[小説] 僕の『それから』が変だ
僕の『それから』が変だ
その名前には見覚えがある
西暦二千二十年三月某日、村雨春陽は書斎で書見をしていた。まだ四月ではなかった。五月のことなど考えもしなかった。三月某日、日曜日の午後三時を何秒か経過して、まだその先にも時間があった。
村上春樹が手にしていたのは小林十之助著『夏目漱石論集成』、B六版の単行本だ。その名前にはどうも見覚えがあり、ずいぶん昔に買い求めていたものではあろうが、いつどこで買い求めたものか明確な記憶はない。新宿三越百貨店の地下か、六本木一丁目駅の本屋だとは思うが定かではない。そもそも買い求めたかどうかも定かではない。献本ではないだろう。図書館から借りてきたものでもない。蔵書印もない。書店のカバーもない。それがたまたま目についたのだ。その名前にはどうも見覚えがある。だが確かではない。その顔が思い浮かばない。前世で一度か二度、どこかで出会っているのかもあったのかも知れないが、困ったことに村雨春陽には前世の記憶というものがまるでない。
離れの二階から降りてきた小六が丁度書斎の前を通り過ぎるタイミングで、村雨春陽は呼び止めた。
「何ですか、ちい兄さん」
おおよそこの世の全ての出来事に関心がないというのほほん顔で書斎に入ってきた小六はピンク色のチャンピオンのトレーナーに草臥れたジーンズ姿だった。模様入りのカシミヤの靴下を履いている。村雨春陽はその胡散臭い衣装を上から下まで眺めた後で言った。
「うん。お前は文学をやっていただろう」
「え? えええ」
「なんなんだ。え? なのか。ええなのか」
「そうですね。一応は、文学をやっています」
道路わきに植えられた舶来の街路樹の正式名を知らないように、そういう逡巡が未熟なwannabeの気弱さではなく、嗜みであると村雨春陽は知らなかった。
「だったら、この人を知っているか?」
村雨春陽は小林十之助の『夏目漱石論集成』を小六に差し出した。小六は差し出された本を手に取ろうともせず、ただ首をひょいと伸ばして、
「さあ」と曖昧に返事をした。
知らないのか教えたくないのか、村雨春陽には判然としなかった。
「なんだ、お前、それでも文学者か?」
「ですから文学者とは言っていません。文学をやっているだけです」
「何が違うんだ」
「文学者というのは東京帝国大学の博士課程を修了した人のことです。立派な博士論文を書いて卒論面接をクリアしなきゃならないんです。銀の握りの象牙の差し棒で黒板を叩きながら、エドイスト…とやらにゃあ恰好が付きません。僕は『文豪アルケミスト』をやっていて、半年に一回か一年に一回、東京新聞の三百字小説に入選する程度に文学をやっているだけです」
「それじゃ立派な文学者じゃないか」
「まさか。立派な文学者なら、年末年始にはセブンイレブンで三百五十円以上の弁当が五十円引きになりますよ」
立派な文学者でなくても年末年始には五十円引きくらいはしてくれそうな気がしたが、村雨春陽には年末年始のことは曖昧だった。本を引っ込め、さっきまで読んでいた箇所を読み上げた。
「例えば評論家の何某は夏目漱石の『それから』にはヒューモアがないと文庫本の解説で惚けてみせる…。お前、どう思う?」
「何がです?」
「日曜日の午後三時に書見をしている私のことをどう思う?」
「どうも思いません。関心がありません」
「そうか。流石は文学者だ。じゃあ、お前ナンジャモンジャノキの正式名称を知っているか?」
「知りませんよ。そんなもの。もう行ってもいいですか。便所に行くところだったので漏れそうなんです」
「じゃあ仕方がない。どこへなりとでも行くがよい。この兄を兄とも思えないならばな」
「どこへなりともって、便所に行くだけですよ。ここでうんこしてもいいんですか」
「それは困る。便所に行きなさい」
「はい。それでは失礼します。ちい兄様」
小六が書斎を出て行くと、村雨春陽は嫂と二人きりになった。嫂は春めいた鮮やかな縞の着物を着ていた。波打つ湖面に映る松柏の不確かな片影がたたさよこさに裁ち割られてなお乱れない。広い帯の感じは黄を含んで暖かみがある。
「小六さんはこんな時間にうんこをなさるのね」嫂は言った。
確かにその通りだ。わざわざ日曜日の午後三時にうんこをする人間は文学者以外にはあるまい。村雨春陽は壁にかけられたいちよし証券のカレンダーを見た。沢山✖がある。だがカレンダーでは今が何時か判然としなかった。村雨春陽は本を机に置き、嫂が座っているソファーに近づき、胸元を覗いた。
「何をなさるの?」
「いや、これをこうして…」
「あら…」
嫂がソファーに深く凭れると長襦袢が足袋の上まで開けた。村雨春陽は嫂の頭にとぐろを巻いていた毒蛇をつまみ上げ、窓の外に放り投げようとした。しかし生憎窓は閉まっていて、窓に叩きつけられた蛇は、血を吐いて床に落ち、そのままソファーの下に隠れてしまった。
「おかしいなあ」
「何がおかしいんですか」
「いやね、物質は物質を貫通しないんですね」
「当たり前ですよ」
「当たり前ですか。でも夏目漱石の『それから』にはこんな一節がある、と小林十之助は書いているんですよ」
枕元を見ると、八重の椿が一輪畳の上に落ちている。代助は昨夕床の中で慥かにこの花の落ちる音を聞いた。彼の耳には、それが護謨毬を天井裏から投げ付けた程に響いた。夜が更けて、四隣が静かな所為かとも思ったが、念のため、右の手を心臓の上に載せて、肋のはずれに正しく中る血の音を確かめながら眠りに就いた。
「どうです。護謨毬は天井裏から投げ付けられた訳ですから、もし天井があればそこでぼよんぼよんとバウンドする筈ですよね。つまり天井裏から護謨毬を投げて天井を貫通したということになると、物質は物質を貫通するんじゃないですか」
「じゃあ、天井がなかったんじゃないですか?」
「天井がないなら天井裏はありません。屋根裏があるだけです」
「空気穴があったんじゃないですか」
「じゃあ、椿は何時落ちたんですか。夕方なのか夜が更けてからなのか…」
「まあ、大体夜でしょう」
「それからあまり静かなので念のため心臓を確かめるでしょう。この人は心臓が止まっても生きられる人で、気が付かないうちにうっかり心臓が止まってやしないかと心配しています。なんか変じゃないですか」
「でも春陽さんがおっしゃっているのは小説の中の話でしょう。小説はみなそんなものですよ。嘘の話に噛みついてもしょうがないじゃありませんか」
「嫂さん」
「何です」
「もしかするとこれはユーモアではないかと思うんですが、どうでしょう?」
「まあ、ユーモアといえばユーモアかしらね」
「これが冒頭部分、椿が落ちた理由が明かされるのが十章なのだそうです。ずっと伏せていて、忘れた頃に明かすそうです。これは告白も同じです。ずっと伏せていて明かす」
「おほほ、まるで春陽さんね。春陽さんもずっと黙っていましたからね。あのことを」
「またその話ですか。もうずいぶん前の事じゃないですか。それよりもですね、僕の言いたいのは、こういうことです。つまり、こういう『それから』という小説がもしあったとして、それを読んで、ヒューモアがないなどと書いた文芸評論家がいたとしたら、その人はとんでもないマヌケではないですか?」
「マヌケは酷いわ。単に文章読解力がないだけでしょう」
「文章読解力がない文芸評論家という存在そのものがマヌケでしょう。文章読解能力がないとしたら文芸評論家以外の職業を探すべきじゃないですか」
「あら妾、そんな難しいことは解りませんわ」
解らないと言われては仕方ない。村雨春陽は蛇のことを気にしながら、再び書見に戻った。嫂はソファーに深く腰掛け、両足を持ち上げたまま、おばあちゃんのぼたぼた焼きを食べていた。血反吐を吐いた毒蛇が足を噛むことを畏れていた。
そこへ突然門野という書生が現れた。ひどく慌てて、青い顔をしていた。
「先生」
「なんだ」
「みちょぱとゆきぽよの区別がつきません」
「そんなことも分からないのか。文章読解力がないな。小麦粉を塩水でこねて生地を作り、油を塗りながら手を使って細く延ばしたのが“みちょぱ”、平らな板と麺棒を使って生地を薄く延ばし、刃物で細く切る麺が“ゆきぽよ”だ」
「それはそうめんとひや麦の違いです」
「財閥の御曹司に惚れられるのがみちょぱで、世子に惚れられるのがゆきぽよだ」
「それは韓国の現代劇と時代劇の違いです」
「小麦粉で作ったのがみちょぱ、米粉で創ったのがとゆきぽよだ」
「それは…桜餅の長命寺と道明寺の違いでしょう」
「お前、この三年間で随分腕を上げたな」
「全部先生のお陰です」
と二人はハイファイブを交わす。
「先生、実家から石野岩雄男爵がおいでになりました」
「実家って母屋だろう。繋がってるんだからそりゃ用があれば来るだろう。ところで男爵は髭を生やしているか?」
「はい。男爵ですから高い声も出します」
「お土産は?」
「はい。東十条の黒松です」
「なら、仕方ない。あれは日持ちがしないのだ。通しなさい。しぶしぶ会うことにしよう。リプトンのイエローバッグでも淹れて出しなさい」
嫂はソファーの下から黒い蛇を引きずり出そうとしていたが、適当に諦めて黙って部屋を出て行った。入れ替わりに石野岩雄が入ってきた。薄羅紗の詰襟の上にいかつい顔面が威張っている。石野岩雄はさっきまで嫂が座っていたソファーに腰かけると思いがけないぬくもりと鉄の臭いに眉間にしわを寄せた。
「どうだ?」それでも曖昧に石野岩雄は訊いた。それはほとんど、合成数は無限に存在するのかという意味だった。
「はい」
「ではほとんどの過剰数は擬似完全数でもあるのか?」
「ええ」
「なら、今、この部屋からそくさと直が出て行ったのはどうしたわけだ」
「はい?」
「出て行くのはいい。用が済んだのなら出て行くのが自然だろう。だがそそくさが余計だろうと言っているのだ。そそくさすれば見えない訳ではなかろうに。それなのにそそくさばかりが印象付けられる無駄な動きだ。まるでそそくさをわざと見せつけようとするかのようだ。わざと、というのは意図だ。何かを知らせようというのだ。一体全体お直はわざわざそんなことをして、私に何を気付かせようとしたのだと思う?」
「解りません」
「春陽、お前、今何も考えないで解からないと言っただろう。それはつまり、答えたくないということだ。答えなければ済むと思っての事か、それともこの私がその不自然さになど気が付かないと見くびっているのか?」
「まさか。僕は兄さんを尊敬しています。何せ兄さんはイオンに詳しいでしょ」
「もちろんだ。イオン博士の資格も持っている」
「そればかりではありません。兄さんはまいばすけっともミニストップもジャスコもよくご存じです」
「当然だ。イオン博士だからな。ところで春陽、お前は数学者だろう?」
「いえ、数学者でありません。ただ『数理科学』を購読しているだけです」
石野岩雄にはその逡巡の意味が測りかねた。石野岩雄は真数条件が解かれば数学者でいいのではないかと言う程度に考えていた。だが少しハードルを下げた。
「だがお前、割り算はできるだろう」
「まあ、なんとか。殆ど引き算ですけどね」
「それなら立派な数学者だ。いいか、消費税率が引き上げられた時、この間まで税込み百五円だったコロッケが税別百八円になった。何故だか解るか。数学者以外には比の感覚がないのだ。国民の九割は割り算が出来ない。比の感覚がない。お前もそのことに気が付いていただろう」
「ええ、なんとなく」
「お前は兄に嘘を吐くつもりか?」
「いえ」
「なら、何故なんとなくなどと言うのだ。何となくというのが比の概念、スケーラビリティだろう。スケール感が異なると、何もかもが無意味だ。直径三十センチの皿に盛られたカレーライスを一ミリのスプーンで食べることは出来ない。何故直はそそくさとこの部屋を出て行ったのだ?」
村雨春陽は石野岩雄の顔を見た。石野岩雄はずっと村雨春陽の顔を見ていたようだ。一瞬目が合った。どちらともなく逸らされた目線は書斎の隅々をさ迷った。直と石野岩雄が呼ぶ人が自分の嫂であり、石野岩雄の妻であることは小六には明らかなことであった。ただ小六がどう考えようが、村雨春陽には曖昧だった。
「春陽、お前、直と寝てくれないか」石野岩雄は言った。
「ななな、何を」
「無論、ただとは言わん。五万ウォンをやろう」
「日本円で下さいよ」
門野が紅茶の盆を運んできた。竹藪の傍へ持って行くと非常にあざやかに見える色のセーターを着て、ぼんやりとした春の陽に照らして見ると引き立つ色のズボンを穿いていた。給仕を済ましても部屋を出て行く気配がない。
「どうした?」
「先生、黒松を一個頂戴してもよろしいでしょうか」
「数があればいいだろう」
「数はあります。数があれば婆さんにも食わしてやっていいですか」
「食いたければ食えばいいだろう。何、今は万人平等な世の中だ。普通選挙が当たり前だ。書生も下女も同じ人間だ。ジェンダー・フリーでサイバーエージェントだ」
「先生、それを言うならダイバーシティです」
「何、どちらも似たようなものだ。どうせ渋谷にあるんだろう。用が済んだらさっさと出て行け、この書生野郎」
門野はしぶしぶ書斎を出て行った。
「その後、感想文を提出して欲しい。四百字詰め原稿用紙十枚程度」
石野岩雄はまだ件の話を続けるつもりのようだった。
「でも作文は小六の得意ではありますが、私の得意ではありません」
「春陽、お前は私の兄だろう」
「弟です」
「ならばなぜ苗字が違うのだ」
「それは親が違うからです」
「その通りだ。だが何故兄弟なのだ」
「それは今まで全く気が付きませんでした。うっかりしていました」
「私もだ。つい最近まで、実はちょっと前まで気が付かなかった。だが一度気が付いてみるとどうも不思議だ。何故お前が弟なのだ。何故苗字が違うのだ。何故小六は小六なのだ。それにどうして兄弟がこんなに姿かたちが違うのだ。私は麻生大臣、お前は安倍総理、小六は菅官房長官に似ているだろう」
「そうなんですか?」
「まあ、似ていないな。さしずめ私が厚揚げ、お前ががんもどき、小六が油揚げみたいなものだろう」
「大根で言えば?」
「私がぶり大根、お前がおでん、小六がツマみたいなものだろう」
「兄さん、あなたは馬鹿です」
「何が馬鹿だ」
「精神的に向上していません。単なる批評家です。何故小六がツマなのですか。それは人を見下しているだけでしょう。兄さんあなたは犬の漫才師です。小刀細工です。誰かより無根拠に偉くあろうとする馬鹿です。ツイッター民です」
「私はツイッター民ほど馬鹿ではない。リツイート民だ」
「もしかして猫ちゃんの動画をリツイートしまくっているのは本当に兄さんのアカウントだったんですか」
「だからお直と寝て、確かめて欲しいのだ」
何が「だから」なのか村雨春陽には判然としなかった。
「何を確かめるんですか」
「夜中になんと寝言を言っているのか」
「そんなもの、ICレコーダーで録音すればいいじゃないですか」
「うむ」
そう唸った切り、石野岩雄は黙った。小六はお直と何か話をしていた。二人は意地悪く笑った。中庭では桜の枝にヒヨドリが群がり、喧しく啼いていた。縁側では門野は婆さんと黒松を食べていた。暑くもなく寒くもない春の午後、さわやかな風が渡り、優しい春陽が降りそそぐ。一年の内で一番過ごしやすい季節だ。お直は思った。こんな何でもない一日が人生で最高の一日だったと後で気が付くことになるのではないかと。そして世界は新型コロナウィルスに覆われ始めていた。
足底腱膜炎
石野家は商店街の尽きた角地に六百坪をブロック塀で囲い、二つの池と果樹の間に二階建ての母屋と建て増しした二つの離れを巡らす。表門には石垣に囲まれた巨大な松が植えられ、白い砂利敷の真ん中に御影の踏み石がくねって玄関まで続いていた。玄関の前には青銅の柵がやや白茶けている。欅の一枚板の式台は木目を鮮やかに油で磨かれ、蝦夷桧葉の上がり框と長い廊下に続いている。廊下の突き当りは応接用の洋室で、洋室をコの字にに巡った真裏に村雨春陽の書斎がある。
書斎には書き物机と四人掛けのソファーがあり、スライド式の高い本棚が三方を囲んでいた。中庭に面した小窓からは離れの二階にある村雨春陽の寝室の窓が見える。
今朝はまだカーテンが閉められたままだ。
翌日だか昨夜、あるいは夕方または朝、村雨春陽は右足の踵に激痛を覚えて倒れた夢を見て、目覚めた。起き上がろうと右足を床に着いた瞬間、踵の骨にひびでも入ったかのような激痛が走り、まどろみも何も吹き飛んで、村雨春陽は唸った。寝室を見渡すと、確かに何かが起きた様子がある。夕べ彼は夜中に起き上がり、倒れて、花瓶を肘でたたき割ったのだ。
砕かれた花瓶と散らばった花はある。オレンジ色のラナンキュラスだ。水はあらかた畳が吸って色が変わっているが、どうもそれだけではない。
何かにしなだれかかったのか、あちこちのものが倒れている。
あれは夢ではなく、自分は足の激痛に耐えかねて転んだのだと、村雨春陽は今更思い知った。確かに今でも右の踵には激痛かある。これはただ事ではない。踵に重心を預けて立ち上がることができないのだ。左足だけで立ち上がり歩こうとしてみる。しかし不思議なことに片足だけでは歩くことができなかった。ただ跳ねまわることしかできない。なるほど人間に二本の足があるのは歩くためだったのかといまさら村雨春陽は気がついた。
しかし困ったことになった。これでは裸足でマラソンを走ることができない。もう死ぬしかない…。村雨春陽は仕方なくベッドに倒れた。スマホを取り出し、症状から病名を調べた。
足底腱膜炎、直ぐにそういう病名が出てきた。三か月から一年くらいで自然治癒する病気のようだ。アスリートがなることが多いらしい。靴の中敷きの広告が出てきた。それからスケスケの下着の広告も出てきた。靴の中敷きは百円ショップでも売られていそうなものが十倍の値段で売られていた。
村雨春陽は迷っていた。嫂と寝る、そんなバカげたことを経てまでも、自分は生き続けるべきなのかと。四年前鼠経ヘルニアの手術をしてネットを入れた左鼠径部にはひどいケロイドが残った。最近は少し歩くと右鼠径部に鈍痛がある。そして時々、針で突かれたような痛みが一瞬だけ走るようになった。右目の視力が0.1になり、下瞼の内側には何かできものができたようで違和感がある。もう、終わりが近いような気がしている。
財産の九割は日本株の現物で所有しているが、今回の新型コロナウィルスの影響で完全に塩漬けになっている。思考停止で損切りもできない。もう株のことは考えたくない。メルセンヌ素数の事しか考えたくない。せめてもの救いはマスクを百枚以上持っていることだったが、歩けないならマスクなど何の役にも立たない。
いや、きっと何かの間違いだ。コロナウィルスなど流行っている訳はない。
村雨春陽は右足で立ち上がろうとして、激痛に呻いた。
新聞を持って寝室にやってきた門野が、何かを言いかけて止めた。不織布マスクをしている。そっと新聞をベッドにおいて部屋を出ようとしたのを呼び止めて、
「すまないが、医者を呼んでくれ」と言うと、
