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『行人』を読む 10 小説は絵もロジックも超越する

 前回の続きになります。セックスをしていないのであれば、一郎はどうして機嫌を直したのか、直は何を話したのか、その辺りについて考えてみたいと思います。何故なら二郎がそこを強調しているからです。

 自分は兄夫婦の仲がどうなる事かと思って和歌山から帰って来た。自分の予想ははたして外れなかった。自分は自然の暴風雨に次いで、兄の頭に一種の旋風が起る徴候を十分認めて彼の前を引き下った。けれどもその徴候は嫂が行って十分か十五分話しているうちに、ほとんど警戒を要しないほど穏かになった。自分は心のうちでこの変化に驚いた。針鼠のように尖ってるあの兄を、わずかの間に丸め込んだ嫂の手腕にはなおさら敬服した。自分はようやく安心したような顔を、晴々と輝かせた母を見るだけでも満足であった。
 兄の機嫌は和歌の浦を立つ時も変らなかった。汽車の内でも同じ事であった。大阪へ来てもなお続いていた。彼は見送りに出た岡田夫婦を捕えて戯談さえ云った。(夏目漱石『行人』)

 二郎には明示的ではありません。驚いているだけです。推理も「側」だけで全く具体的ではありません。

 自分はその時まで嫂にどうして兄の機嫌を直したかを聞いて見なかった。その後もついぞ聞く機会をもたなかった。けれどもこういう霊妙な手腕をもっている彼女であればこそ、あの兄に対して始終ああ高を括っていられるのだと思った。そうしてその手腕を彼女はわざと出したり引込ましたりする、単に時と場合ばかりでなく、全く己れの気まま次第で出したり引込ましたりするのではあるまいかと疑ぐった。(夏目漱石『行人』)

 二郎は早めに「霊妙な手腕」と言ってしまいます。むしろここは漱石が外側だけ拵えて中身を創らなかったのではないかとまずは疑われます。チャンバラで剣豪が引き立つのは切られ役が上手だからですよね。マカンコウ殺法は周りが吹っ飛べば、出来上がります。そういう細工ではないかと疑われますが、まだ確信はありません。

 二郎はこの疑いの直後から嫂を化け物のように仕立て上げて行きます。これはますます怪しい。

 汽車は例のごとく込み合っていた。自分達は仕切りの付いている寝台をやっとの思いで四つ買った。四つで一室になっているので都合は大変好かった。兄と自分は体力の優秀な男子と云う訳で、婦人方がた二人に、下のベッドを当てがって、上へ寝た。自分の下には嫂が横になっていた。自分は暗い中を走る汽車の響のうちに自分の下にいる嫂をどうしても忘れる事ができなかった。彼女の事を考えると愉快であった。同時に不愉快であった。何だか柔かい青大将に身体を絡まれるような心持もした
 兄は谷一つ隔てて向うに寝ていた。これは身体が寝ているよりも本当に精神が寝ているように思われた。そうしてその寝ている精神を、ぐにゃぐにゃした例の青大将が筋違いに頭から足の先まで巻き詰めているごとく感じた。自分の想像にはその青大将が時々熱くなったり冷たくなったりした。それからその巻きようが緩くなったり、緊くなったりした。兄の顔色は青大将の熱度の変ずるたびに、それからその絡みつく強さの変ずるたびに、変った。(夏目漱石『行人』)

 なんですか、これ?

