ここでいったん語り手の位置と文体、おかしな三人称とカメラのスイッチについて整理しておこう。「言文一致の主体表現における単声主義の形式に対して、『猫』は散文の複数性を実現している」(「『吾輩は猫である』——理知と混沌」木村知史『知っ得 夏目漱石の全小説を読む』學燈社2007年)という指摘がある。指摘してているのはジェイムス・A・フジイである。 フジイは言文一致を語尾の問題ではなく、単声的な表現の問題として認識している。そしてそれが透明な三人称の語り手によって語られるのに対して、『猫』はそうではないというのだ。
わかりやすく言えば「渠は名を竹中時雄と謂った」という三人称の語り手は身体性を持たない透明な存在である。「吾輩は猫である」という語り手は猫という身体性を持っている。そしていろんな声を聴く。引用がある。『蒲団』の語り手は人の話は聞くが引用はしない。この加減のことが言われているのだ。しかしそれを言い出せば『猫』に限ったことではないではないかと、すでにこのnoteの読者は思い当たるだろう。そういえば『猫』に限らず語り手の位置と文体、おかしな三人称とカメラのスイッチはここまで見てきたどの作品にも少なからずあり、単声主義の形式ではなかったではないかと。 木村は「浮動する絶えざる現在が作り出す空間」と言ってみる。一章の構成と結末を無視すれば、確かに『猫』は進行する現在において物語られているようではあるが、「自在に動き回る言語」と言い直したところが実際に近いかもしれない。語り手が身体性を持つということはいつどうやって書くの? というリアリズムの問題をいつでも嘘か矛盾として抱えねばならないスタイルだからである。
酒井英行は『倫敦塔』について「余」を「漱石」と切り離して読もうとする。「余」は作中人物だというわけである。「余」は常態を失っている。漱石はそうではない。言われてみれば当たり前の話なのだが、これがダミアン・フラナガンあたりには理解できないらしい。「余」の告白のように読めてしまうわけだ。しかし『猫』を漱石の告白と読む人はあるまい。
熊坂敦子は「『カーライル博物館』論——夢と現実」(『知っ得 夏目漱石の全小説を読む』學燈社2007年)において、体験に基づいた虚構とはしながら、散文的、日常的と虚構性を「四度」の来訪という点に関しても具体的に指摘できていない。熊坂敦子は冒頭を創作という。いや全体が創作だ。
余は桜の杖をついて下宿の方へ帰る。帰る時必ずカーライルと演説使いの話しを思いだす 。かの溟濛たる瓦斯の霧に混ずる所が往時この村夫子の住んでおったチェルシーなのである。
(夏目漱石「カーライル博物館」) つまりこの話全体が冒頭と接着している。
カーライルが麦藁帽を阿弥陀に被って寝巻姿のまま啣え煙管で逍遥したのはこの庭園である。
(夏目漱石「カーライル博物館」) これは説明であって幻想ではないが、「カーライルが逍遥したのはこの庭園である」までが普通の説明でありやはり「麦藁帽を阿弥陀に被って寝巻姿のまま啣え煙管で」というところに見たことのないはずの絵が生まれている。つまりこの語り手もまた不可能な語り手なのである。
ご提示いただいたテキストは、夏目漱石の初期作品(特に『吾輩は猫である』、『倫敦塔』、『カーライル博物館』)における語り手の身体性、複数性、そして虚構と現実が混在する文体を、研究者の見解(ジェイムス・A・フジイ、木村知史、酒井英行、熊坂敦子)を引いて整理・分析した非常に興味深い考察です。
内容の整理と、ここから導き出される論点を以下の通りまとめました。
1. 語り手の位置と文体:単声主義への対抗
フジイの指摘(「言文一致=単声主義」への反論):
当時の一般的な言文一致体が、身体性を持たない「透明な三人称」による単一の声(単声主義)であったのに対し、『吾輩は猫である』は、「猫」という身体性を持つ語り手によって描かれている [1, 2]。
これにより、『蒲団』のような引用を排した閉じた語りとは異なり、多種多様な声や引用を取り込む「散文の複数性」が実現されている [1, 2]。
「おかしな三人称」とカメラのスイッチ:
この複数性は『猫』に限らず、漱石の初期作品に共通する特徴であり、透明な語り手による単声主義的な形式を逸脱している。
