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石原千秋の『漱石はどう読まれてきたか』をどう読むか56 歴史は交替しない

 佐藤泉の「『それから』―物語の交替―」は世界観の物語が交替するという論文のようだ。つまり三千代と代助の関係ではなく、長井得と代助の関係で見ていこうという魂胆だ。

 長井親子の間の断層は父子間、世代間の齟齬といったものではなく、その背後のよりおおきな歴史、社会関係の総体を示唆していると見なければならない。

(石原千秋『漱石はどう読まれてきたか』新潮社 2010年)

 これは孫引きの部分に当たり、佐藤泉の生の言葉である筈だ。
 そこでもう一度設定を確認してみると、代助は恐らく永井荷風と同じ明治十二年辺りの生まれであろうことに思い至る。実際少しは永井壯吉を意識したところもあるのではないかと思われるくらいである。しかしそれ以上なにも思い至らない。西南の役が明治十年なので、戦争を知らずに育ち、十六歳で日清戦争が始まり、二十六七で日露戦争を味わうのだとして、維新で戦争を体験した長井得とどこがどう違うものであろうか。

 長井得が語るのは国家に連なる大きな物語であり、長井代助が語るのは「神経」という言葉に代表される私的で繊細な物語である。

(石原千秋『漱石はどう読まれてきたか』新潮社 2010年)

 石原千秋はこう言ってみるが、長井代助はかなり大きな物語も語っている。

 何故働かないって、そりゃ僕が悪いんじゃない。つまり世の中が悪いのだ。もっと、大袈裟に云うと、日本対西洋の関係が駄目だから働かないのだ。第一、日本程借金を拵えて、貧乏震いをしている国はありゃしない。この借金が君、何時になったら返せると思うか。そりゃ外債位は返せるだろう。けれども、そればかりが借金じゃありゃしない。日本は西洋から借金でもしなければ、到底立ち行ゆかない国だ。それでいて、一等国を以て任じている。そうして、無理にも一等国の仲間入をしようとする。だから、あらゆる方面に向って、奥行を削って、一等国だけの間口を張っちまった。なまじい張れるから、なお悲惨なものだ。牛と競争をする蛙と同じ事で、もう君、腹が裂けるよ。

(夏目漱石『それから』)

 長井得が国家を語ると言うが、長井代助は日本対西洋の関係というさらに大きな語彙で語っている。あまりに大きすぎて、なおかつ自分自身の体験に基づくものでもないことから、何か頭でっかちには感じるものの、物語の大きさで言えば父の物語より大きい。
 それは西洋料理を食い(第二章)、西洋に嫁いだ姉を持ち、西洋音楽の好きな嫂を持ち(第三章)、建て増した西洋づくりの客間の内装をワルキューレで飾り、西洋剃刀で髭を剃り、洋卓の引出から西洋鋏を出し、西洋の哲学書を友人に送り、西洋の小説を読む代助の自然な感覚なのかもしれない。

 しかし佐藤泉の指摘が間違いというわけでもない。

親爺の如きは、神経未熟の野人か、然らずんば己れを偽わる愚者としか代助には受け取れないのである。

(夏目漱石『それから』)

 代助が神経を重んじ、自分の中心に神経を置いていることは間違いないようだ。

 代助は彼の小さな世界の中心に立って、彼の世界を斯様に観て、一順その関係比例を頭の中で調べた上、
「善かろう」と云って、又家を出た。そうして一二丁歩いて、乗り付けの帳場まで来て、奇麗で早そうな奴を択んで飛び乗った。何処どこへ行く当もないのを好加減な町を名指して二時間程ぐるぐる乗り廻して帰った。
 翌日も書斎の中で前日同様、自分の世界の中心に立って、左右前後を一応隈なく見渡した後、
「宜しい」と云って外へ出て、用もない所を今度は足に任せてぶらぶら歩いて帰った。

(夏目漱石『それから』)

 神経は発達していてもやっていることは野蛮人にも届かない飼い犬のようなことである。これはこれで「私的で繊細」とは言えるかもしれない。少なくとも国家的ではない。長井得が維新の際に戦争に出て、実地で国家に関わったと見做すのならば、長井代助の物語や語彙はともかく、行動は私的なものである。

 代助と恩人の家との縁談は、父にとっては最後の過去の物語だったのだろう。

(石原千秋『漱石はどう読まれてきたか』新潮社 2010年)

 確かに佐川の家との因縁話そのものは古い過去のものである。しかしそれはけして「おおきな歴史」ではなく私的なものである。その物語が国家に連なるものではない。佐藤もまた少し無理をして話をうまくまとめようとしている。

 国家に連なる父の物語としてはむしろ代助の姉を外交官の嫁としてフランスに送り出したことが指摘されるべきであろう。もしかしたら代助に西洋芸術の趣味を与え、ピヤノを弾かせ、大学まで出してやったことも、帝国日本の国家戦略に則る振舞だったと言えるかもしれない。
 しかし佐川の家との因縁話は私的な物語だ。それはおそらく代助が麺麭を食べ紅茶を飲むことと同じである。

 人間は二百年は生きられない。生きているうちにできることは限られている。人生はあっという間だ。そう思えばつまらない欲を出して、話をうまくまとめようとする時間が惜しい。そう思わない?

 六十二歳か。

 まだ何とかやり直せる。

 がんばれ。


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