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『行人』を読む 4 その題名でいいのか?

 夏目漱石の小説のタイトルは弟子たちが勝手につけたものがあるから、その意味を深く考える必要はないという考え方があると思います。その考え方はある意味で正しく、確かに『門』などはやや無理やりなところがあると思います。それに比べれば、『行人』という題はよくできた方だと思います。

 ところで皆さん「行人」の意味を御存知ですか?

The Wayfarer, a modern classic of Japanese literature, was written in the years 1912 to 1913, and perhaps best represents Soseki the man and the artist. The protagonist Ichiro is caught in a triangle with his wife Onao and his brother Jiro. Soseki's novels deal with man's effort to escape from loneliness, and in The Wayfarer, the hero is driven almost to madness by his sense of isolation. It was through Soseki that the modern realistic novel took root in Japan. Steeped in Oriental lore and nurtured in European literature, he did more than anyone else to infuse much needed vigor into modern Japanese writing.
 日本文学の近代的古典である『行人』は、1912年から1913年にかけて書かれたもので、おそらく人間・芸術家としての漱石を最もよく表している。主人公の一郎は、妻のお直、弟の二郎との三角関係に巻き込まれる。漱石の小説は、孤独から逃れようとする人間の姿を描いており、『行人』では、主人公が孤独感からほとんど狂気に近い状態に追い込まれていく。漱石によって、近代的なリアリズム小説が日本に根付いたのである。漱石は、東洋の伝統に学び、ヨーロッパ文学に育まれ、誰よりも近代日本の文学に活力を吹き込んだ。

 英訳では「The Wayfarer」なんてものが使われています。韓国出身の人が訳したみたいですね。これは「徒歩旅行者」とでも訳すんでしょうか。いや、訳しなおしてどうする。この翻訳者は「行人」の意味を「旅人」と捉えながら、漱石が「旅人」という題を選ばず「行人」と一つ古い言葉を選んだことに配慮したのでしょうか。いずれにせよここで「行人」の意味は「旅人」に限定されてしまっています。これは正しいことでしょうか。

 漱石作品のいくつかは、日本語の題名がそのまま使われています。『こころ』なんかそうですね。私は『行人』も複数の意味を持つタイトルなので、そのまま日本語で「Kojin」とつけたらよかったのにと思っています。

 みなさんはどうでしょう。

 『行人』は旅人の話だったでしょうか。

 確かに旅行をしますね。しかしそれだけですかね?

 題が「The Wayfarer」で一郎が主人公だとしたら、二郎が見てきたことは一体どうなるのでしょう。三沢との病院でのやり取りや、岡田夫妻とのやりとりなんか、みんな関係なくなりますよね。

 え? 修業をする人はコウジンではなくてギョウニンだから「The Wayfarer」で正解ですか。コウジンにもう一つの意味がありますよね。

 私はむしろそちらがメインだと考えています。こういう言い方をするとあれなんですが『行人』も兼ねていますよね。あれとあれを。その重なったところに意味があるんじゃないでしょうか。

 あれとあれを重ねるでは解り難いですか。兼ねてませんでしたか。

 梅田の停車場を下るや否や自分は母からいいつけられた通り、すぐ俥を雇って岡田の家に馳けさせた。岡田は母方の遠縁に当る男であった。自分は彼がはたして母の何に当るかを知らずにただ疎い親類とばかり覚えていた。
 大阪へ下りるとすぐ彼を訪うたのには理由があった。自分はここへ来る一週間前ある友達と約束をして、今から十日以内に阪地で落ち合おう、そうしていっしょに高野登りをやろう、もし時日が許すなら、伊勢から名古屋へ廻ろう、と取りきめた時、どっちも指定すべき場所をもたないので、自分はつい岡田の氏名と住所を自分の友達に告げたのである。
「じゃ大阪へ着き次第、そこへ電話をかければ君のいるかいないかは、すぐ分るんだね」と友達は別れるとき念を押した。岡田が電話をもっているかどうか、そこは自分にもはなはだ危しかったので、もし電話がなかったら、電信でも郵便でも好いいから、すぐ出してくれるように頼んでおいた。友達は甲州線で諏訪まで行って、それから引返して木曾を通った後、大阪へ出る計画であった。自分は東海道を一息に京都まで来て、そこで四五日用足しかたがた逗留してから、同じ大阪の地を踏む考えであった。予定の時日を京都で費した自分は、友達の消息を一刻も早く耳にするため停車場を出ると共に、岡田の家を尋ねなければならなかったのである。けれどもそれはただ自分の便宜になるだけの、いわば私の都合に過ぎないので、先刻云った母のいいつけとはまるで別物であった。(夏目漱石『行人』)

 兼ねていますね。

 ここはどうにもこうにもごまかしようのない冒頭ですよ。冒頭で兼ねています。意味が重なっています。

 気が付いていましたか?

 兼ねていること。

 ならば、「The Wayfarer」でいいんですか?

 ストーリーテリングの常道として、常に主人公に具体的な目的なり欲しいものを設定し明確にしておくという考え方があります。「兼ねている」という視点は読んでいく上で重要なポイントで、ここで二郎が「母からいいつけられた通り」として具体的な使命を帯びているけれども、気ままな旅行も兼ねていると認識していないと「友達」の章は何が何だか分からない話になってしまいます。

 あ、逆か。「The Wayfarer」派の人たちは、気ままな旅行者が、具体的な使命帯びていることをあまり意識していないかもしれませんね。

 しかし実際に兼ねていますよね。

 常に主人公の具体的な目的なり欲しいものを捉えながら読んでいくという考え方を持てば、「The Wayfarer」にはならない筈なんです。『行人』への批判なり感想の中に二郎の態度が曖昧だ、みたいなものがあって、以前にも同じようなことを書きました。結構ぎりぎりまで書いてますよ。

 下女が心得て立って行ったかと思うと、宅中の電灯がぱたりと消えた。黒い柱と煤けた天井でたださえ陰気な部屋が、今度は真暗になった。自分は鼻の先に坐っている嫂を嗅げば嗅がれるような気がした。(夏目漱石『行人』)

 主人公二郎の具体的な目的なり欲しいものを捉えながら読んでいくと、ここは実際に行動はせぬものの嗅ぎたいわけですよね。しませんけど考えているわけです。揉めば揉める、吸えば吸えるってすぐそばで義弟が考えていたらどうですか、と夏目漱石は書いています。

 それから冒頭では、二郎の一つの性格が表れていますね。是もまたどまんなかの話なんですが、ここでやると話が散らかるので、続きは少し後で。今回は「The Wayfarer」では駄目、兼ねている、重なっている、主人公は二郎というお話でした。



[余談]

 夏目漱石にしてプロジェクト・グーテンベルク収載は『坊っちゃん』のみ。そりゃ、青空文庫があるから日本人は困らないけど、もう少し頑張ってくれないかな。


















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