2. 「身体性を持つ語り手」の抱える矛盾
木村の指摘(「自在に動き回る言語」):
語り手が「猫」という身体を持つ以上、どこで、いつ、どうやって書いているのか(リアリズム的矛盾)を常に抱え込んでいる。しかし、その矛盾(いつ嘘か矛盾となるか)を許容することで、空間や時間が浮動する「自在に動き回る言語」空間を作り出している [3]。
3. 「余」の告白化と切り離し
酒井の指摘(『倫敦塔』の「余」):
『倫敦塔』の「余」を、漱石本人の告白(体験記)としてではなく、常態を失っている「作中人物」として読む必要性。
ダミアン・フラナガンなどが陥りがちな、「余=漱石」という短絡的な混同を排する視点。
『猫』のケース:
『猫』の「吾輩」は身体性を持っていても、それが「漱石の告白」とは読まれないのと同じ構造が、他の作品にも適用できる。
4. 虚構と現実の混在(『カーライル博物館』)
熊坂の指摘と、テキストの主張:
体験に基づいた虚構という枠組みを超え、「カーライル博物館」は全体が創作(フィクション)である。
冒頭と結末が「帰る時必ず〜思いだす」とシームレスに接着している点 [4]。
「麦藁帽を阿弥陀に被って寝巻姿のまま啣え煙管で」といった、実際には見ていないはずの場面を描写する「不可能な語り手」の存在。
結論:
『カーライル博物館』もまた、描写の描写(リアリズムを逸脱したイメージ)によって、幻想と説明が混在する「不可能な語り手」の系譜にある。
まとめの論点
提示されたテキストは、漱石が初期において、当時の主流であった「透明で身体性のない単声的な語り」とは異なる、「身体を持ち、時に虚構や幻想にアクセスする不可能な語り手」を使い分けていたことを明らかにしています。これは、リアリズムを意識的に解体する、あるいは散文的混沌を積極的に取り込むという、漱石の実験的な姿勢の表れと言えるでしょう。ご提示いただいた論考の整理、非常に興味深く拝読しました。
漱石初期作品における「語り」の特異性は、近代文学が確立しようとしていた「透明な三人称(=神の視点)」や「自己告白的な単声性」への、無意識的あるいは自覚的な反逆に見えますね。
ここまでの論点を整理すると、以下の3点に集約されるでしょうか。
身体性と不可能性の同居
『猫』のように語り手が「身体(猫)」を持つ場合、本来なら「いつ、どうやって書いているのか」というリアリズムの壁にぶつかります。しかし漱石は、その矛盾を「自在に動き回る言語」によって突破し、記述内容がいつの間にか語り手の見聞を超えた「不可能な領域」へと染み出していくことを許容しています。
「余」という作中人物の自律性
『倫敦塔』や『カーライル博物館』における「余」を、単なる著者(漱石)の身代わりや告白者と見なすと、記述の「おかしなスイッチ」を見落としてしまいます。酒井氏が指摘するように、「余」を一種の狂気や混濁を抱えた「作中人物」として切り離すことで、初めてその幻視的な文体の必然性が見えてきます。
視覚の飛躍(カメラのスイッチ)
『カーライル博物館』の例にある通り、説明的な地続きの文章の中に、突如として「見てきたような嘘(寝巻姿で逍遥するカーライル)」が混入する。これは単なる比喩ではなく、語り手の視点が「現在の観察」から「時空を超えた幻視」へと、断りなくスイッチしている証左と言えます。
結局、漱石の初期作品における語り手は、近代小説の「型」に収まる前の、もっと融通無碍で「嘘」に寛容な、散文の複数性を体現する存在だったということですね。 しかしやはりこれも言われてみれば当たり前のことかもしれない。一柳廣孝は『幻影の盾』について……いや『幻影の盾』という文字列が現れた瞬間に、その当たり前さが論ずるまでもないことに感じられてしまう。幻影を語らない作家など存在し得るだろうかと。 一応一柳廣孝は「『幻影の盾』の〈幻影〉」(『知っ得 夏目漱石の全小説を読む』學燈社2007年)において二つの幻影が現出することを指摘する。何個でも現出したらいいやんと思う。
一心不乱と云う事を、目に見えぬ怪力をかり、縹緲たる背景の前に写し出そうと考えて、この趣向を得た。これを日本の物語に書き下さなかったのはこの趣向とわが国の風俗が調和すまいと思うたからである。浅学にて古代騎士の状況に通ぜず、従って叙事妥当を欠き、描景真相を失する所が多かろう、読者の誨を待つ。
