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蓮實重彦の漱石論について② 確証バイアスとしての青の誘惑

「すると石の下から斜に自分の方へ向いて青い茎が伸びて来た。」「六つになる子供を負ぶってる。たしかに自分の子である。ただ不思議な事にはいつの間にか眼が潰れて、青坊主になっている。」「左右は青田である。路は細い。」「山門の前五六間の所には、大きな赤松があって、その幹が斜めに山門の甍を隠して、遠い青空まで伸びている。松の緑と朱塗りの門が互いに照り合ってみごとに見える。」「非常に広い原で、どこを見廻しても青い草ばかり生えていた。」「この時庄太郎はふと気がついて、向うを見ると、遥かの青草原の尽きる辺りから幾万匹か数え切れぬ豚が、群をなして一直線に、この絶壁の上に立っている庄太郎を目懸けて鼻を鳴らしてくる。」「黒雲に足が生えて、青草を踏み分けるような勢いで無尽蔵に鼻を鳴らしてくる。」(夏目漱石『夢十夜』)

青空の色がぎらぎらと眼を射るように痛烈な色を私の顔に投げ付けた。」「私の自由になったのは、八重桜の散った枝にいつしか青い葉が霞むように伸び始める初夏の季節であった。」「私は青く蘇生えろうとする大きな自然の中に、先生を誘い出そうとした。」(夏目漱石『こころ』)

「さあ、御あたり。さぞ御寒かろ」と云う。軒端のきばを見ると青い煙りが、突き当って崩れながらに、微かすかな痕をまだ板庇にからんでいる。」「五六枚の飛石を一面の青苔が埋めて、素足で踏みつけたら、さも心持ちがよさそうだ。」「朝食の言訳も何にも言わぬ。焼肴に青いものをあしらって、椀の蓋をとれば早蕨の中に、紅白に染め抜かれた、海老を沈ませてある。ああ好い色だと思って、椀の中を眺めていた。」「ことに青味を帯びた煉上げ方は、玉と蝋石の雑種のようで、はなはだ見て心持ちがいい。のみならず青磁の皿に盛られた青い煉羊羹は、青磁のなかから今生れたようにつやつやして、思わず手を出して撫でて見たくなる。」「青い頭はすでに暖簾をくぐって、春風に吹かれている。」「自在に泥団を放下して、破笠裏に無限の青嵐を盛る。」「青春二三月」「秋の霧は冷やかに、たなびく靄は長閑かに、夕餉炊く、人の煙は青く立って、大いなる空に、わがはかなき姿を托す。」「熊笹はいよいよ青い。」「高さは七八尺もあろう、糸瓜ほどな青い黄瓜を、杓子のように圧しひしゃげて、柄の方を下に、上へ上へと継ぎ合わせたように見える。」「それにもかかわらず一輪はついに一輪で、一輪と一輪の間から、薄青い空が判然と望まれる。」「崖の下は今過ぎた蜜柑山で、村を跨いで向うを見れば、眼に入るものは言わずも知れた青海である。」「色は一刷毛の紺青を平らに流したる所々に、しろかねの細鱗を畳んで濃かに動いている。」(『草枕』)

「渦は青い田の中をうねうねと延びて行く。」「時々薄青い焔が炭の股から出る。」「青味がかった黄色い瞳子を、ぼんやり一所に落ちつけているのみである。」「信号の灯光はでも赤でも全く役に立たないほど暗くなるからである。」…(『永日小品』)

 もういい加減蓮實重彦や柄谷行人を崇め敬うのは止めにしたらどうだろうか。

 例えば「赤頭巾ちゃん」を日本文学の中に正式に取り込んだのは庄司薫の『赤頭巾ちゃん気をつけて』であり、そこでは「赤頭巾」は「赤軍派」や「連合赤軍」の手前の「赤」、つまり東大全共闘らを含めたいわゆる「赤」、つまり共産主義者や学生運動家らを指し示し、「気をつけて」というシンパシーを表現していたと言ってよいだろう。『赤頭巾ちゃん気をつけて』は全共闘の活動により東大入試が中止になり、おろおろする日比谷高校のエリート薫くんが「海のような大きな男になろう」と決意する話である。全共闘が「受験生には申し訳ないが…」と古き良き人間性を示すことのできた時代のおとぎ話と言ってよいだろう。

 続いて書かれた『さよなら怪傑黒頭巾』もまた学生運動へのシンパシーに満ちた小説である。黒頭巾とはすなわち高垣眸原作の小説・映画のキャラクターであるヒーローを意味すると同時に、黒ヘルのノンセクトラジカルまたは無政府主義者を示すかと思いきや、作中に現れるのは転向する左翼の残党である。庄司薫はそこにも優しい同情の眼差しを向ける。「さよなら」とは転向、あるいはご卒業を肯定する言葉であり、怪傑とは皮肉ではなくおべんちゃらである。

 『白鳥の歌なんか聞こえない』は学生運動の話ではない。博学な老人の死を見つめる話である。ここで「白」は既に色としては意味を持ち得ず「白鳥の歌」というプラトン、ソクラテス、あるいはヨーロッパの伝承に連なることで漸く意味を成す。『白鳥の歌なんか聞こえない』はむしろ日本一「ふるえる」小説だと言ってよいだろう。どれだけふるえているのか是非ご一読いただきたい。『白鳥の歌なんか聞こえない』から「白」という色彩を取り出すことには殆ど意味がない。

 『ぼくのだいすきな青髭』の「青」も単なる色彩としての意味は持たない。青髭はシャルル・ペロー執筆の童話の主人公の呼び名であり、残酷な男という性質を表わしている。『ぼくのだいすきな青髭』は小さな偽物の共同体の失敗を又優しく認める童話である。その青髭は実在しないなどと今更言ってみることに何か意味があるとも思えぬが、そういえば「赤頭巾」もペローやグリムの童話であった。

 これら四色は相撲場の天井にぶら下がる房、青龍、朱雀、白虎、玄武に対応すると言ってみたところで村上春樹の『色彩を持たない多崎つくると 彼の巡礼の年』に意味を与えることはできないだろう。村上春樹は一旦は庄司薫との和解を匂わせながら、そこに「灰田」という意味ありげな色を持ち込む。それだけでは納得できなかったのか『騎士団長殺し』では「免色」という奇妙な名前を持ち出す。まるで『色彩を持たない多崎つくると 彼の巡礼の年』で見せた庄司薫との和解をなかったことにするかのように。

 ある小説から特定の色を取り出すこと、そして何やら意味ありげに見せることはさして難しいことではない。共感覚とまでは言わなくても、色は意味を有している。しかしそんなものを崇め敬うのはもういい加減にしたらどうか。そのあまりの意味のなさを庄司薫と村上春樹がもう証明している。




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