」はマックス・ノルダウの『退化論』の枠組みから『それから』を読むのたそうだ。
うーん。『退化論』でなくてもいいのではなかろうか。
そこで、三千代はヒステリー発作のように泣き、その興奮が代助に伝染する。この時、代助は「「女性」化した人間として、まさしく「退化」した人物となる」。
ノルダウのいう女性化とは形態の変化で身長が低くなり骨盤が広がることである。
つまり『それから』は退化論的パラダイムによって語られながら、差別する側にいた代助が「女性」化することで、内部から退化論を壊してしまうような小説だったのである。それを生方智子は「可能性」と呼んだのだ。
ノルダウはともかくとして、代助が女性的であるとは言ってみてもいい。
・鏡を見る
・花をめでる
・パンを食べる
……近所のパン屋はいつも女性が行列している。兎も角女は麺麭が好きだ。
・音楽界に行く
・芝居を見る
・ピヤノを弾く
・働かない
代助は女性的な要素を持っている。しかしこれはノルダウの言う退化ではない。寧ろ女性的な要素のある高等人種代助という者がいたのであって、そのこと自体が『退化論』に対しては批判的な設定だったと言えるのではなかろううか。それに、
「承知して下さるでしょう」と耳の傍で云った。三千代は、まだ顔を蔽っていた。しゃくり上げながら、
「余りだわ」と云う声が手帛の中で聞えた。それが代助の聴覚を電流の如くに冒した。代助は自分の告白が遅過ぎたと云う事を切に自覚した。打ち明けるならば三千代が平岡へ嫁ぐ前に打ち明けなければならない筈であった。彼は涙と涙の間をぼつぼつ綴る三千代のこの一語を聞くに堪えなかった。
「僕は三四年前に、貴方にそう打ち明けなければならなかったのです」と云って、憮然として口を閉じた。
この場面、三千代は特にヒステリックでもないし、代助がここで女性化したとも感じられない。「内部から退化論を壊してしまう」ような図式ではない。
行ったのは着後間もないうちの事である。その頃は方角もよく分らんし、地理などは固より知らん。まるで御殿場の兎が急に日本橋の真中へ抛り出されたような心持ちであった。表へ出れば人の波にさらわれるかと思い、家に帰れば汽車が自分の部屋に衝突しはせぬかと疑い、朝夕安き心はなかった。この響き、この群集の中に二年住んでいたら吾が神経の繊維もついには鍋の中の麩海苔のごとくべとべとになるだろうとマクス・ノルダウの退化論を今さらのごとく大真理と思う折さえあった。
代助の内部崩壊を指摘するとしたら、神経の破壊こそを確認しなくてはならなかったのではないか。
代助において女性は表象の不可能性を覆い隠すための表象であり、二項対立的秩序を維持し、男性ジェンダーを確立するための補完物なのである。
これは孫引きで生方の文章である。石原はこれをマツチョな文体というが、馬鹿の見本のような文体ではなかろうか。
AI による概要
夏目漱石の『それから』における長井代助の視点や言動を、ジェンダー論や表象文化論の視点から分析した興味深い解釈です。提示された文章は、文学研究(特に生方智子氏らの研究に見られるような、代助を主体とした男性的視点への批判的検討)における視点を反映していると考えられます。
この解釈のポイントは以下の通りです。
「表象の不可能性を覆い隠すための表象」:
代助が真に自分自身の言葉や存在を定義できない(=不可能性)、あるいは社会的な言葉で表せない実存的な不安を抱えている中で、三千代という女性を理想化または対象化することで、自身の脆さや実体のなさを隠蔽している、という分析です。
「二項対立的秩序を維持」:
「男=自立した、理性的主体」「女=従属的、感情的な依存主体」という近代的な二項対立構造の中で、三千代を「守られる存在」「自己を犠牲にする存在」として位置づけることで、自らが秩序の維持者(=男性)としての座に留まろうとする姿勢を指します。
「男性ジェンダーを確立するための補完物」:
代助は無職の高等遊民であり、実社会の「父」の秩序からは脱落しかけています。しかし、三千代への愛を「純愛」として神聖化し、彼女の生活を(経済的・精神的に)支える役割を担うことで、自己の「男らしさ」や「男性としての主体性」を再確認している、という解釈です。
この視点では、代助の三千代に対する「愛」は、純粋な感情であると同時に、彼が明治の社会構造の中で男として存在し続けるために必要な「装置」として機能している、と捉えられています。
ならば「三千代が代助を男らしくした」と書けばいいのではないのか。
こういうことだろう。世界には表象できないものがある。それらは不気味なものとして人間を脅かす。そこで、それらをとりあえず「女性」というカテゴリーに押し込んで目に見えるようにして、そのことで表象できなかったものなどなかったことにしてしまうことを「女性は表象の不可能性を覆い隠すための表象」と言っているのである。
石原の解釈もどこかピンズレである。
退化論の枠組みで読んだとして『それから』は、
❶どこか女性的な要素もありながら高等に進化したと思われていた代助が
❷三千代のために男らしくなり自然の愛に落ちた
➌神経が壊れかけているので退化である
こんな話になるのではないか。野獣的または退廃的な愛ではないので愛そのものが退化とは言い難い。
ヒステリーは男女孰れにも存す。女にのみ存する如く考ふるは全く誤謬なり。
ノルドー 著||中島茂一 訳大日本文明協会 1914年
『現代の堕落』は『退化論』の抄訳である。「代助は「「女性」化した人間として、まさしく「退化」した人物となる」と書いていた石原はまた知ったかぶりをして『種の起源』も『退化論』も読んでいいのではなかろうか。
そんな、まさかの話だが、書いているもののレベルで判断すればあり得ないことではない。