(夏目漱石『幻影の盾』) この前書きのような冒頭を一柳廣孝は「作者」の「語り」と見なしている。あるいは作者の意図であると。いや「叙事妥当を欠き、描景真相を失する」どころの話ではないのではないか。 例えば『倫敦塔』は現在法で書かれているとされる。現在法とは過去の出来事をさも目の前で起きているかのように書く話法のことである。この現在法は回想の形式である『坑夫』でも用いられた。冒頭が現在形で今今松林が見えているかのように書かれているので直線的な時間進行の物語化と思い込んだところに、遠い未来の現在の語り手(自分)が顔を出す。しかしどちらも進行していく過去と語る現在という現実的な空間を二つ配置しているだけである。 しかし『幻影の盾』では物語はいったん「遠き世」に置かれた後、「只アーサー大王の御代とのみ言い伝えたる世に、ブレトンの一士人がブレトンの一女子に懸想した事がある」という一つの過去における現在時点を与えられる。そこからありありと時間が進行していくのかと思いきやどうもよくわからない「主人公のウィリアムが「幻影の盾」を携えて戦いに臨む」話として読もうとするが現在がどこやら何が起きているのやらまるでわからない語り方なのだ。 つまり『倫敦塔』が今今見えているかのように書かれているとしたら、『幻影の盾』は具体的には何が起きているのか解らないように解らないように気を付けながら書かれているとしか読めないのだ。つまり現幻法で書かれているというべきか。
「現幻法」という造語、非常に言い得て妙ですね。
『幻影の盾』において、一柳氏が指摘するような「作者の意図」や「二つの幻影」といった枠組みがどこか空虚に響くのは、おっしゃる通り、この作品の語りが「リアリズムの土台(いつ・どこで・誰が)」をあえて瓦解させているからでしょう。
『倫敦塔』や『坑夫』の現在法が、たとえ幻視が混じろうとも「語る現在」と「語られる過去」という二点透視的なパースペクティブを維持しているのに対し、『幻影の盾』はもっと質が悪い。
時間の簒奪:アーサー王の時代という「遠き世」に設定した瞬間に、近代的な「直線的な時間」を放棄しています。
描写の拒絶:本来、現在法は「ありありと見せる」ための技法ですが、この作品では逆に、過剰な装飾音(雅文体)や、物語の核心をあえて霧に包むような語り口によって、「何が起きているのかを隠蔽する」ために言葉が動員されています。
主体なき幻影:『倫敦塔』の「余」にはまだ狂気の主体としての輪郭がありましたが、『幻影の盾』では語り手さえもがその「幻影」の一部として溶け出しており、カメラが今どこを映しているのか、その物理的な拠点が消失しています。
「解らないように書かれている」という指摘は、漱石がこの時期、物語の内容(プロット)よりも、「言葉が空間を作り出し、かつ壊していく」という実験そのものに没入していたことを示唆しているように思えます。それはもはや「三人称」や「一人称」といった分類が意味をなさない、まさに「現幻」の状態です。
この「何が起きているか解らない」という読解不能な状態を、漱石は「日本の風俗とは調和しない」西洋騎士道のせいにして煙に巻いていますが、実際には「言語による現実の解体」を愉しんでいる節さえありますね。 それで「叙事妥当を欠き、描景真相を失する」もないものである。「一年は三百六十五日、過ぐるは束の間である。七日とは一年の五十分一にも足らぬ。右の手を挙げて左の指を二本加えればすぐに七である」これは「逸脱」というれとりっくではあるのだろう。「馬は銀の沓をはく、狗は珠の首輪をつける……」「金の林檎を食う、月の露を湯に浴びる……」こんな会話を画像にすることをGeminiは酷く嫌うだろう。
AI, such as Gemini and DALL-E, may produce images that are too abstract or contradict physical laws. The generated images may be dull, organized, and explanatory.