「先生、ドンが…」と門野が中庭の方を指さした。
「ドンがどうした?」
「首が…」
「首がどうした?」
「取れています」
「ドンの首が取れているのか?」
「はい」
「誰がそんなことをしたんだ」
「誰かは解りません」
「なら、兎に角嵌めておけばよかろう」
「それもそうですね」
「じゃ、医者を呼んでくれ。それから給食が中止になって余った食材がただで手に入らないかどうか調べてくれ」
「小林医院でいいですか?」
「いや、足底腱膜炎は何科だろうか」
「肛門科でしょう」
「なら小林先生でもいいか」
門野が部屋を出て行くと黒いマスクをした嫂が代わりに入ってきた。
「春陽さん、ドンが…」
「門野から聞きました。首が取れているそうじゃないですか」
「ええ、でもそれだけじゃないんです」
「なんです」
「額に七生報国の鉢巻きを巻いているんです」
「まさか」
「妾も驚きましたよ。それにしても春陽さんどうなすったんです。ずっと横になったきりで。オナニーの途中ですか?」
「いえ、まだ始めてません」
「なさったらいいじゃないですか。お若いんだから」
「御冗談を。私はもう五十五歳ですよ」
嫂は左上を見上げて何かを勘定した。
「まあ、もうそんなにおなりで。ちょっと前までこんなに可愛らしかったのに」
嫂はそう言ってこんなにの大きさまで左手を伸ばした。村雨春陽は嫂が左ぎっちょなのではないかと疑わざるを得ないような気がしてならなかった。
「そんなことより、兄から何か話がありませんでしたか?」
「岩雄さんが?」
「ええ、その私と嫂さんのことで…」
「いえ、別に」
「濃厚接触しろとか何かおっしゃいませんでしたか?」
「いえ。新型コロナウイルスには養命酒が効果があるんじゃないかとおっしゃっていましたが、それだけです」
「で、どうなんですか。効果はあるんですか?」
「いえ、気休めでしょう」
「ねえ、春陽さん」
「何です嫂さん」
「最近牛乳乳配達を見かけなくなりましたね」
「ええ、そうですね」
「それから郵便ポストが四角くなりました」
「ええ、すっかり」
「はるな愛が肥りました」
「肥りましたね」
「そのこととドンのことは何か関係があるような気がするのですが…」
「いえ、それは違うと思います。恐らくドンは、刺身のパックに入っているワサビの袋に、こちら側のどこからでも切れますと書いてあることが不満だったんだと思います」
「不満? 不満は春陽さんでしょう」
「ええ、僕は大いに不満です。空き缶でも投げようかと思っています」
「『風の歌を聴け』で空き缶を投げてしかられますね。大逆事件は河原で空き缶を投げただけで捕まったんでしょう。およしなさい。現代の神は野蛮なんですよ」
「僕だって随分野蛮だから心配はいりません」
「あら、どのくらい野蛮なんですか?」
「イボタの虫くらい野蛮です」
「あら、恐い」
そう言いながら石野直子はウフフと笑った。恐いのかどうなのか村雨春陽には判断が出来なかった。
「嫂さん、実は踵が酷く痛いんです。踵の骨にひびが入ったかと思うくらい」
「それでさっきからそんな顔をなさっていたのね」そう言いながら直子は散らかった寝室を見回した。「妾てっきり、夕べこの部屋でドンの首が取れたのかと思いましたわ」
「そりゃ、どういう意味です」
「だってこの散らかり様を観れば、何かあったと思いますよ。ドンが暴れてこうなったのかと」
「ドンって暴れるんですか」
「一番お暴れになるのは春陽さんでしょう」
「これはきっと夜中に倒れただけなんです」
「寝ていて倒れるんですか?」
考えてみると不思議だ。立ち上がろうとして倒れたのなら、自分はどこかへ行こうとしていたことになる。便所へ行こうとして倒れたまま眠ってしまったのならばおねしょをしていた筈だ。自分は一体どこへ行こうとしていたのだろうか。村雨春陽には明確な記憶がなかった。状況から推理しても何も思い浮かばない。
そこに門野が戻って来て、医者が来られないと告げた。
「当面の間、往診は取りやめるそうです」
「当面の間とは、いつまでだ。今日の昼までか?」
「きっとコロナが理由でしょうから、何時までとははっきりしません。出口戦略はありません。それから商店街のとんかつ屋がカツサンドを売り始めました。しっとりしているのにサクサクだと言い張っています」
「そう、なんでもコロナ、コロナと、全部コロナの所為にして、それで一体片付くものなのかい」
「この世に片付くものなんて何一つありゃしませんよ、先生」
「じゃあ、みんな死んでしまえばいいじゃないか」
「そう簡単にはいきません。今回のコロナは淘汰でしょう」と門野は生意気なことを言い出す。嫂は冷ややかに黙っている。「何故日経平均株価は半分にならないのか、先生は不思議に思いませんか。それは新型コロナウィルスに感染した人が徐々に回復しているからです。みんな死ぬわけではありません。高血圧の人、糖尿病の人、喫煙者、高齢者、癌などの持病の持主が次々に死んで火葬されているだけです。それから男性の方が女性より重症化しやすく、致死率も高いのです。その先の未来に誰かはポジティブなものを見ているのでしょう」
「人が死んで、何がポジティブなんだ」
「高血圧の人、糖尿病の人、喫煙者、高齢者、癌などの持病の持主がそのまま生き続ければ日本の社会保障費はどうしようもなくなるという試算でしたよね。その試算がチャラになるんです。それ以外の人だけが生き残れば、日本は天国ですよ」
「君は残酷だな」
「私が残酷なんではありません。投資家が現実的なのですよ」
「君は投資家でもないのに何故株価など見ているのだ」
「いえ、私は投資家ですよ。でも株なんかには投資しません。私が投資しているのは先生だけです。だから先生の書生をしています」
村雨春陽は不思議な感じがした。どうもこの門野という男は信用ならない。この男は何か深い恨みをもって自分に近づいたのではないかと疑った。その因縁はまだ見えない。見えないけれど単なる偶然でこの男が自分の書生をやっているのではないことは解った。そして胸がわさわさした。もう終わりに向けたカウントダウンが始まっていて、この世界はもうコロナ前には戻らないと確信していた。だがまだ何かができる筈だという期待を完全に捨て去ることもできなかった。
「妾も同じですわ」嫂は言った。
「何ですか?」
「妾も春陽さんにかけています」
「そんな…私なんか単なる高等遊民ですよ」
そこへ水色のマスクをした村雨春陽の母が現れて道端に落ちている軍手を見るようにじっと直子を睨みつけた。それから村雨春陽に向かって何か言いかけたところに防塵マスクをつけた小六までやってきた。
「兄さん、ドンが…」
「知ってるよ。首が取れたんだろう」
「それだけじゃないんです」
「なんだ、鉢巻きか」
「いえ、富士の見える場所にブロンズ像を建てよと言っています。おまけに村田英雄に紅白歌合戦出場決定のお祝いの電話をしているんです」
「そんな無茶苦茶なドンはあるまい」
「それだけじゃありません」石野清は言った。「シャンデリアの下でステーキを食べているんです」
「そんなドンは聞いたことがありません」
「なんだ、みな集まって」
とうとうガーゼマスクをした石野岩之助まで春陽の寝室にやってきた。
「春陽、なんてざまだ。何故いつまでそんな恰好でもぞもぞしているんだ。お前は芋虫か。お前がそんなだからドンの首が取れたんじゃないのか」
「足が痛いんです。足底腱膜炎という病気らしいのです。痛くて起き上がれないんです」
「それはなまけ病というんだ。第一何故働かない。そうやって寝転がっていて、何ができるんだ」
「日本が駄目だから…… いや、間もなく起き上がります」
村雨春陽はベッドに手を突き、ようやく体を起こした。清、岩之助、直、小六、門野と順に見回して、マスクをしていないのは自分だけだと気がついた。村雨春陽は自分が突然生け贄にできないほど汚れた動物或いは虫、または観念的なゲゼルシャフトに対して「実在的有機的生命体」、ゲマインシャフトに変身してしまったような気分になった。
記憶はその人そのものだ。記憶を失ってしまえば自分自身でなくなってしまう。ただ、過去は消えてなくなってしまう幻ではない。過去は思い出となり、その人を形作るもので、その人がその人であるように、確かに存在した出来事なのだ。だが人は変わり続ける。世界も変わり続ける。この三ヶ月で世界は完全に変わってしまった。もう元には戻らないだろう。そうして変わり続ける世界だけがリアルだ。そう小六は考えた。
ミトコンドリアというオルガネラに反抗的な存在に、例えば悪性腫瘍というものがある。糖代謝をし、自律的に増幅し、不死である。ミトコンドリアの不活性によって、悪性腫瘍が発症するという説もある。しかし新たなオルガネラ候補になりたがっているウイルスを排除することが、免疫という正しい能力であるなら、悪性腫瘍はミトコンドリア支配に対する最終手段であるようにさえ思えてくる。99.9%の生物種は絶滅しており、ほぼ全ての個体は死滅する。死なない命はない。生命現象とは偶然にして奇跡的な生き残りの歴史ではなく、「生」という病なのではないか。死は忌むべきものでも、懼れるべきものでもなく、人がミトコンドリアから解放される儀式なのではなかろうか。ミトコンドリアや葉緑体の見た目を、バクテリオファージと比較した時、どちらが正義なのか解らなくなる。デザイン的にはバクテリオファージの圧勝だろう。葉緑体を活用して、ミドリムシや嚢舌類が進化したとしても、悪性腫瘍の自律的な増幅を利用して巨大なモンスターが生まれても、そしてミトコンドリアを活性化してケトン代謝で生きていたとして、バクテリオファージのような美しさとは真逆の、びらびらでぼこぼこでどろどろの姿にしか進化していかないように思う。それは我々の遠い祖先が葉緑体やミトコンドリアというちょっと不細工なオルガネラを選んでしまったからではないか。新型コロナウィルスによって、人類はすっかり変わってしまうだろう。時間は戻らない。この歴史の一回起性に対してどうも先生は旨いよ、そう門野は考えた。
経済理論を持たない道徳は無力だと言われる。単なる理想を述べることは簡単だ。問題はその理想のすり合わせ、そのコストを誰がどのように負担するか、というところにある。
しかしこのことに気が付いてしまうと、途端にコストが道徳をセーブすることになる。墓、終末医療、介護保険、透析治療、高額な医薬品の保険適用…、生姜湯が新型コロナウイルス初期症状に有効だという説は本当だろうか。そう清は考えた。
「人生は一度きりで、大抵は百年も生きられない」そんなことは当たり前だと重ねて否定したいが、普段はそう考えないで生きている。スティーブ・ジョブズや近所の立ち飲み屋の歯のないお爺さんも、明日死んでもいいように生きろと提唱していたが、全人類がそう考えてしまうと、誰も十年国債を買わないし、定期預金をしなくなってしまう理屈だ。みな、これくらいまでは生きるだろうという希望に沿って、できるだけ無難な選択を繰り返し、今日はとりあえず冒険をしない。終電のずっと前に家に帰る。冒険はしない。勝負パンツを履いているのに、二人きりのカラオケの誘いを断る。冒険はしない。しないのだ。やりたいことを我慢する。そして無難に生きる。昨日の延長で生きる。それでいいのかという不安を抱えながら、そんな生活がいつまでも続くことはないと知りながら、昨日の延長で生きる。…それは、本当は死んでいるのと同じことなのだろう。死に向かって生きているということだ。今はコロナが流行っているから仕方ないといい訳をしながら、死に向かって死んだように生きること、一度きりの人生がそんなものであって良いのだろうか。そう直は考えた。
未来はちょっとしたことで変えられる。いや、変わってしまうのだ。人と人との関係は、ちょっとした言葉の言い回し一つで壊れてしまう。幼馴染や同級生など単なる偶然の関係だが、そもそも自分が自分であることだって偶然に過ぎない。その偶然に過ぎないものが積み重なり、取り返しのつかない人生を織りなしていく。新型コロナウイルスだけが取り返しのつかないことなのではない。そう岩之助は考えた。
熊は恐ろしい。熊は人間よりも強い。熊は人間を食べる。シロクマも同じだ。しかし熊は愛されている。愛玩動物の様にぬいぐるみになる。それでも熊は人間を食べるのだ。熊にしてみれば、人間は餌である。渋谷のスクランブル交差点に熊が現れたら、食べ放題だ。だが羆は渋谷のスクランブル交差点に突然現れることはない。しかし新型コロナウィルスは戸越銀座商店街や大山ハッピーロードに突然現れる。そう婆さんは考えた。
怒りの感情はストレスになり、なんのメリットもない、できれば怒ることなく、穏やかに生きていたいと思っていたが、そうでもないことに気が付いた。まずかなり本気で怒ることによって、〈おそらくアドレナリンが分泌しているのであろうか〉、武者震いというのか手足が小刻みに震えて、眠気が吹っ飛んだことに気が付いた。怒りは少なくとも眠気覚ましの効果がある。おそらく死にかけている人を生き延びさせる効果もあろう。死んだように生きている人に、変化を与えるきっかけにもなろう。うまくコントロールすれば、ちょっと最近サボっていたな、という人を本気にさせる効果もあるのではないか。ピンチのない穏やかな日々は次第に人の活力を奪っていく。だから時々もの凄く厭な奴が現われて失礼なことをしたり、迷惑なことをしたりしてくるのだろう。そういう意味で人は楽園では長くは生きられない生き物ではないかと思う。たまに怒りがあってこそ、たまに怒りがこみ上げるような日常の中でこそ、人は生きていられるのだ。だから新型コロナウィルスも人類の為にはなるのだ。そう清は考えた。
幸福とは何だろう。その一つの形は、たとえばこんなものから見えてきたりはしないだろうか。適当に買い物かごに商品を詰めて、レジに進むと会計が丁度1000円になる。勿論単なる偶然だ。何かおまけが貰えるわけではないが、何か得をした気分になる。いや、もしこれが陽気な家族に起きた偶然なら、こんなもので三分ぐらいは盛り上がり、笑い転げるかもしれない。夕食の際にはまた思い出されるかもしれない。幸福とはそんなものではないか。並んで食べたシュークリームが美味しかったこととか、台車に恋人を載せて走ったこととか、そんな些細な出来事を幸福に感じ、やがてすべては思い出となり、人は消えてしまう。おおよそ人の営みは、この儚さに抗おうとする無駄にしてささやかな駆け引きと言えるのではなかろうか。友人や夫婦や家族と些細な体験を共有すること、何でもないことに喜びを見出すことは、無から有を生み出すことに似ている。単なる偶然に奇跡を見出す誤謬が、人を一瞬にせよ喜ばせるのであれば、馬鹿な友達やバカップルや馬鹿家族の馬鹿さ加減こそ幸せの源とは言えまいか。こんな今だからこそ、そう思える。そう下女のお兼は考えた。
大気は大半が窒素であり、二割の酸素で人や動物は呼吸する。二酸化炭素は0.032%しかなく、植物がフルに光合成するためには明らかに足りない。しかし7%を超えると意識を失う。植物たちは、二酸化炭素の腹八分目に耐えながら、人を生かし、なんとか二酸化炭素を増やそうと努力し続けている。そういう意味では人はいつもぎりぎりのところで平然と生かされているのだ。 植物に文句を言えば、いつでも自動小銃で処刑されかねない。 恐ろしい世界だ。新型コロナウィルスはこの恐ろしい世界に慣れつつあった人類に、もう一度警告を与えているのだ。そう下女のお貞は考えた。
決定論的立場をとらないならば、何か新しいものは、それが誕生した時点から、アビリティを獲得するように思える。逆に言えば、誕生や変態とはアビリティの獲得そのものではなかろうか。偶然に組み合わされた何かが偶然にアビリティを獲得する。例えば脂肪酸の炭素数をどんどん増やしていくとどうなるか。一定の傾向で何かの度合いが増すだけ、とは思えない。元素の族を思い出してもらえばいい。同じようなことが、もう少し卑近なレベルで言えるのではないか。我々は日々、ありとあらゆるものを組み合わせ、今までになかったものを生み出している。具体的に言えば、地球の裏側から取り寄せた食材と、サプリメントを、オリジナルの腸内フローラが食べて、歴史上かって存在しなかった新しい物質が誕生している可能性がなくはない。アサイーと鰻を同時に摂取する人は昔は存在しなかったはずだ。チアシードと雲丹を同時に食べる人もいなかっただろう。私は毎日十数種類のサプリメントを摂取しているが、この組み合わせを実行した人が過去に存在したとして、私の腸内細菌はオリジナルなものであるから、私の腸内では全く新しい物質が誕生している可能性がなくはないということだ。しかし、たとえそうであっとして、そんなものは瞬時にながされてしまう。それでも下水道の中で、さまざまな意匠と混じり合い、さらに複雑な新しい物質と化しているのかもしれない。その新しい物質の性質は、観測者を待ってアビリティを獲得するのだろうか。またイスラム教徒は新しい物質を食べることは出来るのだろうか。新型コロナウィルス蔓延後の地球は変化を免れない。これは人類が経験する最大の危機なのかも知れない。そう下女のお重は考えた。
「大体朝飯も昼飯も食わんから、そんな不始末になるのだ」岩之助は言った。
「面目ありません。普通はアスリートがなる病気らしいのですが…」
「お前がアスリートなら俺はデカレンジャーだ」
「何ですか、それは?」
「大江戸捜査網みたいなものだ。村雨春陽をジャッジメントタイム!」
石野岩之助はそう言って村雨春陽を指さした。村雨春陽はその瞬間に悟ってしまった。
その日が来た
世界はひっそりと何かを待っていた。まだ疫病は当面収束する気配はない。それどころかこれからますます酷いことになるに違いないと村雨春陽は考えていた。だが考えてもどうしようもないので、ぴょんぴょん跳ねて何とか書斎に異動して、また書見をすることにした。
小林十之助はこう書いている。
読後私が最初に感じたのは、作中で繰り返される「ぐるぐる」という表現から、代助は何か環状線をぐるぐる回る様に感じられるものの、飯田橋から乗ったのであれば、当時は精々中野で引き返すしかなく、当時の車掌はいつまでも電車に乗り続ける者を放置したのだろうかということだった。遠くまで行かなければ格好がつかないところを、中野からそのまま引き返して来たらさぞ愉快だろうとまずはユーモアの視点で考えたのである。
そう読まなくとも十分可笑しい『それから』の結びではあるものの、そこにいたる「赤」と「ぐるぐる」の畳みかけ、近所を移動するだけの代助の行動から、やはり飯田橋から電車でどこまで行ったのかが気にかかる。
ついにおかしくなった代助がどこまでも電車に乗り続けると思っていたところが、もしも中野駅で降ろされ途方に暮れていたとしたら大いにユーモラスである。それからどうなさいました? と問われでもしたら、笑うしかない。
今の若い人には思いもよらぬことだろうが、中野は膨張する東京市の辺境ではあるものの、新宿くらいまでは楽に歩ける距離にある町である。