 嫂・直に対する二郎の異常な関心は、青大将を想像することによってごまかしようのないエロチックな描写となります。これでは小森陽一さんがセックスだ、と言い出すのも仕方ないように思います。精神分析ではたちまちここに二郎の性的な願望や不安を見出してしまうと思います。

 それにしてもまず「身体が寝ているよりも本当に精神が寝ているように思われた」という表現が物凄いですね。精神が寝るって。

 全く意味が解らないのに、納得させられる表現です。Kの墓みたいなものです。精神は形を持たないので、絵的には精神に青大将が絡み着くのは可笑しいんです。可笑しいのに、これは絵ではなく文なのでなんとか成立してしまうんですね。むしろ文でしかできない芸当ですね。それを漱石はやっています。近代文学2.0は基本的に感覚ではなくロジックで読みますと言っておきながらなんなんですけど、ここはロジックでは説明できない書き方をしています。

 ですから「霊妙な手腕」はあくまで「霊妙な手腕」なのではないでしょうか。何しろ、直から一郎は何も報告を受けていないようなのです。あくまでも二郎から報告を受けるつもりなのでしょう。しかし肝心の事を棚に上げて一郎と直が何をどう話したのか、あれこれヒントを探しましたが見つかりません。敢えて言えば[余談]に描いたことあたりが怪しといえばあやしいんですけど、今一つはっきりしません。

 自分達は室内の掃除に取りかかろうとする給仕を後にして食堂へ這入った。食堂はまだだいぶ込んでいた。出たり這入ったりするものが絶えず狭い通り路をざわつかせた。自分が母に紅茶と果物を勧めている時分に、兄と嫂の姿がようやく入口に現れた。不幸にして彼らの席は自分達の傍に見出せるほど、食卓は空いていなかった。彼らは入口の所に差し向いで座を占めた。そうして普通の夫婦のように笑いながら話したり、窓の外を眺めたりした。自分を相手に茶を啜っていた母は、時々その様子を満足らしく見た
 自分達はかくして東京へ帰ったのである。(夏目漱石『行人』)

 こう書かれてしまうと何だか問題は片付いた、一郎もどうした具合にか安心したと勘違いしてしまいそうです。これが「帰ってから」の二章。え? 家に帰るまでが遠足じゃないの、と気が付いてみると、この「帰ってから」の章は実際には帰る前から始まっています。全く理屈に合いません。超越しています。そして「帰ってから」の六章でまだ一郎はしつこく二郎に訊くのです。

 お貞さんは兄が籐椅子から立ち上るのを見るや否や、すぐ腰を立てて一足先へ階子段をとんとんと下りて行った。自分は兄と肩を比べて室を出にかかった。その時兄は自分を顧みて「二郎、この間の問題もそれぎりになっていたね。つい書物や講義の事が忙いそがしいものだから、聞こう聞こうと思いながら、ついそのままにしておいてすまない。そのうちゆっくり聴くつもりだから、どうか話してくれ」と云った。自分は「この間の問題とは何ですか」と空惚けたかった。けれどもそんな勇気はこの際出る余裕がなかったから、まず体裁の好い挨拶だけをしておいた。
「こう時間が経つと、何だか気の抜けた麦酒見たようで、僕には話し悪くなってしまいましたよ。しかしせっかくのお約束だから聴くとおっしゃればやらん事もありませんがね。しかし兄さんのいわゆる生き甲斐のある秋にもなったものだから、そんなつまらない事より、まず第一に遠足でもしようじゃありませんか」
「うん遠足も好かろうが……」
 二人はこんな話を交換しながら、食卓の据てある下の室に入った。そうしてそこに芳江を傍に引きつけている嫂を見出した。(夏目漱石『行人』)

 そして二郎の言い方にも少し変化があります。「解りません」「しかし事が複雑なだけに、何から話して好いか解らないんでちょっと困ってるんです。」「姉さんの人格について、御疑いになるところはまるでありません」

 この二郎の説明は案外不誠実のようで正直なものではないでしょうか。

 まず「これから二人で和歌の浦へ行って浪でも海嘯でも構わない、いっしょに飛び込んで御目にかけましょうか」という直の言葉は心中を持ちかけていますよね。「いっしょに」ですから。