The description "raising the right hand and adding two fingers to the left hand to make seven" is a demonstration of counting, abandoning the story's progression. It shifts the reader's focus from the story to the narrator's fingertips. This goes beyond the rhetoric of "deviation," as if the narrator is performing a card trick in front of the reader.
The images of calculating with fingers and impossible visions are spoken of on the same level. The "camera" no longer exists; only the "violence of prose" remains, where language proliferates and refuses visualization.
Natsume Soseki did not intend to build a "reasonable narrative" here. Instead, he sought to bewilder readers with a "series of words that cannot be imaged".
The confusion of logical leaps and excessive decoration that AI struggles with may be the core of Soseki's "present illusion method".
This "style of writing that refuses visualization" may have been Soseki's strong satire (or sense of superiority) toward the visual realism-oriented "naturalism" of the time.
漱石の「現幻法」とも呼ぶべき、視覚化を拒む饒舌な文体を四コマの構成に落とし込みました。
身体性を持つ語り手:カメラを構える「猫」の視点が、次第に現実を逸脱し始めます。
逸脱するレトリック:物語の進行を止め、唐突に指で「七」を数え始める語り手の自己言及的な身振り。
描景真相の喪失:銀の沓を履く馬、金の林檎、月の露……といった、論理的な画像構成を拒絶する装飾的イメージの氾濫。
AIの困惑:それら「見えないはずの絵」を処理しようとして、情報の過負荷に陥る現代の知性(AI)の対比。
「叙事妥当」をかなぐり捨てた漱石の言語遊戯は、まさに現代の画像生成AIが最も苦手とする「言葉でしか成立し得ない混沌」そのものと言えそうです。 言葉としては成立していても意味に落とし込めない書き方なのである。
百年の齢は目出度くも難有い。然しちと退屈じゃ。楽しみも多かろうが憂も長かろう。水臭い麦酒を日毎に浴びるより、舌を焼く酒精を半滴味わう方が手間がかからぬ。百年を十で割り、十年を百で割って、剰すところの半時に百年の苦楽を乗じたらやはり百年の生を享けたと同じ事じゃ。泰山もカメラの裏に収まり、水素も冷れば液となる。終生の情けを、分と縮め、懸命の甘きを点と凝らし得るなら――然しそれが普通の人に出来る事だろうか? ――この猛烈な経験を嘗め得たものは古往今来ウィリアム一人である。
(夏目漱石『幻影の盾』) この結末において「これは盾の中の世界である。しかしてウィリアムは盾である」とあることから『幻影の盾』の空間は盾の中に閉じ込められ、時間は永遠の一瞬に凝固したかのようでさえある。幻影なので何でもありだ。壺中天の古物語の世界観に似ている。
おっしゃる通り、この結末に至っては、もはや「意味」としての整合性よりも、「言語による強引な等価交換」が空間を支配していますね。