そして中野駅では俎下駄を履くような仕事が見つかるだろうか。
冒頭の夢が正夢ならば、小説の作法としては布石というレトリックに留まるが、作中の事実と認めるのならば、予知夢ということになる。まさに代助は門前をかける。そうであるなら作中で確たる落ちをつけない俎下駄がまさに宙に浮く。お坊ちゃんが坑夫にでもなれば面白いとは思うが、まだそこまではいかない。
天候の具合と有婦姦と無制限の堕落が布石であるなら、乞食の如く、何物をか求めつつ、人の市をうろついて歩くのも布石であろう。職業を探してくる、という言い回しも妙だが電車に乗っていれば見つかるものではなかろう。
自分から告白しておきながら、意地悪く自分の眼の前に持って来たとか、ぞっとしたとか、三千代の覚悟に怯えていた代助は、最後の場面で現実から逃避しようとしているとみてよいだろう。だからそのことがふりであれば、三千代から逃げきれないことが落ちともなろう。
村雨春陽は考えた。もしも小林十之助が書いているような『それから』という小説があり、それをヒューモアがないなどと評論家が解説していたとするなら、この宇宙の成り立ちは根本から何かが間違っていたのではないかと。
そんな評論家は宇宙刑事デカレンジャーが取り締まるべきではないかと。
村雨春陽はさらに書見を続けた。
…どうも筆のすさびではなく、解釈を遠ざけてきた表現がある。
つまり今まで誰も真面目に論じてきていない不自然さがある。
不自然さは小説のスパイスである。それを感じない読書は虚しいと思うのだが、他人の流儀に文句を言ってもしょうがなぃ。
私は私の流儀に従い、不自然さを拾っていこう。
例えば最初に代助が新聞を読むシーンでは、わざとらしく無理が仕掛けられている。記述通りであれば代助の下半身は肥大しており、代助は暗闇でも文字を読むことができることになる。手を離した瞬間に新聞は夜具に落ちることにより、代助は上半身を三十度ほど起こし、両手で新聞を支えて読んでいたことになる。行燈の記載はない。障子を通る光は下からは差すまい。しかしこの姿勢は無理である。試してみれば、上半身を起こすには強靭な腹筋力だけでは足りない。バッタのように足が長いか、足先が肥大化しているか…。
仮にそういう姿勢を取ることができるとして、そういう姿勢で新聞を詠む者がいたら相当に変わり者である。
代助は上等な人種であるというだけではなく異常な感覚を有している。父や兄を俗物とみなし、自分が今の自分になったことに自慢げである。そして地震に怯え、眼球から色を出す。
通常三十歳の健康な男子は、前日使い果たしていなければ、必ず朝勃ちしているものである。心臓を触る前に股間を触るのが普通である。
代助の不自然な姿勢が表すところが、緑色の液体に支配されることと同じであれば、代助は足から根が生えている、ということにならないだろうか。根が生えれば地震に敏感にもなろう。
実質的に北朝鮮が核ミサイルを所持したことにより、核戦争は極めてリアルな現実となった。新型コロナウィルスの大流行によって、北朝鮮も中国も自国のプレゼンスを維持する為に必死の動きを見せるのではなかろうか。こうした状況でも日本は何もできないのだろうか。例えば防衛力を強化することは可能なのではないか。具体的には核ミサイルは、撃墜するのではなく、特殊な技術で誘導して、必ず発射した場所に着弾させる…というシステムを開発するために官民がファンドを創設されるとか。誰かが核ミサイルの発射ボタンを押そうとすると、世界中のSNSに、その人の恥ずかしい写真が拡散されるシステムを開発するためのファンドを創設されるとか。核ミサイルが発射された瞬間に、その国を真空にしてしまうシステムを開発するするためのファンドを創設されるとか。核ミサイルの発射ボタンを押そうとした瞬間に、青春時代のぎこちない恋の駆け引きを思い出して泣いてしまうシステムを開発するファンドを創設するとか。そうお兼は考えていた。
「お兼、お前はどう思う?」
「何がです」
「お重のことだ」
「お重がどうなさいました」
「お重は父さんと関係していないだろうか」
「何故ですか」
「よくお父さんの部屋へ出入りしているようだからさ」
「そんなことをおっしゃると春陽さんも疑われますよ」
「何を疑われるんだい」
「疎外と自己責任です」
「なんだか難しいことを言うね」
「歴史という概念に対して、個人はすべからく本質的に疎外されるものとして捉えることができますよね。正史の主人公、つまり王様でもない限り、稗史の登場人物に収まるしかないじゃありませんか。その程度の意味において多くの個人は壁と卵理論における卵に過ぎません。長いデタッチメントの時代を経て、ファンとのコミットメントという作業を経て共同体をまさぐる現在の村上春樹氏においてさえ、この定義はあてはまるように思われます。あるいは最も華麗な王朝物語と呼ぶべき『続日本紀』に登場する歴代の天皇たちも、歴史そのものからはぞんざいな扱いを受けることになりますよね。物語的記述においては、全ての登場人物は精々なかなか見どころのある「彼」≒交換可能な誰か、に過ぎません。「私」や「僕」が全知全能であろうはずはありません。「私」や「僕」はひたすら疎外感を語ってきたように思います。共同体に対する違和感と自分の思慮深さの自慢が「私」や「僕」の物語の骨法でした。また「もののあわれ」とは、永遠に生き続けることのない一個人の、実在を前提にした世界観でしょうか。限りなく好意的に解釈すれば、近・現代の日本における青春文学のパロデイのような位置に元少年Aの『絶歌』はあると見做しえるし、その程度の拡大解釈を用いれば、近・現代の日本における青春文学は大杉栄の『自叙伝』と元少年Aの『絶歌』のふり幅の範囲に見事に収まってしまいます。『人間失格』も『風立ちぬ』も『太陽の季節』も『限りなく透明に近いブルー』も『なんとなくクリスタル』もこのふり幅の範囲に収まりませんか」
「うむ。なんだかよくわからんがそれが疎外なんだな」
「ただこうして一旦疎外という概念にフォーカスしてしまうと「味噌も糞も一緒」と自同律の隙間に深く迷い込むことになります。何を論じるにしても、論じないにしても、少なくとも生きている「私」は何らかの位置にいます。そしてその位置はどうしても疎外されたものです。村上春樹はエルサレムにおいて、観念的には存在し、誰も自分こそそのものだと主張することのできないソリッドな壁を敵対視することで、我々を味方につけようとして見事に成功しました。しかし現実の生活において日々、我々は救いようのない自己責任論に責め立てられ続けています。どこにもマスクが売られていないのに、マスクなしで咳でもしようものなら物凄く睨まれます。自己責任論とはある意味では共同体に参与する大前提そのものです。解りやすく言えば、このマンションに入居するためには火災保険に入ってくださいという理屈が自己責任論です。少し前になりますがイスラム国に捉えられた日本人に関して盛んに論じられましたね。それ以前から、格差と貧困の問題に関して自己責任論が手厳しく批判されています。ええ、解ります。妾少しおしゃべりですよね。先生のお叱りは後でしっかりお聞きいたしますので、どうか最後まで言わせてください。人が自由である限りにおいて「何があっても自己責任だ」という程度の自覚は必要でしょう。「どこそこに放火します」と宣言してしまった人は逮捕されて刑罰を受けるべきです。そんな人が例えば大手通信会社の社長であっても同じことです。この理屈を受け入れられない人たちが何をどう思っているのかあれこれ考えてみました。まず先入観で言わせてもらえば、自己責任論否定論者とはそもそも自分の尻も拭くことのできない甘えん坊か、共同体にたかることに遠慮のないお坊ちゃまお嬢ちゃまなのだろうということになります。自己責任論とは「あなたの自由な選択でリスクも負うがリターンはあなたのもの」です。人生が一度きりの鉄火場であればこそ、リスクを覚悟して挑戦することが認められるべきではないかと考える人が存在するとしましょう。では単にビル・ゲイツが金持ちであるという事実だけを根拠に、その財産が不当なものであり、自分たち普通の人間の本来得られるべき金銭を搾取されていると主張する人々のどのあたりに同情すればよいものでしょうか。例えば貧困家庭では教育環境が整わず、子供も低所得に陥るという程度の仮説があります。実際には生活保護の継承が行われるのと同じ理屈です。ワーキングプアに陥るよりは生活保護の方が生活レベルは上です。新宿駅の西口で、「可哀そうなアフリカ」への募金を呼びかける青年は、足許にペットボトルのお茶を置いています。そんなものを飲むことのできる人間が、「可哀そう」を共有できるわけがありません。自分でアルバイトして寄付すればいいのではないでしょうか。親がいない子であっても、十八歳にもなればいくらでも自活できます。自活しながら大学に通う方法はいくらでもあります。学生課にいけばさまざまな奨学金制度を紹介してもらえます。出身地、論文一発、面接一発など様々なものがあります。努力次第ではいずれかには引っかかるでしょう。全部だめだとしたらそれこそ自己責任ではないでしょうか。勿論私は進学と就職だけを問題にはしていません。ホリエモンなら大学何んかいかなくてもいいいから起業しろ、と主張するでしょう。人には様々な価値観があり、恋愛や家族子孫繁栄や飲み友達を増やすことなどに最大の価値を置く人もいるでしょう。ともかくパチンコが好きで、飲み会に誘われれば必ず参加するが、甘えた声を出すわけでもなく、酔った振りもせず、ただ愉快に楽しむだけで、どうしても結婚に踏み切れなかった四十八歳のOLがいたとしましょう。そんなOLが「あーあ。なんで私には素敵な王子様が現れないなんだろう?」と嘆いていたとして、そりゃ自己責任だよ、と誰しも思うことでしょう。私が考える自己責任論とは、株取引程度の前提です。人は二歳程度になれば、何かを選び、何かを選ばないこともできます。そこからずっと「騙された」「世の中が悪い」と主張し続けてきたとして、どこかで「自分の力で勝った」などと自慢したくなる瞬間があるでしょうがそれは多分錯覚です。例えば便器は排便に適したように設計されており、便器に見事に便を落としたことはその人の手柄ではありません。便器の外に便を漏らすこと、それを自己責任と世は批判するのです。貧乏人が貧乏を手掛かりにして、他人にたかることと便器の外に便を漏らすことは同じです」お兼は言った。器量はさほどではないが白い肌がきめ細やかで、遠目には美人に見えないこともなかった。
「うん」村雨春陽は言った。「それは大変なことだ」
「先生」
「なんだ」
「楕円曲線はモヂュラーなんでしょうか?」
「勿論だ」
「ではその証明は美しい形になりますか?」
「それは……」
「先生、美しくない証明には一文の価値もありません。それが正しいかどうかではなく、証明は美しさで評価されるべきです」お兼はまるで楕円曲線がモヂュラーであることがアクロバティックに証明されることを予想しているかのようだった。
「ところでお兼、お前は何故この書斎にいるのだ」
「別の書斎に同時存在することができないからです」
「そうではなくて…私に何か用か?」
「お重さんから、先生がお呼びだとお聞きしました」
「いや、呼んでいない」
「本当ですか?」
「いや、お重には何も話していない」
「先生、正直におっしゃってください」
「正直か…なんでもそう正直に言えることばかりではないだろう」
「妾は違います。何でも正直に申し上げます」
「いや、だから何でも正直に言えば良いというものではないだろう」
「それでも正直に申し上げます。妾、女に生まれた以上は誰でも二人以上の男性と同時にいたしたいという願望があることを隠しません。後ろからがんがん突かれながら、口に咥える経験なしに生涯を終えるのはどうしても耐えられないのです。あの貫かれる感じがどうしても欲しいのです。焼き鳥になりたいのです。一生懸命腰を振る人は両手がおろそかになっているものです。お乳を揉んで欲しいし、口さみしいのです。大体女は何回もいけるのに男の人は一回いけば終わりでしょう。一対一ではバランスが合いません。鶏を飼う時は雄鶏一羽に雌鶏三羽飼いますよね。人間ではこのバランスが逆だと思うのです」
「それは…随分あれだ、正直だな」
「ええ、正直です」
「だが、慎みがない女には魅力がないぞ」
「じゃ、先生はお尻のお肉がはみ出しそうなホットパンツのお姉さんをちらりと見たりしませんか?」
「そりゃ、見るな」
「おっきな胸をゆさゆさして走ってくるお姉さんの胸を見ませんか?」
「まあ、見るんだろうな」
「それが正直です。先生、もうすぐ先生か妾かどちらかがコロナで死んでしまうかもしれません」
「まあ、そういうことが絶対ないとは言えないな」
「でしたらどうです、一回くらい」
「そんなことを言ったって、お前…まだ九時半だよ」
「何時にお尋ねすればよろしいんですか。妾、大きな声を出しますよ。いっそ外で…」
「コロナが流行っているんだから外は不味いだろう…いや、そういうことではなくて、私は書見で忙しいのだ」
「書見で忙しいなんて聞いたことがありませんわ。書見は暇人の特権でしょう」
「いや実は、お前に言うのもなんだと思って黙っていたのだが、私は今朝悟ってしまったのだ」
「悟ったって?」
「私は神だ」
「先生が神ですか。じゃあ先生は絶対ですか」
「私は絶対だ」
「それはご立派ですわ。妾は神様といたしてみたいです」
「それにご清潔だから君とはできないのだ」
「ではお貞ならいいのですか」
「まさか」
「ウフフ、お直さんでしたらいかが」
村雨春陽は返事をしなかった。お兼は村雨春陽が変な顔をして何かを考えるのを黙って机の上から見下ろしていた。村雨春陽はそうしてずっと見下ろされながら、文句は言わなかった。お兼は両手を膝に腰を落とした。
牛丼が三百円だった
平岡がやってきたのは昼過ぎの事だった。朝も昼も抜くことをしている村雨春陽は相変わらず書見をしていた。案内も請わずどかどかと書斎にやって来て、平岡は言った。
「どうやら漢方薬が効くらしいな。早速アマゾンで注文しておいた」
昭和天皇と同じ身長を少しでも大きく見せようと仕立てた英国製のトレンチコートを脱ぐと、その下にはもうぴちぴちの黒いTシャツを着ていた。ソファーにどっかり腰を下ろすと、沈んで小さくなった。
「冗談言え」村雨春陽がそう応じる程度に二人は旧知の間柄だった。
「本当だ。日本感染症学会がCOVID-19感染症に対する生薬による予防と治療に対する考え方をまとめている。動物実験より、補中益気湯はインターフェロン自体の産生を抑制する。ヒト対象の研究では、十全大補湯服用によってNK細胞機能が改善され、抑制系も活性化されることから、過剰な炎症の予防も予想される。清肺排毒湯は幅広い病態に用いることができる。まあ、商品名で言えばダスモックだがな」平岡は言った。そうしてスポーツ刈りの頭をぐるぐると撫でまわし、書斎を見廻した。平岡の見た方を釣られて村雨春陽も見たが、そこには別段何もなかった。
「なあ、村雨、貴様腹を切りたいと思わんか」
「いや、思わないね。考えたこともない」
「考えたことがないわけなかろう。そんな日本人がいるものか」
「なら日本人ではないのかも知れんな」
「貴様、昨日ツイッターに何か書いていただろう」
「いや、読書メーターに書いた」
「小林十之助の『夏目漱石論集成』というのを読んだらしいな。貴様には小林十之助を読むのが関の山だ。古典がしっかり身に入っているのは俺が最後かも知れないな。がははは」
何が可笑しいのか平岡は笑った。そして急に真面目な顔になって、
「それで貴様、明治の知識人にとって、帝を天皇、天皇を神だと言われ、明治二十三年の憲法発布、天照大神という噴飯ものの架空ナル神話を受け入れることはなかなか耐えがたきを耐え忍び難きを忍ぶことだったんじゃないかと書いていたそうじゃないか」
「そうじゃないかって、誰から聞いた?」
「瑤子がリツィートしていた」
「ふん。まあ、大体合っているがね。もし仮に夏目漱石という明治の文豪に『それから』という作品があったとするなら、『それから』の代助が新聞を読む姿勢に気が付いていないのも駄目です。眼球から色を出す理由が解って初めて腑に落ちるのが『それから』です。と書いたんだ。いや、待て、平岡、お前、小林十之助を読むのが関の山だ、と言ったか。つまり小林十之助を知っているのか?」
「いや、知らん」
「知らんのに何故ちょっと知ったかぶりをした?」
「知ったかぶりはしていない。それよりなんだ。天皇批判はしていないのか」
「いや。私が批判しているんじゃないんだ。夏目漱石と小林十之助が批判しているんだ」
その上彼は、現代の日本に特有なる一種の不安に襲われ出した。その不安は人と人との間に信仰がない源因から起る野蛮程度の現象であった。彼はこの心的現象のために甚しき動揺を感じた。彼は神に信仰を置く事を喜ばぬ人であった。又頭脳の人として、神に信仰を置く事の出来ぬ性質であった。けれども、相互に信仰を有するものは、神に依頼するの必要がないと信じていた。相互が疑い合うときの苦しみを解脱する為めに、神は始めて存在の権利を有するものと解釈していた。だから、神のある国では、人が嘘を吐くものと極めた。然し今の日本は、神にも人にも信仰のない国柄であるという事を発見した。そうして、彼はこれを一に日本の経済事情に帰着せしめた。
「まず夏目漱石という作家が明治時代にこんなことを書いて、明治政府と天皇信仰を完全否定していると書いているのだ」
「どっちとも取れるな。単なる文明批判という意味なら、俺も一貫して反政府主義者だ。その小林十之助の過剰解釈じゃないのか?」
「ところが夏目漱石という作家は『吾輩は猫である』という小説で『大和魂の歌』という戯れ歌を書き、佐幕派小説『坊ちゃん』を書き、南朝贔屓の『虞美人草』を書き、『趣味の遺伝』や『永日小品』『京に着ける夕』で明治天皇を批判し、『それから』の一つ前の作品『三四郎』では入鹿の大臣の芝居を通して万世一系の疑わしさを批判しているらしいのだ。おまけに『こころ』という作品では、乃木大将が明治天皇に殉死したのに対して、あんなもののために腹は切れないと言って明治の精神に殉死した人を書いたそうだ」
「なんとも不敬だな」
「ああ、不敬だ、不敬だが…不思議な感じがするんだ」
「まあ明治時代に明治天皇を批判していたら命懸けだろう。その小林十之助がいい加減なことを書いているに違いない」
「ただ夏目漱石という作家は維新を瓦解と書いているらしい」
「まさか」
「明治天皇を野蛮なきちがいだと書いているらしい」
「ありえん」
「桓武天皇の御宇に、ぜんざいが軒下に赤く染め抜かれていたかは、わかりやすからぬ歴史上の疑問である、と書いているそうだ」
「けしからん。何が歴史上の疑問だ。今上天皇は大嘗会で天照大神と直結するからいつでも今上天皇なのだ。歴史的問題などあるものか」