 別にこの前に二郎が死にたいなどと云っていないので、無理心中です。これはいくらなんでも責任がある人間がそのまま口にすることはできない筈の報告です。第三者なら、まず直に「おかしな兆候がある、現実から逃げたがっている、自殺願望がある」と見做してよいわけです。しかしそれを夫に報告するかどうかは、やはりちょっと考えますよね。

 ですからまず「解りません」「しかし事が複雑なだけに、何から話して好いか解らないんでちょっと困ってるんです。」は正直に云える範囲のぎりぎりですね。「姉さんの人格について、御疑いになるところはまるでありません」は嘘です。これが嘘でなければ最初の説明が嘘です。嘘だとバレバレのことを言うから、一郎は顔色を変えたわけです。二郎は撲られるかと思ったわけです。そして「何だか気の抜けた麦酒見たよう」になったのは直の「霊妙な手腕」の所為ですよね。

 たちまち一郎の怒りを鎮めたり、普通の夫婦のようにふるまったりと、そういうことを見せつけられると、「え? あのいっしょにはなんだったの?」という気持ちにもなるのではないでしょうか。

 これ、読者も同じじゃないですか。

 こう時間が経つと……一郎しつこいな、だから病気になるんだよ、あ、逆か、病気だからしつこいのか、二郎もとんだとばっちりだな……と思い込まされていませんか。結果的に具体性のない直の「霊妙な手腕」が状況を変化させていますよね。そして直の「霊妙な手腕」によって二郎が「あるもの」に仕立て上げられていることはわかりますよね。

 この「あるもの」が解ると『行人』のあらすじが解ります。解らないとあらすじが解らないと思います。

 わかりますよね。「あるもの」はずばりこのページに何度も文字として現れていますよ。


[余談]


 やがて景清の戦物語も済んで一番の謡も滞りなく結末まで来た。自分はその成蹟を何と評して好いか解らないので、少し不安になった。嫂は平生の寡言にも似ず「勇しいものですね」と云った。自分も「そうですね」と答えておいた。すると多分一口も開くまいと思った兄が、急に赭顔の客に向って、「さすがに我も平家なり物語り申してとか、始めてとかいう句がありましたが、あのさすがに我も平家なりという言葉が大変面白うございました」と云った。
 兄は元来正直な男で、かつ己の教育上嘘を吐かないのを、品性の一部分と心得ているくらいの男だから、この批評に疑う余地は少しもなかった。けれども不幸にして彼の批評は謡の上手下手でなくって、文章の巧拙に属する話だから、相手にはほとんど手応えがなかった。
 こう云う場合に馴なれた父は「いやあすこは非常に面白く拝聴した」と客の謡いぶりを一応賞めた後あとで、「実はあれについて思い出したが、大変興味のある話がある。ちょうどあの文句を世話に崩して、景清を女にしたようなものだから、謡よりはよほど艶である。しかも事実でね」と云い出した。(夏目漱石『行人』)

 この「我も平家なり」は遡れば清和源氏に連なると自慢していた漱石のことを想うと妙に感慨深いものです。

「目こそ闇けれども。人の思はく一言の内に知る者を。山は松風。
すは雪よ見ぬ花のさ むる夢の惜しさよ。さて又浦は荒磯によ する波も。
 聞ゆるは。夕汐もさすやらん。 さすがに我も平家なり。
      物語はじめて御慰みを申さん。

 これは盲目の藤原景清の台詞です。目は見えなくても人の考えていることは一言で見抜くよ、と言っています。これはロジックで言えば、「ああ、あの時のあの一言、あれはああいう意味だったのか、やっとわかった。なるほど。何故気が付かなかったんだろう」と一郎が「あること」に気が付いたという意味でしょうか。

 そちらにはかからず、平家だから「物語はじめて御慰みを申さん」と言っているのでしょうか。

 どうもはっきり解りませんね。「さすがに我も平家なりという言葉が大変面白うございました」に関してはもう少し寝かせて考えます。

 ただ一応引っかかっておきます。











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