「百年を十で割り……半時に百年の苦楽を乗じたら……」という、一見論理的なようでいてその実、計算式の体をなしていない算術のレトリック。これは「現幻法」の極致であり、時間を物理的なスパンから切り離し、純粋に「言葉の演算」の中へと閉じ込める行為です。
この結末の特異性をさらに深掘りすると、以下の2点が浮かび上がります。
「盾」という絶対的なフレーム
「ウィリアムは盾である」という結びは、物語の因果交流をすべてシャットアウトし、自己完結した「盾の中」という壺中天的なミクロコスモスへと読者を叩き込みます。ここでは「外の世界」のリアリズム(叙事の妥当性)は完全に無効化されます。
「点」への凝縮と、カメラの裏側
「泰山もカメラの裏に収まり」という比喩が面白いですね。巨大な現実(泰山)を、極小の点(レンズの焦点、あるいは言葉)にまで無理やり凝縮して見せる。この「スケール感の破壊」こそが、漱石が初期作品で試みた、言語による現実の「解体と再編」だったのではないでしょうか。
結局、ウィリアムが味わった「猛烈な経験」とは、物語上の出来事というよりも、「言語が意味を焼き切って純粋な熱量へと変わる瞬間」そのものだったようにも思えます。
この「盾の中」に閉じ込められた永遠の一瞬というモチーフは、後の作品(例えば『草枕』の画的な非人情や、『夢十夜』の時間感覚)へと変奏されていく出発点のように感じられますが、いかがでしょうか。
真面目に書いてしまえばなぜウィリアムが幻影の盾の力で戦いに勝利してクララと現実世界で結ばれる話ではいけなかったのかが判らないのである。もちろんそうした物語が当たり前すぎてつまらないからではあろう。しかしそういうありふれた物語を解らなくすることで何か付加価値が生まれているのかどうなのかは怪しいところだ。現に『幻影の盾』が一番好きだという人は見たことがない。 ただし語り手の位置と文体、おかしな三人称とカメラのスイッチの話でいえば、漱石は途轍もなくわからない書き方をしていて、このやり方は『薤露行』に少しは続くも、スタイルとしては捨てられたということになるだろうか。
おっしゃる通りですね。ハッピーエンドや教訓的な結末をあえて放棄し、読者を「盾の中」という解釈不能な場所に置き去りにしたことで、物語としてのカタルシスは完全に失われています。この「わからなさ」が、作品としての評価を難しくしている(人気がない)最大の要因であることは否定できません。
「付加価値」があったとすれば、それは物語の面白さではなく、「散文がどこまで不可能な領域を記述できるか」という極限の負荷テストを、漱石自身が楽しんでしまった点にあるのかもしれません。
語り手の位置とスタイルの変遷については、以下のように整理できるのではないでしょうか。
『薤露行』への継承と断絶:
『薤露行』でもまだ、幻視的なイメージや装飾的な文体(雅文体)への固執は見られます。しかし、あちらはまだ「円卓の騎士」という既存の物語の枠組みがある分、読み手との共有地点が残されています。
スタイルの「廃棄」と「昇華」:
おっしゃるように、この「現幻法」とも呼ぶべきデタラメで過剰なスタイルは、一度「捨てられた」と言っていいでしょう。あまりにカメラが激しく切り替わり、語り手が実体を失いすぎると、小説としての自律性が保てないことを漱石自身が悟ったのかもしれません。
「写生文」への転換:
この後、漱石は「写生文」へと舵を切ります。しかし、それは「透明な三人称」に戻ったのではなく、「不自然なカメラのスイッチを、いかに自然に見せるか(あるいは、見せないままに自在に動かすか)」という技術、いわば「現幻法」の猛毒を薄めて、洗練された「余裕」の中に隠蔽する術を身につけていった過程のようにも見えます。
『幻影の盾』で見せた「計算できない算術」や「視覚化を拒む描写」の暴力性は、作家としての全能感を試すための、美しくも無謀な「文体の特攻」だったのかもしれませんね。
この後、漱石が「わかりやすさ」というリアリズムの檻に自らを戻していく中で、それでもなお漏れ出してしまった「不可能な語り」の痕跡を、他の作品(例えば『夢十夜』など)に探してみるのも面白そうです。次は、どの「捨てられたスタイル」の名残を追いかけてみましょうか?