「桓武天皇の生母は百済系渡来人氏族の和氏の出身である高野新笠だとも書いている」
「……」
「古伽藍を、今さらのように桓武天皇の御宇から堀り起して、無用の詮議に、千古の泥を洗い落すは、一日に四十八時間の夜昼ある閑人の所作である、とも書いているそうだ」
「……」
「三四郎はただ入鹿じみた心持ちを持っているだけである、と書いているそうだ」
「……」
「君も天智天皇の方はやれるのかいと聴いた男だ、という台詞があるらしい」
「いい加減にしないか。貴様、その小林十之助の妄言を本気にするのか。天皇の神聖は三種の神器が保証しているから確かだ」
「三種の神器とはなんだ?」
「宮中三殿だ」
「そんなもの明治維新後に建てられたものじゃないか。それに平岡、お前の忠義は幻の南朝に捧げられたものだろう」
「無論だ」
「なら、お前が文句を言う筋合いではなかろう」
「いや、俺は今回のコロナも天皇陛下がなんとかしてくれると信じているんだ。本当にそう信じているのだ。そうでなくては天皇ではないと考えているのだ。むしろ天皇であってはならんとまで考えている」
「無茶を言うな」
「無茶を言っているのは貴様だ。小林十之助などという批評家は知らんが、そもそも夏目漱石などという明治の文豪がいるものか」
「私もそれが知りたくて調べているのだが、どうも見つからないのだ。国立国会図書館にも情報がない。ジャパンサーチでも見つからない。ただし小林十之助という批評家のグーグルのブログが見つかった。そこには『三四郎』は徹底して色を隠す作品であり、『それから』では生きたがる男・代助が眼球から色を出す批評家になっていて、その所為で今までやたらと旅行をしていた主人公が旅行をできず、中野駅で引き返すんじゃないかと書いている。僕の存在には貴方が必要だ、という告白があるそうだが、存在に必要とは、そういう相手役があって、初めて反社会的自然を描くことができるからそう告白したのだと書いている。そんな小説を実在する批評家が、ヒューモアがないと解説しているというから不思議だ」
「そんな批評家はなおさら存在する訳はない」
「ところが小林十之助は夏目漱石が、大和魂! と叫んで日本人が肺病やみのような咳をした、とコロナウィルスの流行を予告していたと書いているのだ」
「大和魂! と叫んで日本人が肺病みのような咳をした」
「起し得て突兀ですね」と寒月君がほめる。
「大和魂! と新聞屋が云う。大和魂! と掏摸が云う。大和魂が一躍して海を渡った。英国で大和魂の演説をする。独逸で大和魂の芝居をする」
「なるほどこりゃ天然居士以上の作だ」と今度は迷亭先生がそり返って見せる。
「東郷大将が大和魂を有っている。肴屋の銀さんも大和魂を有っている。詐偽師、山師、人殺しも大和魂を有っている」
「先生そこへ寒月も有っているとつけて下さい」
「大和魂はどんなものかと聞いたら、大和魂さと答えて行き過ぎた。五六間行ってからエヘンと云う声が聞こえた」
「その一句は大出来だ。君はなかなか文才があるね。それから次の句は」
「三角なものが大和魂か、四角なものが大和魂か。大和魂は名前の示すごとく魂である。魂であるから常にふらふらしている」
「先生だいぶ面白うございますが、ちと大和魂が多過ぎはしませんか」と東風君が注意する。「賛成」と云ったのは無論迷亭である。
「誰も口にせぬ者はないが、誰も見たものはない。誰も聞いた事はあるが、誰も遇った者がない。大和魂はそれ天狗の類いか」
「そんな馬鹿な。東郷大将と人殺しを並べる奴があるか」
「私が並べたのではない。夏目漱石という明治の文豪が並べたと、小林十之助が書いているのだ。ところで平岡、お前ここへはどうやって来た? 電車か?」
「いや、中古のコロナだ」
「ところで、何か用があったんじゃないのか?」
「ああ、こんな時に何だが」…そう言いながら平岡は狐のお面を外した。太い眉と団栗眼がようやく表れた。「貴様、百二十三代に何か言わなかったか?」
「百二十三代さんに…言った」
「なんて言った」
「百二十三代さんはなんて言っていた?」
「質問に質問で返すな。貴様はガールズバーの新入りか?」
村雨春陽は『夏目漱石論集成』を閉じ、机に肘をつき頬杖をついて、振り返って平岡を見た。ジャケットの袖には喪章が巻かれていた。
「向上心がない奴は馬鹿だと言ったんだ」
「何故そんなことを言ったんだ」
「何故ってそれは芝居の作用だ」
「芝居の作用とはなんだ」
「お前こそ、そう質問ばかりするな。それにお前、足に蛇が噛みついているぞ」
平岡は足を見た。確かに蛇が噛みついている。ベルボトムのパンタロンに牙を食いこませている。平岡は眉を段違いにして困ったような顔をした。平岡はいつでもそうして見られることを意識していた。
「百二十三代はなんて言っていた?」
「蛇はいいのか?」
「蛇には慣れている」
平岡がやせ我慢をしていることが、村雨春陽には手に取る様に解った。平岡はいつもやせ我慢をしていた。常に誰かに見られていることを意識して恰好を着けていた。
「それより貴様、他にも何か言わなかったか?」
「遠慮なくおっしゃい、と言ったかな」
「そうしたら百二十三代は何と言った?」
「少し御金の工面が出来なくって、と言ったかな」
「で、貴様は百二十三代に何と言った」
「僕の存在には貴方が必要だ、と言った」
「本当にそんなことを言ったのか」
「ああ、言った」
「金が欲しいと言った百二十三代に対して、貴様は体を寄越せと迫ったのか?」
「そんなつもりはない」
「そんなつもりはなくても、金を渡して貴方が必要だ、と言えばどうしたってそういう意味になるじゃないか」
「そうなのか」
「それからどうした」
「鈴蘭の盆の水を飲ました」
「そりゃ、毒じゃないのか」
「毒だ」
「で、どうするつもりだ」
「うむ。両天秤するつもりだ」
「なんだと」
「嫂と百二十三代さんを両天秤にかけて楽しむつもりだ」
「それは随分正直だな」
「君の立場から見れば、僕は君を裏切りした様に当る。怪しからん友達だと思うだろう。そう思われても一言もない。済まない事になった」
「すると君は自分のした事を悪いと思ってるんだね」
「いや、別に。そんなことは世間によくあることだろう」
「君には責任はないのか」
「ないね。新型コロナウィルスの流行に国の責任がないように、僕が百二十三代さんを愛することは自然だ。自然には責任はない」
「責任はなくても道義というものがあるだろう」
平岡はそう静かに言うと立ち上がり様、蛇をぐいと掴んで村雨春陽に向かって投げつけた。村雨春陽はとっさに『夏目漱石論集成』で防いだ。赤黒い血を吐いて、蛇は床に落ちたちまちソファーの下に潜り込んだ。
「百二十三代さんを僕にくれないか」
「貴様、正気か?」
「いささか正気ではないところがないではない。実は今朝僕は悟ったのだ。僕は神だ。絶対だ」
「何が神だ。貴様なんか精々お客様だ。お前にやるくらいなら百二十三代は露西亜の犬に食わせてやるさ」
「そんな残酷な」
「残酷なのは現代の神だ。コロナウィルスで人類を粛清しようとしている。だがコロナウィルスはきっと天皇陛下が何とかしてくださる。そのための天皇陛下なんだから」
「前々から一度聞きたかったんだが、平岡、君こそ正気なのか。何か昔の日本兵の霊でも憑りついていないか?」
「貴様には見えるのか?」
「見える訳がない。ただ」
そこへ門野が紅茶を持ってやってきた。茶菓子はない。
「茶菓子はどうした」村雨春陽が訊くと、何でも適当なものがなかったという。
「かまわんさ」小指を立てて平岡は紅茶のカップを摘まんだ。
門野はじっと平岡を見ている。平岡はそのことに気がついたが、どうも目線が合わない。門野は平岡の肩のあたりを見ている。
「平岡先生」門野は言った。「どうして背中に兵隊さんが乗っかっているのですか?」
「君には見えるのか?」
「ええ。はっきり見えます」
「どんな顔だ」
「顔はありません」
「顔はありません?」
「取れています。ドンみたいに」
平岡は本気で不機嫌になった証拠に黙った。おかげで牛丼が三百円だったことを村雨春陽はまだ知らなかった。
自粛を要請
月が替わると事態は急変した。いや、それは予想通りに、静かに、滞りなく、だんだんと、抜け目なく、少しずつ変わり続けたと言ったほうが良いかもしれない。非常事態宣言が出された東京では商店街が賑わった。しかし村雨春陽はそのことに気が付かなかった。
あい変らず朝も昼も飯を食わず、晩に肉や魚と野菜と豆腐と納豆を食べ、糖質オフの缶チューハイを浴びるほど飲む生活を続けていた。働く気はなかった。日本も世界も駄目だから働かなくていいと考えていた。
起きている時間の大半は書見とSNSに費やされた。SNSの相手は八割がbotだった。二日に一回村雨春陽は時間の無駄だと知りつつbotと口喧嘩した。
残された時間を考えると何かを始めるべきなのだろうが、何をしたらいいのか見当もつかなかったし、とっかかりがなかった。いっそのことあそこを全部脱毛クリームでつるつるにしてみようかとも考えた。ただ、それでは何にもならないことは解っていた。
三十年前、村雨春陽はVHSのビデオデッキの取り出し口に納豆を入れてしまったことがある。それはエントロピーに関する実験だった。結果として「ささいなことほどとりかえしがつかないものだ」という結果が得られた。その頃から東京では雑草に交じってポピーが咲くようになっていた。あおり運転、激辛カレー…、みんな大昔の出来事のように思える。
村雨春陽は『夏目漱石論集成』に目を落とした。そこには文字が書かれている。『虞美人草』のヒロイン藤尾は毒薬を呑んで自殺はしていない、と小林十之助は書いていた。そうする理由も、準備もないと指摘する。我の女藤尾は二人の男に同時にふられてショックを受けた。しかしそれでしおらしく自殺するというのでは辻褄が合わないというのだ。事前に毒薬を用意してあったのなら、
我の女は決意した。螺鈿の箱から取り出したギヤマンの紫の小瓶から銀の匙に汲んだ青銅色の雫は冷えたまま乳色の湯気を吐く。夜の蟇と、燃ゆる腹を黒き背に蔵す蠑の胆と、蛇の眼と蝙蝠の爪をぐらぐらと煮詰めた虚栄の毒は、果たしてほのかにシャンパンの香りがして甘露であった。チェーホフの末期の水やモエエシャンドン。そう心の内に詠み捨てた藤尾は斃れた。
こう書かれていなくてはならないという。
「嫂さん、どう思います?」
「何がです?」
「どこからか毒薬が勝手に現れて人を殺すことがありますか?」
「あら、春陽さんも『毒婦』をお読みになったのね」
「『毒婦』ですか?」
「『テセウスの船』というテレビドラマが評判になって、和歌山カレー事件の容疑者の息子さんが冤罪を主張して、今では『毒婦』という本が大人気だそうですよ」
「あの事件は、ふとったおばさんが犯人でしょう?」
「でも最初は和歌山サリンカレー事件だったのが、いつの間にか和歌山ヒ素カレー事件になって、ヒ素の種類が怪しくなって、とうとう和歌山カレー事件になったんでしょう。どうも無理があるとお思いになりませんか?」
「まあ、カレーを食べただけでは人は死にませんからね」
「和歌山カレー事件…いつの間にか毒が現れて消えていますけど、誰もお気になさらないようですわね。我の強い女は毒蛇のように体の中から自然に毒が沸きだすとお考えなのでしょうか?」
「それは虚栄の毒ですか?」
青い鳥の翼の先に赤いぽっちがついた。石野直子は青い鳥をタップした。通知が届いていた。和歌山カレー事件 長男さんとビジネス社さんがあなたのツイートをいいねしました、と表示された。
「虚栄の毒…そうかしら。春陽さんは何が何でも女に蛇を見出しますけど、それは寿司屋が何が何でもシャリの上にネタを載せるようなものでしょう」
村雨春陽は振り返って嫂を見た。嫂はソファーに深く腰掛け、両足を持ち上げたまま、おばあちゃんのぼたぼた焼きを食べていた。
「お嫂さんはぼたぼた焼きが好きなんですね。でも…」
「でも、何です?」
「おばあちゃんのぼたぼた焼きって、本当はおばあちゃんが焼いているんじゃなくて、機械で作っているのがこの事件の真相なんです」
「でもおばあちゃんのぼたぼた焼きの方が詩的でいいじゃないですか。何となく雅があって」
「じゃ当分雅号として認めましょう」
「雅号は好いですわね。ですから世の中にはいろいろな雅号がはやるのでしょう。立憲政体とか、万有神教とか、忠、信、孝、悌、だのってさまざまな雅号がありますからね」
「嫂さん、随分厭味をおっしゃいますね、なるほど、私には孝も悌もありませんけど、まだ本気を出していないだけなんです。つまらない。そんな話に帰着するなら雅号は廃せばよかった」
「妾は解っていますよ」
「え?」
「春陽さんはいつか立派におなりになるとずっと信じています」
「そんな。お世辞を言われても何も差し上げるものはありませんよ」
「ええ、よござんす」
村雨春陽は嫂の顔を見た。石野直子も村雨春陽の顔を見た。お互いに相手からどんな感情も読み取れなかった。
「嫂さん」
「何です?」
「嫂さんあなたは本当に真面目なんですか?」
「何故です?」
「私は過去の因果で、人を疑い続けています。ですから実はあなたも疑っています。しかしどうもあなただけは疑いたくない。あなたは疑うにはあまりに純白すぎるようです。私は死ぬ前にたった一人で好いから、他人を信用して死にたいと思っています。あなたはそのたった一人になれますか。なってくれますか。あなたは腹の底から真面目ですか?」
「そんな重いのはちょっと無理ですわ」
「重いとはどういうことです」
「重いということは重いということです。あなたのようなのを重いというのです」
「私がなんで重いんですか?」
「重いじゃありませんか」
村雨春陽は自分が嫂に覆いかぶさったことがあるだろうか、あるいは寝バックで責めたことがあるかどうか思い出そうとした。はっきりしているのはまだタピオカミルクティを呑んだことがないという事実だった。それだけは確かで、それ以外のことは曖昧だった。嫂の静かな顔はずっと同じであった。村雨春陽は凝っと考え込んで、それから当然自分の心を嫂に打ち明けるべきはずだと思った。
「嫂さん、実は兄から嫂さんを抱いてくれないかと頼まれました」
「何です、それは?」
「そして感想文を書くよう命じられました。そうしたら五千ウォンくれるそうです」
「それは少し安くはありませんか」
「嫂さん、どんな感じがしますか?」
「そりゃ、いい気はしません」
「それだけですか?」
「それ以外に何かあるかと訊かれても、妾には分りませんわ」
「いったい嫂さんはどういうつもりでいらっしゃるんですか。こんだの事について」
「妾に何にも関係なんかありゃしないじゃありませんか。妾にゃ何にも話してくださらないんですもの。それはそもそも兄弟お二人の問題でしょう」
村雨春陽にはその言葉が堪えた。確かに嫂の言う通り、嫂が試されているのではないことは明らかだ。村雨春陽はどうしようという分別なしに秘密にすべきことを打ち明けてしまったと気がついた。するとどんな態度で、どんな風に兄に会うのが、この場合最も有効だろうという問題が、さも重要らしく村雨春陽に見えてきた。
「そう。じゃ嫂さんが一番気楽でいいですね」
「気楽なもんですか。気楽なのは春陽さんですよ」
「何故ですか?」
「平岡さんがおっしゃっていましたよ。あっちでもこっちでも自粛が要請されて大変だって。春陽さんは元々自粛なさっていたから平気でしょうけど、昨日今日だとマスクなしで外を歩いているだけでじろじろ睨まれるんですよ」
「自粛を要請って、日本語としておかしいなあ。ちょっと後で小六に確認してみてください。自粛は要請されるものではないでしょう。僕の記憶だと先にあった自粛は昭和天皇の大喪の礼の時くらいなものです。あの時誰も自粛を要請したりしませんでした。自分を律する者は自分だけでしょう。そりゃ、確かに僕はこうして書斎に籠っています。それは新型コロナウイルスが怖いからではありません。足が痛くて歩き回れないからです。ですから誰にも要請された態度でもありません。ただ兄からお嫂さんと寝ろと要請されたことは事実です。僕はこの要請に応じようかどうしようか、応じたならどうなるだろうか、気持ちいいのか悪いのか、五千ウォンとは日本円でいくらなのかと随分悩みました」
「随分お悩みになりますのね。春陽さん、スエヒロタケには23328もの性別があるんですよ」
「え、偶数ですか?」
「そうです。人間も性スペクトラム的視点に立てば完全な男、完全な女など架空ナル観念ですわ」
「じゃあ、あれですか、嫂さんはエッチくらいなんでもないと?」
「まさか。それとこれとは別です」
「じゃあ蝙蝠を食べるくらい平気ですか?」
「いざとなれば蝙蝠だってアルマジロでも食べてみせます。それに春陽さんくらいペロリです」
「ペロリですか?」
「ペロリです」
石野直子は舌を三寸伸ばして鼻の頭を舐めてみせた。
「嫂さん、つばが臭いです」
「春陽さんがそんなに顔を近づけるからよ」
村雨春陽はソファーの嫂から離れて書見を続けた。続けながら嫂は奇麗だと感心していた。何だか画のようだと感じていた。大原女のようで八瀬女のようで、自分より強い者を斃す柔やわらかい武器を油断なく構えているようでもあった。村雨春陽の血潮は、粛々と脈打つ。そうして生きているという自覚に、岩漿岫雲生、すべての拘泥を超絶した活気で村雨春陽はほかほかする。
書見するとは言いながら、文字は意味を結ばなかった。村雨春陽は化石になりたかった。
「春陽さんは、妾とエッチなさりたいんですか?」
「そうストレートにお訊きになるものではありません」
「でも春陽さん、コロナで日本ももう滅びますよね」
「学校騒動の時も日本は滅びそうじゃなかったですか。それに日露戦争だって」と村雨春陽は落付いた顔をして頁を捲った。
「だってこんだはなんだか本当に滅びそうじゃありませんか」
「日本が滅びれば、嫂さんは何か儲かる事でもあるんですか」
「冗談云っちゃ不可いけません。そう損得ずくで、痛快がられやしません」
代助はやっぱり頁を捲った。
「嫂さん、コロナは人類が憎らしくて流行るのか、他に損得問題があって流行るのか知ってますか」
「知りません。何ですか、春陽さんは御存じなんですか?」
「コロナに聞いたわけではありません。実は小林十之助が書いているんです。まず、生き残った1%未満の生物から過去を掘り下げる生物史を嗤い、生殖で再現されるほぼ無駄な駆け引きこそ生命現象の根源的象徴だと見抜きました。そして生命現象とは99%超の滅亡種と、1%未満の生存種の均衡そのものではないかと仮定しているんです」
「小六さんも同じことをおっしゃっていましたよ。文学賞は99%超の滅亡種と、1%未満の生存種の均衡そのものですって」
