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『行人』を読む 9 人格者一郎

 絶対者一郎、現実的にここは「自分以外は精神病者だ」という被害妄想を持っていた夏目漱石という作家の、ある意味本音の世界観が出たところなのでしょうが、ここで「兄さんの眼には御父さんも御母さんも偽りの器なのです。細君はことにそう見えるらしいのです」として二郎とお重が除外されているところが面白いですね。お重はともかく、

「二郎」
「はい」
「おれは御前の兄だったね。誠に子供らしい事を云って済まなかった」
 兄の眼の中には涙がいっぱい溜っていた。
「なぜです」
「おれはこれでも御前より学問も余計したつもりだ。見識も普通の人間より持っているとばかり今日まで考えていた。ところがあんな子供らしい事をつい口にしてしまった。まことに面目ない。どうぞ兄を軽蔑してくれるな」
「なぜです」
 自分は簡単なこの問を再び繰返した。
「なぜですとそう真面目に聞いてくれるな。ああおれは馬鹿だ」
 兄はこう云って手を出した。自分はすぐその手を握った。兄の手は冷たかった。自分の手も冷たかった。
「ただ御前の顔が少しばかり赤くなったからと云って、御前の言葉を疑ぐるなんて、まことに御前の人格に対して済まない事だ。どうぞ堪忍してくれ」(夏目漱石『行人』)

 ……こんな形で一郎はなんとか互いの人格を保とうとしていましたからね。

「詳しい事は追って東京で聞くとして、ただ一言だけ要領を聞いておこうか」
「姉さんについて……」
「無論」
姉さんの人格について、御疑いになるところはまるでありません
 自分がこう云った時、兄は急に色を変えた。けれども何にも云わなかった。自分はそれぎり席を立ってしまった。(夏目漱石『行人』)

 こうして怒った後でも、

 しばらくすると、兄と嫂が別席から出て来た。自分は平気を粧いながら母と話している間にも、両人の会見とその会見の結果について多少気がかりなところがあった。母は二人の並んで来る様子を見て、やっと安心した風を見せた。自分にもどこかにそんなところがあった。
 自分は行李を絡げる努力で、顔やら背中やらから汗がたくさん出た。腕捲りをした上、浴衣の袖で汗を容赦なく拭いた。
おい暑そうだ。少し扇いでやるが好い
 兄はこう云って嫂を顧みた。嫂は静に立って自分を扇いでくれた。
「何よござんす。もう直ですから」
 自分がこう断っているうちに、やがて明日の荷造りは出来上った。(夏目漱石『行人』)

 しばらくすると、なんとか治まって出てきますから。ここで機嫌を直したのは何故だろうと考えた小森陽一さんは、この間に直と一郎がセックスをしたのではないか、と言ってらっしゃいますね。『漱石激読』に書いてあります。兎に角小森陽一さんはセックスが好きですね。

 ここをロジックで読むと、やはりセックスではないでしょう。行李を絡げるくらいで汗だくになるのですから、セックスをしていたら一郎も直も汗だくです。二人がやっていたのは汗をかかないことです。ここは漱石が罠を仕掛けたところじゃないですか。小森さんはその罠に見事に引っかかったというわけです。

 これはどうでもいいことのようで大切なポイントです。近代文学2.0は感覚で読むのではなく、基本的にロジックで読んでいます。言われてみると当たり前ですよね。暑いときにセックスをすれば汗だくになります。ばれないわけはありません。それを誰も言ってこなかったわけです。芥川龍之介の『羅生門』を読んで、二階に死体を運ぶのは大変だろうと誰も言わなかったわけです。

 谷崎潤一郎の『刺青』を読んで「紂王の寵妃、末喜」ではおかしいとは言わないのです。

 本当ですよ。阿刀田高って作家ですけど気がつかないんです。

 何で気が付かないかなと不思議なんですが、気が付いた人も調べません。よく読んでくださいね。『麒麟』ではちゃんと正解がかかれているんですよ。近代文学2.0はそういうところをできるだけ丁寧に読んでいきます。だからただ感覚で「こうだろう」とは決めつけません。

 二郎が別室から出て来た時はこうでした。

 自分はその時場合によれば、兄から拳骨を食うか、または後ろから熱罵を浴せかけられる事と予期していた。色を変えた彼を後に見捨てて、自分の席を立ったくらいだから、自分は普通よりよほど彼を見縊っていたに違なかった。その上自分はいざとなれば腕力に訴えてでも嫂を弁護する気概を十分具そなえていた。これは嫂が潔白だからというよりも嫂に新たなる同情が加わったからと云う方が適切かも知れなかった。云い換えると、自分は兄をそれだけ軽蔑し始めたのである席を立つ時などは多少彼に対する敵愾心さえ起った。(夏目漱石『行人』)

 もし一郎に直が汗をかかない性的サービス、たとえば聖邪の口唇のようなことをして、それで一郎の機嫌が直っていたのだとしたら、それはもう人格とかそういう話ではなくなります。二郎の兄に対する軽蔑はますます深まったでしょう。

 ここはやはりなんとか人格を取り戻したということではないでしょうか。ここで一郎が人格者であることは、直を打擲することの「ふり」となります。セックスをしていたら猿です。猿には人格はありません。

[余談]

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 こんな感じでむきになる鷗外好き。











 

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