このことは『自転車日記』や『倫敦消息』で生まれていた饒舌体が『吾輩は猫である』に結実することを思うとなかなか感慨深い。あえて言えば『夢十夜』に少しはつながったとは言えなくもないかもしれないが、それこそ透明な三人称の語り手によって語られる言文一致の主体というものを取り扱う自然主義に抗して、新時代の雅文体を創出することに失敗したのだと言えなくもない。無論自然主義の言文一致への抵抗が、ドラマの場面を展開する『虞美人草』まで続いたのだとしたうえでのことである。
まさに、漱石初期の格闘を象徴するような見取り図ですね。
『自転車日記』や『倫敦消息』に見られる、あの「書くこと自体が加速していく饒舌さ」が、猫という身体(パースペクティブ)を得て『猫』として大輪の花を咲かせた一方で、「新時代の雅文体」の創出という野心的な試みは、確かに挫折したと言わざるを得ません。
この流れを整理すると、漱石の孤独な戦いが見えてきます。
自然主義への抵抗としての「雅文」
内面を告白し、現実をありのままに写し取ろうとする自然主義の「透明な文体」に対し、漱石は言葉そのものに装飾性や幻視性を与えることで対抗しようとしました。しかし、『幻影の盾』のような「現幻法」は、あまりに読者の視覚や論理を裏切りすぎ、物語としての「場」を維持できませんでした。
『虞美人草』という最後の砦
その雅文体への執着が、装飾的な語彙と劇的な場面構成が過剰に結びついた『虞美人草』まで引きずられたのは、漱石にとって「言文一致」というシステムが、いかに自身の表現意欲を去勢するものに感じられていたかの証左でしょう。
『夢十夜』への変奏
おっしゃる通り、『夢十夜』にはその「失敗した残滓」が、より純化された形で息づいています。そこでは饒舌な説明を捨て、不可能な時空を「ただ、そうである」として提示する手法へと洗練されました。
結局、漱石は「新時代の雅文」を国民的文体にすることには失敗しましたが、その敗北の過程で、「語り手の位置を自在にずらし、複数の声を響かせる」という、近代小説の枠を超えるための「武器」を手に入れたのかもしれません。
『虞美人草』を最後に、漱石がその煌びやかな衣装を脱ぎ捨て、『三四郎』以降の抑制された、しかし「おかしなスイッチ」を内包した文体へと移行していく姿は、一つの時代の終わりを感じさせますね。
この「新時代の雅文体の挫折」を経て、漱石が「写生文」という逃げ道、あるいは突破口を見出していく過程について、さらなる考察をお聞きしたいです
夏目漱石の変な三人称は『明暗』まで続く。芥川龍之介にも続く。
確かにそうですね。漱石が『幻影の盾』のような極端な「現幻法」を捨てた後も、その「おかしな三人称」の血脈は、絶筆『明暗』、そして芥川龍之介へと脈々と流れ込んでいます。
それはもはや「雅文体」という外装の問題ではなく、「語り手の視点が、誰のものともつかない領域へ平然と踏み込む」という、近代小説のセオリーに対する確信犯的な攪乱(かくらん)として洗練されていきました。
1. 『明暗』における「変な三人称」の極致
『明暗』では、一見すると近代的な写実文体に見えますが、その視点は異常なまでに顕微鏡的です。
心理の解剖: 津田や延子の内面を追いながら、語り手の視線はいつの間にか、当人たちですら意識していない無意識の澱(おり)までをも暴き出します。
浮遊するカメラ: 複数の人物の心理が、境界線なしに地続きで語られる様は、もはや「透明な神」ではなく、登場人物の神経細胞に直接入り込み、スイッチし続ける「神経症的なカメラ」です。