「まあ、小六らしい言い分ですね。小林十之助はエリートが生き残るべきだとも、劣等人種は亡びるのは当然だとも書いていません。結果としてかろうじて継続された生命現象の奇蹟には焦点は当てられていないんです。ありとあらゆる滅亡種が働き蜂のように生存種という女王蜂と遺伝的に繋がらない仕組みの中に、大きな仕掛けを見出したのです。我々はつい、現存し継続している生物や遺伝子を価値あるものとして考えてしまいますが、生命現象全体の中では、圧倒的に遺伝子は滅亡しています。そもそも生き残るから命なのか、死ぬから命なのか、という思想の話ではありません」
「じゃあ、何が命なんですか?」
「遺伝子を残すことも、種として滅亡することも命ではなく、命とは現に生きてあることだと、小林十之助は書いています。そんな当たり前のことを書いてしまいます。多様な絶滅種は、ありとあらゆる可能性を追求していたように見えます。しかしウイルスはさらにそのスピードを加速させました。だからますます適者生存の自然淘汰というルールが見えてくるような気がします。しかし、小林十之助は妙な数字に気が付きます。実はある時点で、生存種は1%を超えて継続し、他の種と共存し、補完し合う関係として、さらに多様性を増しつつその遺伝子を継承しうるのにも関わらず、互いが互いの毒となり敵となり、適者生存の枠を可能な限り小さくしようとしているのではないかと気が付いたのです。それが自然の淘汰ではなく、均衡を生じさせる生命現象の核ではないかと考えたのです。運命づけられた個体の死と、99%の種の滅亡、まさにサヨナラダケガ人生ですね」
「それがウイルスとどう関係するんですか?」
「嫂さん、不思議じゃないですか。何故ウィルスは人を殺すんですか。せっかく憑りついたのに」
「均衡のため?」
「そうです。ウイルスは均衡のために人を殺しているんじゃないでしょうか。門野が言っていました。日経平均株価が半分にならないのはどうしてかって。それは六割の投資家が海外勢で、しかもアルゴリズムで高速取引をしているからではないでしょうか。もはや投資アルゴリズムは人間が滅亡しようと生き残ろうと最適解を選ぶことにしか興味がないのですよ。ただ確かに日経平均は半分になってもおかしくない。私は今回のコレラの先に新しい人類の未来が残っていると思うのです。それでさっきの話ですが」
「なんです?」
「ペロリって、あそこもペロリしていただけますか?」
「そのくらいなんでもないわ。そんな勇気がおありなら、今すぐぽろんと出してごらんなさい」
村雨春陽は振り返り嫂の顔を見た。真面目なようでふざけているようではっきりしない。村雨春陽は椅子から左足一本で立ち上がり、ぴょんぴょん跳んで嫂の横に腰かけた。
「私はそんなに昂奮したように見えたんですか」
「そんなにというほどでもありませんが、少し……」
「いや見えても構いません。実際昂奮しているんだから。私はペロリの事をいうときっと昂奮するんです。嫂さん」
村雨春陽は嫂の手を自分の方に引き寄せた。嫂は村雨春陽の為すがままにさせた。
「握ってください。ぐっと力を入れて」
「春陽さん、いいのね」
「ええ、反り返らせてください」
「こうですか…」
「ああ、そうです。もっと力を込めて伸ばして下さい」
「こんな感じで……」
「あああ……」
「春陽さんって変ね。座っていて足がつるなんて」
石野直子は村雨春陽の右足の親指から手を放し、ふくらはぎを揉んだ。
「ああ、気持ちいい」
石野直子の手はふくらはぎから太腿へと次第に上ってきた。その手は鼠経部のリンパに長くとどまり、きわどい部分を摩擦し続けた。
「嫂さん、もう少し左です」
「なんです。聞えませんよ」
「僕の存在には貴方が必要です。どうしても必要なんです。僕はそれを貴方に承知して貰いたいのです。承知して下さい」
「春陽さんは妾のマッサージと妾の欲望とを、ごちゃごちゃに考えているんじゃありませんか。妾は春陽さんの嫂ですけれども、自分の掌でむやみに何でも撫でまわしたりはいたしません。撫でまわす必要がないんですから。けれども妾の欲望を悉く春陽さんの前に物語らなくてはならないとなると、それはまた別問題になります」
「じゃ、口でしてくれませんか。これでは生き地獄です」
「春陽さんったら、本当の生き地獄をご存じないのね。本当の生き地獄は行った後、ずっとこすられ続けることでしょう」
村雨春陽はあの厳めしい石野岩雄の顔が悶絶して白目をむく様子を思い浮かべた。それは滑稽でもあり、猥褻であった。野坂昭如であれば、澁澤龍彦のようなものであった。
東京都知事の小池百合子です
一日ごとに事態は深刻さを増していた。だんだんと悪くなった。けして良くはならない。何をすれば良くなるという手立ても特に見つからないまま時間だけが過ぎた。もしかしたら世界はもう元には戻らないのではないのではないかという気がした。足底筋膜炎は一向に自然治癒する気配もなく、村雨春陽は日々ぴょんぴょん跳ね続けた。
「先生、大変です」
書斎に飛び込んできた門野が言った。手にはもう自分が読み終わっていい加減に畳まれた新聞が握られていた。門野は書生の分際で村雨春陽より先に朝刊を読み、何に使うのかところどころ切り抜いていた。切り抜きの後の新聞には「何かがないこと」があり、「何がないのか」はさっぱり解らなかった。切り抜く位置には一貫性はなく、いらいらする。
「なんだ、どうした?」
「大変です。先生、韓国ドラマのヒロインはちょっとだけブスで財閥の御曹司に惚れられます」
「うむむ。それは大変だが、それよりコロナはどうだ?」
「コロナはどうも姿が見えません。そこにいるようで、いないようで正体が解りません」
「それは君も同じじゃないか?」
「え? 何ですか?」
「君はずっと私を監視しているだろう?」
「……」
「私が寝る前に何をして、起きてから何をして、今洗面所に行った、今書斎にぴょんぴょん跳ねていった、東京都がコールセンターを設置した、書斎に誰が何時入ったと観察して記録して、誰かに告げ口していないかい?」
「……」
「君は私の書生のふりをして、兄に探偵を頼まれていたのではないのかい?」
「先生、僕を疑っているんですか? 私はそれほど軽薄に思われているんですか。それほど不信用なんですか」
「私はお気の毒に思うのだ」
「気の毒だが信用されないとおっしゃるんですか」
村雨春陽は迷惑そうに砂時計を握った。それをひっくり返し、またひっくり返し、結局何も量らないまま机に置いた。一輪挿しの花瓶が花のないまま机の端に立っている。陶磁の白い瓶は赤い花を待ってなんだかぼんやりとしている。
「信用しないって、特に君を信用しないんじゃない。人間全体を信用しないんだ」
その時、通りの林檎売りらしい声がした。声を嗄らして、林檎、林檎と叫んでいた。その声は通りの誰かに向けてというよりは、まるでこの館の書斎をめがけて、汚物でも投げ込む嫌がらせにも思えたが、もうこの時期に林檎でもないだろう、精々苺だろうと気が付いてしまうと、その声はやはりぼんやりした。
「じゃ、天皇陛下も信用なさらないんですか」と門野は訊いた。
村雨春陽は少し不安な顔をした。そうして直接の答えを避けた。
「私は日本信用保証協議会さえ信用していないのです。君一人を疑うというより、私は人間全員を信用していないのです」
「先生、そんな人生が正しいですか? たった一人でも誰かを信用して、一緒に酒を飲んでげらげら笑って、セックスをして、風呂に入って寝るのが正しい人生じゃないですか?」
「門野、君は何だ?」
「はい、書生です」
「そういうことを聞いているのではない。君は一体全体この宇宙に対して何者なのだ?」
「書生です」
「なら、もういい。君は宇宙の悪の根源になるつもりはないのだな?」
「そんなつもりは全くありません」
「では何故、君は逆さ卍の制服を着ているのだね」
門野は逆さ卍のワンピースをしげしげと眺めた。
「これはお洒落です。何の思想もありません」
「制服は思想だ」
「先生は僕の思想とか意見とかいうものと、私の制服とを、ごちゃごちゃに考えているんじゃありませんか。私は貧弱な書生ですけれども、自分の頭で纏め上げた考えをむやみに人に隠しやしません。隠す必要がないんだから。けれども性的嗜好を悉く先生の前に物語らなくてはならないとなると、それはまた別問題になります」
「別問題とは思えないね。君の制服がワンピースだから、私は重きを置くのだ。二つのものを切り離したら、ワンピースにはならない。私にはワンピースというものが、ほとんど袴を忘れたかのようなものに思えるのだ。私はそんなすかすかしたワンピースを着た書生を見るだけでは満足はできないのだ」
門野はあきれたといった風に、村雨春陽の顔を見た。手慰めに握っていた三色ボールペンが微かに震えていた。
「先生はなんだか旨いです」
「何が旨いんだ?」
「本当は僕が先生を観察しているのではなくて、先生が僕を観察しているんではないですか?」
「あなたはどう思いますか?」村雨春陽は嫂を見た。
「何がです?」
「門野の制服です」
「脛毛でも剃ってあると好いんですけど」と嫂は村雨春陽の方を向いていった。村雨春陽は「そうですね」と答えた。しかし村雨春陽の心には何の同情も起らなかった。脛毛を一度も剃った事のないその時の村雨春陽は、つるつるの男の脛をただ幼いもののように考えていた。
「剃ってみましょうか」と門野がいった。
「どうせならねえ、春陽さん」と嫂はまた村雨春陽の方を向いた。
「脛毛にせよ尻毛にせよそんなもの剃ってもたいして面白いことはないですよ」と村雨春陽がいった。
嫂は黙っていた。「なぜです」と門野が代りに聞いた時村雨春陽は「また生えてくるからさ」といって高く笑った。
「剃っても生えてくる…」門野は村雨春陽の言葉を繰り返した。「つまり人類はコロナに打ち勝つという意味ですね」
「そんな意味はない」村雨春陽は手を伸ばし、門野からようやく新聞を受けとった。村雨春陽は床に横たわり、強靭な腹筋力を活かして上体を三十度の角度に起し、両手を伸ばして新聞を読んだ。トップ記事は国民一人当たり十万円を給付するという政府の方針だった。ただ、どうやって振り込むのか、いつ振り込むのか詳細が決まっていなかった。五月中にはなんとかしたいと麻生大臣は語っていた。その下の記事が切り抜かれていて、次のページが見えた。
「門野、何の記事を切り抜いたのだ?」
「小池百合子の写真です」
「小池百合子? 都知事じゃないか」
「そうです。都知事です」
「あんなのがいいのか」
「いいんです」
「じゃあ、それでオナニーでもすればよかろう」
「はい。そうします」
そう言って門野は書斎を出て行った。
村雨春陽は惓怠そうな手から、はたりと新聞を落した。それからむくりと起き上がり、椅子に坐りなおした。
「春陽さんはどうなさいます?」嫂は訊いた。
「何をです?」
「給付金ですよ」
「そりゃ、金は貰います。金を見ると、どんな君子でもすぐ悪人になるじゃないですか」「働いてもいないし、損害もないでしょう」
「じゃ、姉さんは貰わないんですか?」
「妾はどうでも好いいわ」
「何故です、金ですよ」
「何かお金なんかどうでも好くなったんです。妾、お金なんかより、大切なものがあるような気がしてならないんです」
「そりゃ、お金より命の方が大切でしょう」
「妾、命なんかより、大切なものがあるような気がしてならないんです」
「命より大切なものって何ですか? 一体そんなものがこの世にありますか?」
「もし命より大切なものがなければ、何故人は生まれてくると思います。人でなく虫でいいなら、大切なものは命でしょう。でも妾、人間と虫では何か少し違うような気がするのです。人間には虫にはないものがなくてはならないと思うのです」
村雨春陽は背中に浴びせられる嫂の言葉の意外なほどの真剣さを畏れた。
「春陽さん、あなたもそうお思いになりません?」
「僕にはまだ解りません」
「でも春陽さんは高等遊民なんでしょう。向上心がないものは馬鹿だとお考えでしょう。ですから一日書斎に籠ってお勉強なさるんでしょう」
「こんなものは」と村雨春陽は『夏目漱石論集成』を持ち上げた「勉強の内に入りません。馬鹿が馬鹿なことを書いているだけです」
村雨春陽はラップトップのパソコンでツイッターを表示した。
「ツイッターと同じです。どうにも頭の悪い人たちが、毒を吐いているだけです。麻生太郎は確定申告の仕組みを知らないんだな。所得に応じて、控除を減らせばいいだけだよ。まあ、自分で申告なんかしたことはないんだろうが。富裕層から事後回収は困難と麻生氏は言っているが、コイツ馬鹿だな、というツイートがありました。ツイッターの中では、有名人はみんなコイツにされてしまいます。こうツイートしている人がむしろ確定申告を知りません。ですから私は確定申告をしているのは二千万人とちょっとですよ。利子収入だけで生活できるだけの資産を持っていても確定申告の必要はありません。+10万円の雑収入が入っても確定申告の必要はありません。確定申告で富裕層に支給した給付金を調整するのはやはり困難です。とリプしました。利子だけで生活という例えが極端かと思い、また株式の配当は源泉控除されているので何億円もらっていても原則確定申告の必要がありません。お金持ちの奥さんや子供も確定申告などしないでしょう。申告納税制においては網羅性を持って後で調整することは難しいのは事実です。ともツイートしました」
「それでどうなりました」
「どうもなりません。法律変えれば良いじゃん、とお馬鹿な返信がありました。この人は麻生大臣の無知を非難して、自分の無知をさらけ出した上に、反省すらできないのです。今の確定申告の仕組み中では、自己申告以外で富裕層に対する給付金支給を調整が難しいと知らなかったことを認めることすらできないのです。確定申告してるのが二千万なら、世帯数で4、5千万だろうからとりあえず十分だと思います。毎月一律10万にしたらもっと増えるでしょう。というのもありました。ちょっと何を言っているのか解りません。本当の富裕層は確定申告なんかしないということが理解できません。配当と利子だけで暮らせば、何なら国民健康保険も最安になります。馬鹿と阿呆の愚痴の中から、意味のある言葉を見付け出すのは本当に稀です。この本も、私には勉強にはなりません。なんだか時間を無駄にしたような感じがいたします」
「でも中には作家さんや思想家さんなどが有意義な議論をなさっているんじゃないですか?」
「ところがそうではないことがわかりました。ツイッターをしている程度の作家は大抵昔の左翼で、ただ政府に文句を言いたいだけです」
「そんな短絡はよくないわ」
「短絡でしょうか?」
「マスクは1世帯2枚配る。手を上げた奴に一律10万円やる。ほかに何が欲しいかいってみろ」
「あなたの首をいただけますか。税金はかかりません。むしろ節約になります」
「酷い」
「酷いでしょう。これが街のチンピラではなく日本の作家のツイートだとしたらどうですか。彼はこんなことを書いて得意になっていますよ。それにまたいいねする人もいる。どうかしていますよ。今、みんなストレスがたまっていて、誰かを攻撃したくなるのも解らなくはないのですが、そうした憂さ晴らしで得意になるのはどうなんでしょうか。作家ならこういう時こそ、人々に勇気を与える物語を書くべきではないでしょうか?」
「まあ、そうですけど、きっと優しいサヨクたちなんでしょ。でもそんな人はきっとごく一部よ。みなさん本当は賢い筈ですよ」
「でもツイッターでは、例えばマイナンバーとマイナンバーカードの仕組みを理解している人が見つからないんです。マイナンバーを利用して給付金を配ればいいじゃないかと文句を言います。しかしマイナンバーを利用して給付金を配ることは現実的ではないんです」
「何故なんです。一人に一つ、マイナンバーでしょ」
「みんな誤解していますが、マイナンバーは本人が利用するものではないんです。本人が利用できるのはマイナンバーカードであり、JPKI認証の仕組みです。マイナンバーそのものは国及び地方公共団体等が税・社会保障・災害対策としてのみ利用できるものなのです。」
「今回は災害でしょ。ならマイナンバーでいいじゃないですか」
「ところがマイナンバーを利用するためにはあらかじめこういう業務にマイナンバーを利用しますという公表を行う必要があるんです。そしてその業務を追加する為のシステム変更が必要なのです。それはとても一ヶ月では間に合いません」
「なんだかややこしいことをおっしゃいますが、やればできるんじゃないですか?」
「やればできますが、合理的に考えるとそこで利用されるのはマイナンバーではなくて住民票コードでしょうね。しかし住民票コードは地方自治体が管理していて、国家は知りません。ここをどうするのかが問題です。むしろマイナンバーカードに格納されているシリアル番号を利用した配布なら簡単なのです」
「何故シリアル番号の利用が簡単なんです?」
「日本国住民の住所を知って入るのは地方公共団体情報システム機構です。しかし地方公共団体情報システム機構は日本国住民の住民票コードに渡さない代わりに、住民票コードと結びついたマイナンバーカードのシリアル番号によって個人を特定する仕組みを作りました。これがJPKI認証です。日本国住民本人が利用できるのはマイナンバーカードです。マイナンバーカードには二種類の証明書が入っています。マイナンバーカードにはマイナンバーが印字されていますが、チップに入っているのは氏名、住所、生年月日、性別、顔写真データ、発行年月日、有効期限、シリアル番号でマイナンバーは入っていません。そしてシリアル番号だけがJPKI認証の照会情報として利用されるのです。マイナンバーカードによる本人認証の仕組みは顔写真データによるものとシリアル番号によるものが現時点で完成しています。JPKI認証には原則手数料がかかります。日本国住民には十一ケタの住民票コードが割り振られています。JPKI認証とは住民票コードとシリアル番号を結び付ける仕組みです。しかし住民票コードも日本国住民本人は利用できません。…従って申請に拠らず自治体が住民票コードを利用して全住民に一律給付を行うか、特例法を作り、税務署が納税者に還付金を支給する方法が考えられますが、やはり実績のある申請方式、自治体が対象者に今回限りの通し番号を振った申請書を送付、日本国国民が専用サイトまたは郵送で振込口座を登録し、総務省が現金振り込み…が妥当ではないでしょうか」
「それは仕組みが難しいからしかたないわ」
「そもそもマイナンバーは住民票コードから生成されたものです。11―((n=1(シグマ)11(Pn×Qn))を11で除した余り)ただし、(n=1(シグマ)11(Pn×Qn))を11で除した余り≦1の場合は、0とする。算式の符号Pn 個人番号を構成する検査用数字以外の十一桁の番号の最下位の桁を1桁目としたときのn桁目の数字Qn 1≦n≦6のとき n+1 7≦n≦11のとき nー5」
「つまり……そもそも住民票コードがあれば、マイナンバーは必要なかったんじゃないですか?」
「その通りです。マイナンバーカードのシリアル番号もマイナンバーも住民票コードと一意に結びつけられます。全て住民票コードの利権のために作られたデタラメです」
「でもマイナンバー制度がなければ、行政手続きコストは削減できないんでしょ」
「嫂さん、本当にそう思いますか?」
「良く分かりませんけど、きっとそうなんでしょう? 頭が良い方が一生懸命考えて拵えたものだそうですから」
「確かにデジタル手続き法案は遡れば二十年くらい検討されてきたものです。しかしその結果として出来上がった仕組みは出鱈目です。まず卑近な状況で言えば、これだけ新型コロナウイルスが流行していて小池百合子さんが在宅勤務を呼び掛けていても、マイナンバー関連業務は在宅ではできません」
「何故ですの? インターネットがあればできるんじゃないですか?」
「マイナンバーを取り扱う区域は予め規定して、公表し、覗き見防止などの措置を講じなければなりません。監視カメラも必要です。ですから職員の自宅のリビングではマイナンバー関連業務を取り扱うことはできません。ただマイナンバー制度の問題はそれだけでありません。来年マイナンバーカードが健康保険証としても利用できるようになることをご存知ですか?」
「そのくらい妾でも知っていますわ。便利になっていいじゃないですか?」
「ところがそうではないことが解ったんです。実はマイナンバーカードに他人の保険証情報が紐づけられる可能性があることが解ったんです」
「何故です?」
「簡単に言えば、データクレンジングの仕組みがないからです。このリスクについては健康保険連合会が既に広報をしています」
「広報してもどうしようもないじゃありませんか」
「そうです。どうしようもありません。しかしまだそれだけではありません。マイナンバーを取り扱うシステムに問題があるんです。マイナポータルはNTTデータや富士通などのオール日本のコンソーシアムで構築しましたがどうもうまくいかず、工期が遅れ、損害賠償問題にもなって、結局ぴったりサービスをセールスフォースというアメリカの会社がたった六ヶ月で構築しました。日本政府はやがて全ての行政手続きの窓口をぴったりサービスに集約する予定です。つまり日本中の行政手続きのトラフィックがアメリカの会社に管理されるのです。しかしそんなことを知っている人はツイッター民の中には一人もいません。むしろマイナンバーカードとマイナンバーの違いを知っている人が稀で、十万円の給付金を大歓迎している奴ばかりです」
「いいじゃないですか、十万円も貰えるんですから」
「十万円貰える…嫂さん、本当にそう思っていますか」
「ええ、十万円の給付金が貰えるんでしょう? 何か違いますか?」
「国民全員が十万円貰えるんじゃなくて、国民全員に十万円給付する費用を納税者が負担するだけですよ」
「でもMMT理論があるから大丈夫だってみなさんおっしゃっていますよ」
「MMT理論ですか。嫂さん、お札を刷れば経済対策になるとお考えですか?」
「経済ってお金でしょう?」
「経済はお金ではありません。経世済民、世を經め、民を濟う、という意味です。実は社会保障という言葉と語源は似ています。社会保障はソシアル・セキュリティ、セキュリティとは、安心できるということです。つまり暮らしが安心できるようになるのが社会保障で、世をおさめ、民を救うのが経済ならば、この二つの言葉は、結局、どうしたらみんなが幸せに生きられるだろうかという理想を目指しているとは言えないでしょうか。余りにも脆い考え方の様ですが経産省や厚労省の若手官僚は、本当に日本を良くしようと一度は考えたことがある筈です。幸せとは不幸に給付を行うことだと誰かは考えました。そうして不幸があるとお金を配る仕組みが生まれました。それは表向きは社会保障です。しかし本当は経済じゃないですかね。つまり社会保障と経済は一対なんです。どちらもちゃんとしていないと成り立ちません。経済理論を持たない正義は無力です。誰かが正義のコストを負担しないといけません。でも、民はあまりにも愚かです。本当にこの愚かな民を安心させ、救うことが必要なのか…コロナが流行る前、マスクは五十枚入りが399円で売られていました。今、五十枚入りのマスクが三千円します。いずれ水・金属・食料が枯渇します。つまりいくらお札を刷っても経済はどうしようもありません。でも一番深刻なのは金属資源の枯渇です。でもそんなことを指摘するツイッター民はありません。私は暇な時にはずっとツイッターを見ています」
「春陽さん、それは本当に無駄な時間ですわ。ツイッターをなさっている人の中に真面な人間は一人もないんでしょう? みんな人間のクズなんでしょう? そんなことをなさっている間に春陽さんも妾も一日一日年老いてしまいます。そのうちどちらかがコロナにかかるでしょう」
「どっちが先へ死ぬのでしょう?」
村雨春陽は嫂を振り返ってみた。嫂は例によって嫂はソファーに深く腰掛け、両足を持ち上げたまま、おばあちゃんのぼたぼた焼きを食べていた。
「同時かもしれませんね」
「同時なら仕方ありませんね。嫂さん、やはり僕は嫂さんが数寄です。お尻を撫でて良いですか?」
「数寄だとお尻を撫でるの? 春陽さんったら御冗談が過ぎますよ」
そう言いながらも石野直子はソファーの上で四つん這いになり、村雨春陽にお尻を突き出した。その時、書生の門野と石野岩雄と平岡百二十三代が書斎に入ってきた。
「先生大変です」門野は言った。「マスク一枚が六十円です」
「お直、お前何故四つん這いなんだ」石野岩雄は言った。
「春陽さん、なんですかこの雌犬は」平岡百二十三代は石野直子を指さした。
「雌犬は止さないか。兄さん、これは体操の一種です。マスクが六十円でもいいじゃないか」と村雨春陽は言った。
「先生、マスク一枚が六十円は高いです。新型コロナウィルス騒ぎ以前の七倍以上の値段です」門野は言った。「それに韓国ドラマのヒロインの敵役は美人ですよ」
「春陽、何故お直がお前の書斎で体操をしているのだ」石野岩雄は言った。
「雌犬に雌犬と言って何が差し支えるのですか。」平岡百二十三代は石野直子を指さした。
村雨春陽は一瞬躊躇した後で、言った。
「それは全部芝居の作業だ」
「なんですか?そりゃ」平岡百二十三代と先に行ったので、石野岩雄と門野は黙った。「春陽さんあなた確かにおっしゃいましたよね。僕の存在には貴方が必要だ。どうしても必要だ。僕はそれを貴方に承知して貰もらいたいのです。承知して下さい、と」
「ええ、まあ」
「じゃあどうして若奥様とこんなみだらな…」
「みだらって、まだ何もしていませんよ」
「まだということは、これからやるということだな」石野岩雄は言った。それからお直に向かって「お前はいつまでそうして女豹ポーズをとっているのだ」とも言った。
石野直子はソファーに座り直して、両足を持ち上げ、おばあちゃんのぼたぼた焼きを食べ始めた。
「春陽、お前はどうしてそうセクシャルなのだ。もう少しアセクシャルになれないのか」石野岩雄は石野直子の向かいに腰かけ、追いかけるようにして平岡百二十三代は石野岩雄の横に坐った。調子に乗って石野直子の横に腰かけようとした門野を石野岩雄が追い払うと、村雨春陽はしぶしぶ石野直子の横に坐らざるを得なかった。
「この際だ、春陽お前に話がある」
「なんですか。金ならありませんよ」
「馬鹿を云え、金ならいくらでもある。そもそも金がないのはお前の方だろう。いいか、春陽、お前は今までたった一瞬でも真面目になったことがあるのか。生活もいい加減、学問も中途半端、朝昼と飯を食わず、夜も米の飯を食わんらしいな、その癖缶チューハイをあびるほど飲んでいるらしいな」兄は少し怒気を帯びて詰問した。
「ええ、しかし至って健康です」
「健康な人間が何故片足でぴょんぴょん跳ねているのだ?」
「……」
「春陽」
「何です」と村雨春陽は答えた。村雨春陽の声はむしろ驕っていた。
「もうおれはお前に直の事について何も聞かないよ」
「そうですか。その方が兄さんのためにも嫂さんのためにも、また御父さんのためにも好いでしょう。善良な夫になって御上げなさい。そうすれば嫂さんだって善良な夫人でさあ」と村雨春陽は嫂を弁護するように、また兄を戒めるように云った。
「それでお前はどうするのだ。平岡の細君を選ぶのか」
「どっちかに決めるということはできません」
「この馬鹿野郎」と石野岩雄は突然大きな声を出した。その声はおそらく外まで聞えたろうが、村雨春陽には、ほとんど何も響かなかった。
「僕はどちらともソフトな感じでいちゃいちゃとしていたいんです。正直に言いますと、最近は朝勃ちしないのです。少し大きくなりますが、完全には固くならないのです。それにすぐ柔らかくなります。透明な汁しか出てきません。つまり付き合うことは付き合いますが、子供は作らないつもりなんです」
平岡百二十三代と石野直子は村雨春陽の顔をじっと見た。ともに喫茶店で一人で昼飯を食べているOLのような死んだ目をしていた。
「それじゃあ、春陽、おっかさんに申し訳ないじゃないか」
「もうしわけありませんが、仕方ありません。立たないものは立たないんですから」
「それでどうして人の嫁を二人も同時にたぶらかそうとなどするのだ。しかも嫂と親友の嫁だろう。そんなものはたぶらかしたってどうにもならないと自分でも分かっているのだろう。分かっていて、無理を通そうとする。そういう考えがどこから湧いてくるのか、呆れるというよりむしろ不思議だ」
「自然です」
「何が自然だ」
「僕の自然は社会に反するかもしれませんが、僕自身はそれをどうにもコントロールできないんです。全部後から気が付いたんです。百二十三代さんに告白した後で、そうか勃起しないんだったなと気が付きました。今、お嫂さんの着物の裾をまくってお尻を見ようとしていましたが、それから何をするという深い考えはありませんでした。ベーシックインカムの財源も考えもしないで、さっさと国民全員に十万円配れよカスと呟いているツイッターの人と同じで、深い考えはありません」
「それは自然ではない。馬鹿というのだ」
「馬鹿でも自然だから仕方ありません。僕はもうそんなに長く生きられるとは考えていません。だから大兄様の顔色を窺って遠慮なんかしたくないのです。間違っているものは間違っていると誰に対しても言うつもりです。ガソリンを持って行って火を点けるというのは放火予告でしょう。そういうことはいけません。ただ僕が本当にやりたいのはそんな方向の事ではありません」
「ではなにがしたいのだ?」
「海外の動画配信サイトでできるだけたくさんのエッチな動画を見たいんです」
「それが何になる」
「何にもなりません。ただ自然なんです」
「何が自然だ。そんなものは自然ではなくてただの猿だ」
「猿でも自然です」
「自然な猿なら人間を止めて山に行けばよかろう」
村雨春陽の腰は思わず坐っているソファーからふらりと離れた。村雨春陽はそのまま扉の方へぴょんぴょん跳ねて行った。
「どこへ行く、コラ」石野岩雄は怒鳴った。
「山です」
あと何日で
世界はますますひどくなった。右翼と左翼がお互いにどのくらい馬鹿なのか自慢し合った。リバタリアンとオバタリアンがコストコでマスクに群がった。アベノマスクの発注先を暴いて、安部さんを失脚させようと皆が必死になっていた。商店街では拡声器で家族連れでの外出は控えるように呼び掛けていたが、両親と買い物をする子供たちはスキップして、老夫婦は手をつないだ。そんな幸せそうな人々を、小六は無意識に睨みつけていた。そして自分がそうしたこと、この新しい時代の矛盾に呆れた。今までならそれは間違いなく幸せそうなだけの人々だった。非常事態、その一言で幸せそうな人たちが自分勝手な人々にすり替えられてしまっていた。ベビーカーを押す夫と身重の妻。二人ともマスクをしていない。おそらくベビーカーの中の赤ん坊もそうだろう。小六はそんな人たちと少しでも距離を保とうとジグザグに歩いた。避けても避けても人が歩いてきた。誰かが後ろで席をすると振り返り、無遠慮な笑い声をあげる人を見た。法外な値段でマスクを売る店、それを物色する人だかり、この中の誰かが新型コロナウイルスに感染していないという保証はないが、それでも小六はこの商店街を歩かねばならなかった。石野家がこの商店街を抜けた先にあり、駅からの最短ルートがこの商店街だったからだ。
家に戻ると小六は洗面所で手と顔を洗い、うがいをして小便をした。
村雨春陽が山に行くと言って家を出たのは昨日の事だった。一日経っても誰も何もしなかった。探そうともせず、待っている様子もなかった。小六にはそのことが案外不思議でもないような気がした。自分の部屋に戻る前に、何という気もなしに村雨春陽の書斎を覗いてみるが、勿論村雨春陽はいない。本当に猿として山に行ってしまったのだろうかと、小六はこれまでに四、五回考えてみた。そうだという気もしたし、そうではないという気もした。いつも答えはなかった。ヒントが何もないから、感じだけだ。
小六は何となく机に向かい、椅子に腰かけた。机の上には『夏目漱石論集成』と東芝製の艶なしの黒いラップトップ・コンピュータがある。開いて電源ボタンを押してみるが、そこはそれ、ウインドウズ10なので異国の美しい田園風景の壁紙に遮られてその先には進めない。小六には悪気はなかった。村雨春陽が山に行くと言って消えてしまったこと、その秘密がラップトップ・コンピュータの中に隠されてはいないものかと考えたのだ。それに誰も慌ても騒ぎもしない不思議もラップトップ・コンピュータの中にあるような気がした。
さて、と腕組みして、小六は村雨春陽が使いそうなパーソナル・アイデンティティ・ナンバーを想像してみた。村雨春陽はどちらかといえば大胆な性格である。そんなに用心深い質ではない。パーソナル・アイデンティティ・ナンバーはそう複雑ではない筈だ。村雨春陽は毎日何時間もラップトップ・コンピュータを使う。だからそう長いパーソナル・アイデンティティ・ナンバーは使わない筈だ。最低でも四桁だろうか。
1234
さすがにこれではない。小六は村雨春陽の考えそうな、ちょっと皮肉れた四つの数字を考えてみた。素数、そう恐らく村雨春陽は素数を選ぶに違いない。むしろ素数でない筈はない。村雨春陽は素数を特別な数だと公言していた。素数、四桁…。いやメルセンヌ素数だ。メルセンヌ素数が重要だと村雨春陽は言っていた。じゃあ、つまり8191…と、流石に簡単にいく筈もない。では131071…これも外れた。パーソナル・アイデンティティ・ナンバーは何回間違うとロックがかかるのだろう? 小六は別の可能性についても考えた。村雨春陽にはいくつかのペンネームがあったようだ。その辺りにもヒントがありそうな気がするが、さすがに手掛かりがない。パーソナル・アイデンティティ・ナンバーは最低四桁だ。四桁の特別な数字、であれば8128しかない。…これも外れた。
数字でないとしたら、まさか、mursameあるいはharuhiか? いや流石にそのままはなかろう。小六はいたずらにある人の名をそのまま打ち込んだ。果たして、壁紙は消えた。
へえーっと小六が感心しているところに、お重が書斎の前を通りかかって、立ち止まった。人の気配に書斎を覗き、ああ、と小さな驚きを漏らした。
「小六さんだったのね、驚いたわ」
「ええ、ちい兄さんはまだ戻りませんか?」
「本当に片足でどこまで跳ねて行ったんでしょうねえ」
嫂はソファーに深く腰掛け、両足を持ち上げた。
「で、小六さん、春陽さんのパソコンで何をなさっているの?」
「いや、別に悪さをしようというのではありません。ちい兄さんの行く先のヒントでもないかと…」
「ありました?」
「今、ちい兄さんのツイッターに入ってみましたが、…昨日から更新はされていませんね。直近では…猫のおもしろ動画だらけです。閲覧履歴は……これは凄い……」
「何が凄いんですか?」
「いや、ちい兄さんの名誉のために履歴は削除しましょう。とても嫂さんに見せられる
ものではありません。こんな悍ましいものをちい兄さんが見ていたなんて…恐ろしい…」
「そう言われると妾もちょっと見てみたいわ」嫂は立ち上がり、小六の背中越しにパソコンの画面を覗き込んだ。しかし小六は素早くショートカットキーを押して画面を閉じていた。代わりにデスクトップ画面に一時保存されていたアイコンが表示され、乳首がわずかに見えているギャル曽根のJPEG ファイルが見えた。
「あら」嫂は言った。「春陽さんって……案外ね」
「まあ、案外ですね」小六は言ってパソコンの電源を落とした。それから『夏目漱石論集成』を手に取り、適当に捲った。
「ねえ、小六さん、あなたどう思って?」
「何をです?」
「春陽さんが家を出たのは、妾の所為だと思っていらっしゃいますか?」
「まさか。家を出たのはちい兄さんの全くの勝手です。勝手というか無鉄砲です。判断がありません。真面とは思えません」
「では夕べ食卓で春陽さんの話題が一言もなかったことをどう思います」
「ええ、誰も話さないのでなんだか妙でした」
「でも、…小六さんも何もおっしゃいませんでしたよ」
「……」
「それから三回、何もおっしゃらずに私をご覧になりましたよね」
「そうでしたでしょうか?」
「ええ、お義母様も、お義父様も、岩雄さんも二度ほど私の顔をご覧になりました。偶然でしょうか? 何か妾に遠慮なさったように感じたのは気の所為でしょうか?」
小六は思わず振り返って嫂の顔を見た。それは予想外に近く半分が何かに遮られて影になっていた。その顔は真面目だった。そして小六は今まで感じたことのない底知れない恐怖を覚えた。今までそんなことは明確には考えなかったのだが、嫂にはその曖昧さを見事に見抜かれてしまったような感じがした。夕べの食卓は確かに変だった。誰も村雨春陽のことに触れなかった。
要するに小六は周囲を不思議がりながら、その答えを嫂にあからさまにしたうっかり者だった。もしくは単に厭味な男だった。そうしてそこに気のついているのは、今のところただ天と小六だけだった。小六がもう一歩前へ踏み出そうとするには、村雨春陽の謎を解かねばならなかった。村雨春陽は嫂の息を顔に感じながら、立ち竦んだ。
「春陽さん」
「何です」
「あなた今、とても変な顔をなさいましたよ」
「もともと変なんです」
「いえ、小六さんはハンサムですわ。でも、今とても変な顔をなさいました。胃に穴が開いたかと思うくらい」
図星だった。胃の奥がきりりと痛んだ。冷や汗が流れた。小六は思わず顔をそむけた。石野直子は瞼を垂れ、小六の耳元で囁いた。
「蛇のようにさとく、鳩のようにすなおでありなさい」
聞き取れないくらいな声であった。それを小六は明らかに聞き取った。小六にはその言葉の意味は曖昧だった。曖昧ながら、何かが封じられたのは確かだった。
もう初鰹ですか
村雨春陽が出て行ってから二日目の夕食も表面上はいつもと変りない様子だった。石野岩雄夫婦、村雨春陽の父母、小六の五人は食堂で一緒に夕食の席を囲むが、村雨春陽だけはいつも書斎で一人、下女が商店街から買ってきた総菜を食べながら酒を飲む。酒を飲むのも呑めるのも家族の中では村雨春陽だけだった。村雨春陽はキャベツサラダにメカブか納豆を載せたものを主食にして、焼き鳥か刺身をおかずに、毎晩缶ビール500cc缶チューハイ1500ccを呑んだ。それでいて肝臓は正常だった。小六にはそれが不思議だった。