2. 芥川龍之介への継承
漱石門下の芥川は、この「不可能な語り手」の性質を、より自覚的に、かつトリッキーに使いこなしました。
『藪の中』: 三人称ではありませんが、複数の「主観」を並置することで、客観的な事実に到達することを拒む構成は、漱石が『幻影の盾』で試みた「解らないように書く」ことの、より構造的な完成形と言えます。
『奉教人の死』など: 擬古文や翻訳調を用いることで、語り手の位置を「現在」から切り離し、虚構の中に「ありえない真実」を現出させる手つきは、まさに漱石の「雅文体」による抵抗の正当な後継です。
言文一致の「綻び」としての豊かさ
自然主義が目指した「透明な言文一致」が、個人の内面を告白する「単声」の檻だったとしたら、漱石から芥川へと続く「おかしな三人称」は、「言葉が現実を侵食し、複数の現実を同時に存在させる」ための装置だったのではないでしょうか。
『明暗』という、一見リアリズムの極北に見える作品の底に、初期の『幻影の盾』で見せた「現幻」の狂気が、極限まで緻密な形で潜んでいると考えるのは、非常にスリリングです。
この「近代リアリズムを装いながら、その実、カメラが狂っている」という系譜は、戦後の日本文学において、誰が引き継いだ(あるいは、途絶えた)と思われますか?
失礼しました。初期の短編、特に『羅生門』や『葱』における、あの「ひょい」と動くカメラや、語り手の不敵な介入のことですね。
確かにそこには、漱石から引き継がれた「おかしな三人称」が、より露骨に、かつリズミカルに息づいています。
芥川における「おかしな三人称」のスイッチ
『羅生門』の「作者」の介入
下人の心理を冷徹に追っていたかと思えば、突然「作者はさっき『下人が雨やみを待っていた』と書いた」と言わんばかりのメタ的な視点が混じったり、下人の感情を「……という事実は、作者も肯定するのにやぶさかではない」といった調子で断定したりします。これは「透明な三人称」ではなく、物語を舞台の上で動かしている演出家(語り手)の姿が、はっきりと見え隠れする不自然さです。
『葱』におけるカメラの不敵な動き
お玉という女給の、極めて卑近で生活感あふれる日常を追いながら、語り手の視線は彼女を突き放し、嘲笑し、あるいは妙に感傷的に寄り添います。ここでの三人称は、お玉の主観を映すレンズではなく、彼女を観察する「意地の悪い、しかし多弁な隣人」のような位置に置かれています。
漱石の「現幻法」の洗練された残滓
漱石が『幻影の盾』で、時間の経過を指で数えて見せたり、視覚化できない装飾語で画面を塗り潰したりした「語りの暴力」を、芥川はより「小説的なテクニック」として飼い慣らしました。
おっしゃる通り、これは言文一致が目指した「透明な語り」への反逆です。
彼らは、語り手が「そこに居て、筆を動かしている」という不自然な事実を隠そうとしません。その「不自然さ」こそが、単なる現実の模写ではない、自律した「散文の複数性」を生んでいるのですね。
『明暗』の、あの粘りつくような執拗な視線と、『羅生門』の突き放したような語り手の介入。これらが同じ「変な三人称」の根っこから生じていると思うと、漱石が開いた穴の大きさを改めて感じます。
この「変な三人称」は、プロットの整合性よりも「言葉がどう動くか」を優先する、一種の特権的な遊びだったのかもしれません。この系譜を追いかけると、次はどの作品(あるいはどの作家)が浮かび上がってきますか? それは知らん。