石野家の食堂は玄関から最も遠い奥にある。隣家と壁で区切られた庭に面した洋室で、高い天井にはさして華美ではないシャンデリアが吊るされている。壁にはいぶし銀のこまくさ網目の額縁に三人の西洋の農夫が描かれた二十号の油絵が飾られていた。小六にはこの絵が解らない。境界をぼかし、濃淡を曖昧に、その流派は真面目ともふざけとも曖昧だった。その畑が何を産するのか、農夫の籠に摘み取られているのか、細部は曖昧だった。サインも誰のものとも知れぬ。ただその文字は崩した漢字にもアラビア文字にも見えた。
長い食卓にはおおよそ二メートル間隔で四人が向き合い、上座には家長の石野岩之助が鎮座していた。もう年の所為で食が細いので他の四人と同じ料理を食べていたが、石野岩雄には余計にオクラ納豆とマグロの山かけの小鉢がついた。マグロの山かけにはウズラの卵と木の芽が添えられていた。石野岩雄はいつもこの木の芽を退けずに食べた。それを小六は変だと思っていた。
夕食はさしてにぎやかなものではなかった。石野岩雄は元来無口な質である。おしゃべりは石野岩之助と村雨春陽である。この二人が向き合えば話はいくらでも続くが、石野岩之助も相手が石野岩雄だと一人演説になってしまっては張りがないのか夕食の席ではあまり話さない。石野直子はやはり村雨春陽とは始終話しているが、何故か石野岩雄の前では無口だ。小六自身は気が乗ればいくらでも話すつもりはあるのだが、一番下なので自らきっかけを作るまでの貫禄はない。
小六は立つほどに分厚く切られた鰹の刺身を箸の先に摘まんで、紫蘇の実ごと醤油の小皿に浸しながら、今日がまだ四月であることに気がついた。そう、緊急事態宣言があってから、曜日の感覚が曖昧にはなっていたものの、今日はまだ四月だ。初鰹には少し早い。
小六は顔を上げ、何かを言おうとしたが、石野岩雄に制された。
「小六」
「はい」
「お前、今更明治天皇は九州顔だなどと言うつもりではあるまいな」
「え、いや、そんな…」
「今、そう言いかけたのではなかろうな」
「いえ、けして」
「じゃあ、黙ってご飯を食べるが好かろう。この大兄を兄と思うのであればな」
石野岩雄は明らかに小六を牽制していた。
しかし不意に石野直子が口を挟んだ。
「小六さん、春陽さんが何処に行ったのか、皆さんにお話しなさい」
皆が小六を睨んで、石野直子ばかりが平然と箸を運んでいる。
「小六、お前知っているのか?」仕方なく石野岩之助は訊いた。
小六にはいくつもの無難な答えがあった。だがどれも危険であった。それは矛盾でもあった。小六にはその危険と矛盾とに自分を突き落とそうとする石野直子の意図が皆目見当がつかなかった。だが小六は昨夜の石野直子が夕べ味わった、皆に見られるという状況に陥ってしまったことに気がついた。小六は鰹の切り身を急いで口に入れ、それがローストビーフでもあるかのように咀嚼した。
「知っているならお言い」村雨春陽の母は言った。
そう言われてみると易々話題が転じる気配もない。次はいよいよ小六の番である。だが小六の考えはまだまとまらない。次の箸で米の飯を口に入れて咀嚼し、呑み込んだ後には何か言わなくてはなるまい。そう勘定した小六はわんぱく小僧のように米の飯を頬張った。
その米を噛んでいる間に、小六には何のアイデアも浮かばなかった。それよりも小六には、別の疑問が浮かんできた。そもそも何故村雨春陽のだけが苗字が違っていて、自分の名前は小六なのかと。男兄弟の六人目なら小六でも良かろう。少々軽いが六の説明にはなる。ただ長兄が岩雄で、次男が春陽ならば、自分とちい兄さんの間には三人の兄弟がいた勘定になる。小六にはまず村雨春陽が謎であった。時々問い詰められるが言っていることの六割が謎だった。だから小六にとって村雨春陽は謎だった。
「小六」声を低く石野岩雄は言った。「お前、村雨春陽の居場所を知って入るんだろう?」
小六はぎょっとして箸を止めた。他のみんなもそうした。皆、村雨春陽の居場所を気にしていることが小六にも見て取れた。小六には一日放っておかれたこの会話がようやく解き放たれたことへの安堵があった。またそう素直に受け取れぬ感情の関があった。
「小六」石野岩雄は急かした。
小六はその急かされたところを何故か一瞬間を持たせた。その一瞬にいらついた石野岩雄は表情をこわばらせ、小六を睨んだ。もう小六以外はみんな箸を止めている。小六はそれでも平然を装い、言葉を探した。味噌汁を飲み、口の中に何もなくなるまで堪え、天井を見上げ、目が眩むと、探り探りに何か言ってみようかという気分になった。
「実は今日、ちい兄さんのパソコンを見たんです」
小六がそう言うとみなあからさまに小六を見た。
「パソコンには随分秘密がありました。ギャル曽根の乳首がちょっとだけ映っている画像がありました」
「なに、それは本当か?」石野岩雄は訊いた。
「はい、ありました」
「なら、それを転送してくれ」石野岩之助は言った。
「私にもだ」石野岩雄は言った。
「転送って、どこに?」
「逃げも隠れもしない。私のメールアドレスは、ishinoiwanosuke@gmail.comだ」
「同じくishinoiwao@gmail.comだ」
石野直子はこの二人は親子ではないのかと疑った。この家族はとにかくギャル曽根の乳首が好きなのではないのかと考えた。しかしギャル曽根の乳首が何故この家族の興味を引き付けるのか判然とはしなかった。ギャル曽根の乳首は前屈みになった一瞬、カメラに捉えられた齟齬に過ぎなかった。これで何かできる器用な男はいまい。
それよりも石野直子には中庭にできた盛り土が気になった。穴を掘り何かを埋め、そのの上に余った土をかぶせた結果盛り土になったと見える。手入れの行き届いた中庭だったので、そこだけ唐突に荒らされたという感じが否めなかった。誰が何の目的でそんなことをするのか、石野直子には皆目見当がつかなかった。そのことに誰も触れないのも気になった。
「それで、小六」石野岩雄は言った。「村雨春陽の居場所を知っているのか?」
「それはわかりません。だって、一昨日迄真面に歩くことさえできなくてぴょんぴょん跳ねていたんですから、まさかそう遠くまでは行くことはできないとは思うのですが、ちい兄さんのことですから、そう常識に縛られても仕方ないと思うのです」
「春陽だとどう常識から外れるんだ」石野岩之助は訊いた。
「ええ、これは本人から聞いた話ですが、中学生の時、サッカー部に入っていて、紅白試合をやっている時、相手チームのコーナーキックを勝手に蹴ったそうです」小六は答えた。
「それは…確かに常識から外れるな」石野岩雄は相槌を打った。
「それだけではありません。ちい兄さんは八年前、野村ホールディングスに百個の株主提案をしたそうです。その内容は社名を野菜ホールディングスに変更すること。それから代表取締役を代表クリスタル役と呼ぶこと…」
「あれは春陽だったのか? 政財界でも話題になっておったぞ」石野岩之助は言った。「黒幕は誰なのかと。もしや当時連結子会社化されていた野村不動産ホールディングス側の反逆じゃないかと随分色んな噂があった」
「ええ、知っています。ですがあれはちい兄さんが書いたものです。原稿がパソコンに残っていますし、その原稿をそのままキンドル本にしてアマゾンで販売しています。筆名は便器株主です」
「何ですか、食事中に、そんな…」村雨春陽の母親は小六を叱った。
小六は黙った。だから皆には言わなかったことがある。理屈から考えれば、株主提案は村雨春陽だけでは成立しない。そのことにみな気が付いていない。新型コロナウイルスは武漢の研究所から流出した可能性はない、と言い切るためには、別のところから流失した事実を確認しなくてはならない。今のところ確認できていることは、新型コロナウイルスに似たウイルスが蝙蝠などの野生動物から見つかっているということだけだ。日々情報は変化している。お年寄りだけが重症化する、温かくなったら鎮静化すると言っていた人たちがいた。やがて普通の風邪になる。むしろインフルエンザの死者が減って良かったと言っていた人たちがいた。だがもうそんなことは誰も言わなくなった。
「いずれにせよ、一人ではそう遠くには行けまい」
石野岩之助がそう言うと、何故か皆石野直子を見た。小六もつられて石野直子を見た。石野直子は丁度みそ汁の椀を持ち上げていた。椀を置いて飯粒を一つまみ口に入れるまで、誰も石野直子から目を逸らさなかった。
小六には嫂が考えていることが解らなかった。ただ平然と飯を食べているように見えた。少なくとも心配で食欲がないとは見えなかった。
「ねえ、お直、お前は何か知らないのかい?」村雨春陽の母は訊いた。「家族中で春陽とはお前が一番親しかっただろう。お前には行き先が解っているんじゃないのかい?」
石野直子は奈良漬けをつまみ、もう一口飯を食べた。
「妾…何も知りませんわ」
「でも、妙じゃないか。片足でぴょんぴょん跳ねて行くとは…」石野岩雄はじっと直子の顔を見た。
「妙なのは、ねえ、小六さん、みなさんが妙じゃありませんか」石野直子は言った。「夕べは何もおっしゃらないで、今日になってそんな話をされるのは。まるで何か準備ができたから、みたいじゃありませんか?」
石野直子は仕返しにみなの顔を見廻した。するとたちまち食卓は昨日のように静かになった。まるで書斎では今も村雨春陽が缶チューハイを呑んでいるかのように小六は夢想した。
人間失格
夕食を終えると小六は離れの二階の自室に戻り、銀色のベッドに寝ころんで『夏目漱石論集成』を読んだ。小林十之助は夏目漱石の『趣味の遺伝』について、明治天皇を狂った神、日本兵を犬に喩えたと書いていた。
The crazy god danced and signaled that he "swaped his blood," and his fluttering tongue lit the dark earth, and heard the sound of the blood flowing from his throat. In addition, God stomps on the edge of the black cloud and says, "Eat meat." The dogs and the dogs yell at once, "Eat meat! Eat meat!"
小六は戯れにその一文をグーグル翻訳してみた。すると日本語では曖昧であったものが、英語に不得手な自分にも余計にはっきりしたような錯覚に陥った。しかしこれでは幸徳秋水の大逆事件が説明できない。今だってこんなことを書いて無事でいられるわけはない。不敬だ。実に不敬だ。こんなものを読んでいた村雨春陽も不敬だ。戦時中なら特高警察に捕まっている。大昔なら検非違使に捕まっている。朝鮮王朝なら捕盗庁に捕まっている。
しかし小林十之助には遠慮ない。
進んで無機有機を通じ、動植両界を貫き、それらを万里一条の鉄のごとくに隙間なく発展して来た進化の歴史と見傚すとき、そうして吾ら人類がこの大歴史中の単なる一頁を埋むべき材料に過ぎぬ事を自覚するとき、百尺竿頭に上りつめたと自任する人間の自惚れはまた急に脱落しなければならない。支那人が世界の地図を開いて、自分のいる所だけが中華でないと云う事を発見した時よりも、無気味な黒船が来て日本だけが神国でないという事を覚った時よりも、さらに溯っては天動説が打ち壊されて、地球が宇宙の中心でなかった事を無理に合点せしめられた時よりも、進化論を知り、星雲説を想像する現代の吾らは辛きジスイリュージョンを甞めている。(『思い出す事など』)
こう科学を知っている知識人が天皇の神聖を信じることなどとてもあり得ないと断ずるのだ。改めてそう言われてみれば、科学的には天皇の神聖などあり得ない。あるとするなら超能力か何かが使えなくてはならない。小六はドア越しに盗み聞きした平岡と村雨春陽の会話を思い出した。平岡は新型コロナウイルスも天皇陛下がなんとかしてくれると言っていた。それは一つの理屈だ。それこそ世界の危機を救う超能力の持主ならば神聖に違いない。何もできなければただの人だ。あるいは他の星雲からやってきたのなら少しは珍しい生き物かもしれない。それでも普通の人間にはない何か特別のものがなければ、神聖とは言えまい。酒と薬に溺れ、女にもてるだけの男を人間失格だとして太宰治は描いた。そのモデルは太宰自身と少しは似ていたのかも知れないが、そんな人間は珍しくない。村雨春陽も薬はやらないまでも毎晩大酒を飲んでいた。弟としては随分恥ずかしい兄だった。何もできないくせに、ただやらないだけだと嘯いていた。片足でぴょんぴょん跳ねてどこかに消えてしまった。これが兄の結末なら、随分みじめな感じがした。ましてや鈍器のようなもので後頭部を殴られ袋に詰められて中庭に埋められているとしたならば、それは悲惨では済まない。その前に指の爪を全部は剥がされ、男根を切り落とされて喉に詰められていたならなお可哀想だ。小六は兄が毎年専門誌に未解決の数学の証明を送っていることを知っていた。フェルマーの最終定理にもABC問題にも驚くほど簡潔に肯定的証明を成功させていた。だが論文は必ず無視された。小六には理解できないが、どうも村雨春陽は足し算と掛け算だけを使って証明をしているらしい。引き算と割り算はほんの添え物で、幾何も対数も使わなかった。小六は疑っている。実は村雨春陽という自分の兄は中学校二年生レベルの算数が出来ないのではなかろうかと。それは根拠のないことではない。村雨春陽にある日、何故ゼロは偶数なのに素数ではないんですかと尋ねると絶句した。そんな人間に因数分解ができる筈がない。因数分解ができないと一次関数が解らない。つまり、村雨春陽は算数が出来ない高等遊民、いや、そんなものは本当に低級猿だ。
そう、一区切りをつけると、小六は自分の仕事にかかった。東京新聞の三百字小説を書くのだ。
小六はシャープ製のダイナブックのノートパソコンを起動させた。PINコードは1111。誰に見られて困るものもない。小六はしばし考えた後、こんな小説を書いた。
牛蒡チョップ
よく買い物に行く近所のスーパーマーケットでは、泥付き牛蒡が長いまま売られている。買い物かごに入れると五十センチははみ出す長さだ。通路をすれ違う時、その牛蒡の先端がペシっと当たる。次の人もペシ、さっきのおばさんが戻ってきてペシ。チョップというほど痛くはないのだが、私はこれを牛蒡チョップと呼んでいる。
どうも私は人相が良いらしく、誰もが遠慮なく牛蒡チョップをしてくる。「失礼」も「ごめんなさい」もない。ふきチョップも長ネギチョップも遠慮がない。悪そうな人の横を通る時にはもう少し遠慮をするのだろうが、どうも私には遠慮がない。これは喜ぶべきことなのだろうか。
無論買い物は下女に行かせるので、小六にはこんな経験はない。小説である。しかし起承転結がない。起承転結がない小説が好まれていることを知って入るからわざと淡白に書くのである。しかし小六もこれは時期に合わないと気がついた。
コロナを書かなくてはならない、と小六は思った。コロナ、コロナ…。小六はふと思った。小六が女なら、小六奈と名付けられていたかもしれないと。そう気が付いてみると小六は世界全体に対して何だか申し訳ないような感じがした。自分が悪の根源で、人類にとんでもない仕打ちをしているのではないかという気分になった。そうではないにせよ、自分もコロナウイルスの所為で死んでしまうのではないかという気がした。
それもみじめだ。小六は東京新聞の三百字小説の他にも、俳句や川柳、その他あれこれで入選して、クオカードや図書カードネクストを何千円分かは手にしていた。それだけだ。小六はもはや細菌に分解されつつある村雨春陽の青黒い死体をちらりと思い浮かべた。間もなく液体となる村雨春陽の肉体を想像して、その悍ましさに身震いした。小六は村雨春陽よりは確かに幸福で、可能性を維持していて、健康だった。両足は自由に動いた。どこにも痛みがないので間違いなく幸福だった。仮に新型コロナウイルスに感染しても、無症状でいられる自信があった。平岡の話を立ち聞きしてから、ダスモックを買い占めていた。いざという時の準備は出来ていた。だが、何かもやもやしていた。危機感のない夫婦の手つなぎ買い物にいらいらしていた。コロナ対策に文句を言い続けるツイッター民にもいらいらしていた。マスクが小さいとか異物が混じっていたとか、そういう文句を言う以外に自分が何をしたという宣言がない人の正気を疑った。あたふたしているのは政府ばかりではなかろう。仲良く手をつなぎ、どうでもいい会話をしながら、スーパーマーケットで買い物をするバカップルは後頭部をバットで殴ってもいいのではないかと小六は思った。いや思わなかった。そういう馬鹿を許そうと思った。その代わりもしも自分がコロナウィルスに感染したら、そういう無意味な二人組に次々と接触して、感染を広げようと考えていた。小六にはもう未来はないと感じられた。これから何がどうなろうとそれ以前の世界に戻ることはない。人々は接触を畏れ、集合を畏れ、孤独に生きるしかなくなる。日々状況は悪くなる。もうコロナ以前の世界には戻れないのだ。
これならば戦争の方がいくらかましだ。そう考えてみて少し反省する。自分はまだ戦争の経験がない。経験がないのに勝手に比較している。下らない。下らない事ばかり考えている。小六は再びベッドに横たわり、『夏目漱石論集成』を開いた。
小六にはなんだか矛盾であった。小林十之助は書いている。夏目漱石という明治の文豪は、徴兵逃れのために送籍したのだと。それなのにぼろぼろになって帰ってきた帰還兵をまずは犬だと揶揄した。三島由紀夫の真似をして、三島由紀夫と真逆の態度をとっている。戦争を嫌うのは勝手だが、帰還兵のみすぼらしさを論わなくてもよさそうなものだ。もし太宰なら、金魚を飼って、鶯の鳴き声を聞き分けるのがそんなに立派なのかと文句をいいそうな感じがするが、太宰は夏目漱石なる文豪の批判を書いていない。
そして小六は白いかの麹漬けのことを考えながらiPhoneでツイッターにログインした。そしてふと、村雨春陽のアカウントを探してみようと思い立った。村雨春陽のアカウントは何故かアラビア語だった。中東の人々二百人以上にフォローされている。ツイートは猫の動画のリツイートが多い。そのアカウントはアメーバーブログと連携されている。こうなるともう情報がどんどん繋がってくる。アメーバーブログの人気記事は「株主提案書の書き方」だった。
もし来年六月に行われる株主総会に向けて株主提案をしようとすれば、こんなスケジュールとなります。
*九月の権利取り日の少し前には300単位の株式を現物で取得
貸株などにはせずホールド
↓
*三月初めには証券会社に連絡して「株主提案に必要な証明書の申込書を送ってください」と言ってください。あなたが六か月間その会社の株主であったことの証明書です。この書類について知っている弁護士も少なかったですね。この書類は個別株主通知の取次申出書、欲しい書類は個別株主通知です。
↓
*そして三月の権利落ち日辺りに通知を受ければ六か月間のホルダーとしての証明が得られます。
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*身分証明書のコピー、個別株主通知を添付して株主提案書を法人の所在地に配達記録で送りましょうか。大体株主総会は六月最終週に集中するのですが、株主提案は株主総会の開催日が決定していないにも関わらず八週間前までに行わなければならないということになっていますので、四月一日には送った方がいいんでしょうね。
村雨春陽はこんなことまで書いている。小六はさらに読書メーターの中に村雨春陽のアカウントを見つけた。文学者でもないのに好き勝手なことを書いている。小六はその杜撰な感想文を読みながら顔が真っ赤っかになった。これではいけないと思った。これでは死ぬのが本当だ、と思った。死体になれば恥をかかなくて済む。
小六はついに村雨春陽の写真を見つけた。それは自然に死んでいるような、まことにいまわしい、不吉なにおいのする写真だった。ひどく汚い部屋で寝そべり、ノートパソコンを操作していた。書斎ではないどこか別の部屋だった。第一本棚がない。画面から発せられる光の所為で妙に白く浮き上がったその顔からは何の感情も読み取れなかった。生きたまま死んでいるのに等しい顔だった。何もかも諦めて、ただ悍ましいものに呑み込まれていくのを待っているような、感じがした。つまりそれを恐れるでも喜ぶのではなく、ただうんこを見せられてそれが顔だと言われているような感じがした。
小六はまたするめの麹漬けのことを考えながら寝返りを打ち、海宝漬けに雲丹が入るべきかどうかを考えた。それからまた『夏目漱石論集成』に戻った。
麹漬け? 小六は何故自分が麹漬けなどのことを思ったのか不思議だった。コロナの所為なのか、別の理由があるのか、その日はなんだか静かだった。小林十之助は夏目漱石の『明暗』という作品について語り始めた。この小説の途中で夏目漱石は羆に襲われて命を落としたらしい。小林十之助はこの『明暗』がやはりキリスト教の世界観を摘まんでいることを指摘している。『三四郎』では迷える子羊を持ち出し、『それから』では人は麺麭のみに生くるにあらずと言い出し、その割に朝飯にはパンを食べる、そして『門』では女房の名が御米になる。『こころ』には麺麭はなく、『明暗』ではまた麺麭を食うというのだ。
なんだかどうでもいいことを書いている。つまらない。
クロポトキンの『麺麭の略取』を読んで村上春樹は『パン屋再襲撃』を書いたと小林十之助は書いている。つまらない。誰が何を食おうと勝手だ。米だろうが麺麭だろうが麺だろうと大した違いあるまい。村雨春陽はある時から突然麺麭も米も麺も殆ど食べなくなった。人と食事する時と、鰻重だけが例外だった。その基準がどこにあるのか小六には曖昧だった。鰻重は随分糖質が多かろう。だから糖質制限をしているのではなさそうだ。だがそれではどうして麺麭も米も麺も殆ど食べなくなったのか解らなかった。そしてそんなことはどうでも好かった。小六は本を閉じ、枕を抱きしめた。全てがどうでも好くなりかけていた。まだ眠くはない。眼を閉じてもあと一、二時間は眠られまい。村雨春陽は二度とこの家には戻ってこないだろう。世界はもう、元通りにはならない。そして小六は自分が人間ではなくなった気がした。
パチンコ屋に行列
東京都の自粛要請にも関わらず営業を続けているパチンコ屋に行列ができた。多分自粛要請という表現の曖昧さの結果だ。閉店を強制なら話は分かる。しかし自粛を要請ではなんのことか解らなかった。大和魂で日露戦争に勝つような話だ。そしてパチンコ屋には行列ができた。東京都がその店名を公表したからだった。そしてパチンコ中毒者はパチンコが我慢できないのだ。誰もパチンコ中毒者を止めることはできなかった。あい変らず夫婦は手をつなぎ揃って買い物に出かけた。安倍さんは今にも鼻が見えそうな小さいマスクをつけ続けた。安倍さんというのは近所の人で、みんなから安倍さんと呼ばれている。
石野直子はスマホでツイッターを見ていた。GMOの熊谷社長が印鑑廃止を決めた。そのツイートに誰かが殷鑑不遠と返信した。印鑑を英訳するとseal、画像検索するとあざらしばかりが出てくる。これでは熊谷社長はアザラシの遺伝子組み換えを断念したと思われやしないかと石野直子は思った。やがて街には失業者があふれ、暴動や略奪、殺人が起きるだろうと誰かはツイートした。それはパチンコ屋のように制御しがたいだろうと。日本書紀には崇神天皇即位五年、疫病が流行り、国民の大半が死んでしまったと書かれていたと呟くものがあり、では遷都ですねと呟くものもいた。遷都とまではいかないまでも、そろそろどこかに予備政府を作る必要はでてきたのかも知れない、と石野直子は思った。東京が終わっても日本が生き残るためには、西日本に一部の機能を移すのが合理的であろう。四国や山陰ならいくらでも土地は余っている。
「お直」石野岩雄は訊いた。「お前、本当に村雨春陽のことは知らないのか?」
石野岩雄は窓際に立ち、外の景色と窓ガラスに映ったお直の丸い背中を見ていた。薄い紗の寝間着に着替えた直子はさっきからベッドに腰かけてスマホを操作していた。石野岩雄は洋卓の縁を回って、直子に近づいた。左の手で直子の丸い乳房にそっと触れながら、黄金の左、バイ輪島と言った。
「何です? 急に」
「別に急ではないだろう」
「じゃ、幻の右、バイガッツ石松」
言いながら直子はくるりと回転して岩雄の顔面に緩くパンチを放った。
「この野郎…」
そう言いながら石野岩雄は直子を押し倒し、二人はベッドの上でもつれ合った…と石野岩雄は妄想した。実際は直子は幻の右を放たなかった。ただ乳房を触られたまま、何の反応もしなかった。石野岩雄は仕方なく乳房から退却し、直子の隣に腰かけるのもためらうと、また窓際迄戻り、言訳のように村雨春陽の居場所を訊かねばならなかった。
「お直、本当はお前は知っているんだろう?」
「なにをです?」
「誤魔化すな。村雨春陽の居場所だ?」
「春陽さんの居場所? どこに埋められているかではなくて?」
「春陽はもう……埋められているのか?」
「もう? 早いですか?」
「早いかどうかが問題ではない。お直、お前村雨春陽とは寝たのか? 寝ていないのか?」
「入れたか、出したかではなく、寝たかどうかですか?」
「いや、…じゃあ、お前入れさせたのか?」
「まさか。春陽さんはあなたの弟でしょう」
「だからってあいつのことだ。弟だからってあてにはなりはしない。お直、お前は知らないだろうが、あいつには昔からおかしなところがあってな、幼稚園の時IQが150あった。中学の時ヨーガを学んで駅伝の選手になった」
「あら、春陽さんはサッカー部ではありませんでしたか?」
「サッカー部の練習の後、駅伝の練習をしていたのだ。昔の部活は蟹工船みたいなものだ。それからあいつは堺市では丁目ではなく丁と目を略すことを決めた。五円玉に穴を空けたのもあいつだ。焼きそばパンに紅しょうがを入れたのもあいつだ」
「まさか」
「まさかとは思うが真実だ。ビオフェルミンは村雨春陽の便から発見された乳酸菌から作られている。ユーグレナは村雨春陽の便によって培養された。数字の〇を発見したのも村雨春陽だ」
「それは印度人でしょう」
「そうなのだ。村雨春陽は印度人なのだ。カレーを食べるとびっくりする」
「春陽さんが印度人なら、なんで白いのです?」
「お直、お前は京都の明治天皇が何故九州顔なのかと文句を言っているのか?」
「いえ、けしてそんな」
「じゃあ、村雨春陽が印度人だと受け止めるが好い。それからこうも言っておこう。GMOの熊谷社長はアザラシの遺伝子改良を諦めたのだ」
「それはご立派ですわ」
「お直、お前村雨春陽に惚れたのか?」
「妾? 妾が村雨春陽さんに惚れるんですか?」
「お前、いつも村雨春陽の書斎にいたじゃないか」
「だって暇なんですもの」
「暇だからって、なんだ、その生産性がないじゃないか」
「生産性ってなんですの?」
「生産性とは、つまり、あれだ、インプットとアウトプットの比だ」
「妾、春陽さんとお話をさせていただくと、とても勉強になるんです」
「ではお前は私の気持ちは考えないのか」
「あなたのお気持?」
「そうだ。鉛の仮面を無理やり被せられて、三本足の椅子に縛り付けられたこの私の気持ちが解るか。魚肉ソーセージで背中を突かれながら、風呂上りに揚げ物の臭いにつつまれるこの私の気持ちが解ると言うのか? もうすぐガラケーもADSLも終わるというのに、切り替えの手続きができない私の気持ちが解るのか?」
「あら、あなた、ガラケーでADSLって昭和じゃないんですから」
「そんなことも知らなかっただろう。何故ならお前は私のLINEアカウントも知ろうとさえしなかったからだ。私は今でも京セラのK009を使っている」
石野岩雄は黒いガラケーを取り出して振り返り、直子に見せた。それはわずかに塗装が剥げて銀色の筐体が見えかけていた。もう七年も使っている。
直子は顔を上げもせず、スマホに何か文字を入力していた。石野岩雄はガラケーを裏返しカメラレンズとスピーカー、何に使うのか解らない二つの金属端子を見た。それからそっとガラケーを洋机に置き、もう一度直子の傍に立った。
「お直、私とLINEを交換してくれないか?」
「ガラケーでは無理です」
「もし、コロナが治まったら、スマホに変えるつもりだ。そうしたら、LINEを交換して、デートしてくれないか」
「デート、ですか?」直子は顔を上げ、石野岩雄の顔を見た。
「うん。映画を観て、食事をしよう」
そう言った石野岩雄はわずかにはにかんでいた。お直はそっとスマホの電源を落とした。
「よござんす。デートいたしましょう。でも、もしコロナが治まらなかったら?」
「そんな未来は考えたくない。そんな未来はありえない。そんなことを考えても意味がない」
「でも科学的にはコロナはそう簡単には収まりますまい」
「科学やコロナなどどうでもいいのだ。本当にコロナなどそんなことはどうでもいいのだ。私はお前とデートしたい。食事をして、キッスしたい。お前とデートもできず、キッスもできない未来など未来ではない。そんなものはあってはならない。私はお前のことが本当に数寄なのだ」
「数寄だからお嫁に貰ってくだすったんじゃございませんか」
「そうだろうか」
「そうだろうかって変じゃございませんか」
「いや、精神界も同じ事だ。精神界も全く同じ事だ。いつどう変るか分らない。私がお前を貰おうと思ったからこそ結婚が成立したに違ない。しかし私はいまだかつてお前を貰おうとは思っていなかったのに。偶然? ポアンカレーのいわゆる複雑の極致? 何だか解らない」
「偶然はあんまりですわ」
「そう偶然はあんまりだ。だが正直にこう思う。私には選択肢などなかった。あれかこれかを選ぶ権利などなかった。ただお前を嫁に貰っていた。これが偶然だとしたらあんまりだ。片付け上手なのはこんまりだ。私は片付け上手ではない。私には整理できない。韓国ドラマ時代劇に出てくる又裂きの刑みたいなものだ」
「どういうことです」
「本人の遺志に関わらず、逃れようもない、という意味だ」
「なんだかそれでは私が無理に押しかけたみたいじゃないですか」
「何もそんなことは言ってやしない。私の存在にはお前が必要だ。どうしても必要だ。私はそのことをお前に承知してもらいたいのだ」
「理由に欠いていますわ」
「理由? 理由は簡単だ。私はどうしてもお前が好きなのだ。駆け引きも差し引きもない。どんなにお前が無慈悲であろうと馬鹿であろうと浮気者であろうと、私がお前を愛することには変わりはない。私にはお前を愛している」
「妾は馬鹿で浮気者で無慈悲ですか?」
「お前は純白だ。そして私はただお前を愛しているのだ。私の人生の七割は文字と数式に埋もれてきた。私は生身の女というものをお前ひとりしか知らない。それでいいと思っている。私の頑固はお前のためだけにある。私の頑固はお前の許しの中で硬直するためだけにある。私は頑固をゆっくりと動かす。それはお前の許しの中で、ねちゃねちゃと音を立てるだろう。細かな空気を含んで白濁した液体はお前の純白さの証明だ。お前は馬鹿で浮気者で無慈悲などではない。お前は私の全てだ。お前がいなければ私は無意味だ。お前が舐めたごはん茶碗を舐めるために私は存在しているのだ。私はお前を…」
「…どうなさるんですか?」
「…、いや、どうも、きょうはどうかしているね。疲れたんだろうか。お前も疲れただろう」
「いいえ、元気があり余っています」
「じゃ、ひさびさにやるか?」
「こんな時に?」
「こんな時だからするんじゃないか。みんな家でほかにやることがないからやっているよ」
「まあ、そんな」
そう言いながら石野直子はそそくさと用意を始めた。
「では、参る」
石野岩雄はそう云い放つと角道を開けた。直子も角道を開け、角交換の急展開となった。
丸徳ポンズ
翌日も、その翌日も人々は死に続けた。道端で、木造アパートの二階で、フランスの著名な童話作家のラクダの背中で。女弁護士は子供を生み、両親はじゃじゃ麺のもつれで離婚した。新型コロナウィルス性肺炎よる死者は世界で二十万人を超えた。一方、感染源となった中国本土では、新型コロナウィルス性肺炎の流行はピークアウトを迎えたかのように報道され始めた。本当のことは誰にも分からない。だが、一つだけはっきりしていたことがある。それはあれ以来、金さんが表に現れないという事実だった。
警備員の一人には、何か十分な考えがあったがそれを口に出すことをしなかった。彼の祖先は関東管領に連なる武士だ。彼には自負がある。自分がこの家を守っているという自負だ。それが数日来涛された。彼は主人から、村雨春陽の居場所を知っているかと問われたのだ。警備員であるからには家族の出入りは記憶していた。警備員の一人は、…それはつまり関東管領につらなる警備員の事だが、自分が警備していた時間帯には村雨春陽は家を出ていない筈だと答えた。それから主人は、キリンの角は何本あるかと訊いた。五本ですと警備員は答えた。その答えはいささか主人を不愉快にさせた。誰も偶数など期待していなかった。
「六丁目の石井さんを知っているか」
「東京都の最新情報ですか?」
「日本の為替の問題だよ」
そんな言葉が警備員の前を通り過ぎた。去年は長男、今年は次男が二時間半で体毛の濃いことに気がついた。黄色い取っ手を踵に突き刺した女が撥ねてくる。脚は短かった。森や山の斜面から抽出された蜂蜜は最も高価で最高の品質であり、収穫作業は簡単で困難な作業ではなく、季節ごとにじんましんを見つけることが保証されていない。
青木は自宅のマンションでツイッターを眺めるように景色を見ていた。ただ玄関の前で立っていた。それが彼の仕事だった。立っているだけで給料がもらえる。座ってはいけない。立たなければならない。立ち仕事だ。頭の中は自由だ。どんなに卑猥なことを考えても構わない。真面目な顔をして、立っていればいい。青木は鰻が数寄だ。始終鰻のことをことを考えていた。青木にとって鰻重は最高のごちそうだった。だがうに丼も好きだった。北海道でうに丼を食べるのが夢だった。そのためなら一生カツ丼が食べられなくなってもしかたないと考えていた。だがカレーライスとラーメンだけは生涯食べていたいと思った。しばらく我慢しているが、死ぬまでにはもう一回は出前一丁とサッポロ一番味噌ラーメンを食べるだろうと思っていた。チャルメラもうまかっちゃんも一度は食べるだろう。日清焼きそばもUFOも食べるだろう。そうなればペヤング・ソース焼きそばも一回くらいは食べたくなるはずだ。一平ちゃんは我慢できるような気がする。だがどん兵衛は我慢できそうにない。カップヌードル・シーフード、カレー、チリトマトももう一度くらいは食べるのだろう。このまま食べないで死ぬという感じがしない。塩と味噌は我慢できる。
焼きそばパン、カレーパン、スパゲッティパン…。どれも一度は食べるのだろう。カツサンド、タマゴサンド、ホワイトシチューに浸した食パン、フレンチトースト、
青木は麺麭のために生きている人ではなかった。村雨春陽の影響で、炭水化物を控えていたのだ。麺麭のために生きるのでは人間の価値がないと考えていた。普段はブロッコリーと豆腐。メカブ、納豆、胡瓜、キャベツ、クルミ、魚と肉と卵、チーズとオリーブオイルを食べて生きていた。だからいつも炭水化物のことを考えていた。考えないではいられなかったのだ。先生は…、平気なのだろうかと青木は不思議だった。
もうすぐお昼になる。しかし青木は昼飯を食べない。そして米やパンや麺のことを考え続ける。オムライス、チャーハン、あんかけ焼きそば、鶏五目おにぎり、たらこスパゲッテイ、コロッケそば、刺身定食、豚汁饂飩、ピロシキ、たまごかけごはん、ピザ、グラタン、パエリアのことを考えた。考えないではいられなかった。
寿司、鮨のことを忘れていた。もしもう一度寿司を食べられるなら、いきなり中トロを注文するかもしれない。イカとタコと海老とサーモンとぶり、それからイワシとホタテは食べるだろう。しめは雲丹かあん肝だろう。あら汁とビールは欠かせない。
青木がそんなことを考えているとは全く知らない小六は下女のお重に用意させた昼飯を食べていた。岩之助と村雨春陽の母、嫂の四人が食堂にいた。
「あれだな」と岩之助は言った。「左翼作家がひっきりなしに安倍総理を批判しているな」
小六にはそれが左翼作家批判、安倍政権擁護の意見に聞こえた。誰もその話を引き取らないので、小六も黙ってそうめんをつまみ上げた。昼飯はサバの味噌煮と流しそうめんだった。サバの味噌煮を小鉢に崩し、そこに流しそうめんをつけて食べるのが石野家流のそうめんの食べ方だった。汁けがなくなるとヤマサの昆布つゆが足された。副菜には胡瓜のキムチ和えが用意されていた。丸徳ポンズの蓋は空いていなかった。
「小泉進次郎はゴミ袋に感謝の言葉を書けと提案したらしい」岩之助は言った。
小六にはそれが批判の意味だと取れた。だが確信はない。血まみれの知らない酔っ払いが善人であるとは限らない。
「コロナウイルスと5Gは関係があるらしいじゃないか?」
岩之助は言った。そして小六の顔を見た。小六はこういう話題なら門野の方が得意だろうという顔をしたがそう口には出さなかった。
「それにしても金さんはどうしているんでしょうね」珍しく石野直子が話題を変えようとした。その時はまだ金さんが生きているのかいないのか、トランプさん以外誰も知らなかった。
「うん。きっと村雨春陽と同じだろうな」岩之助はじっと直子を睨んだ。「なあ、お直?」
石野直子は丸徳ポンズのボトルを手に取り、何もしないで元の位置に戻した。そしてみなずるずるとそうめんを啜った。
「あれだな、こう毎日そうめんばかりだと流石に飽きるな」
岩之助がそう言うと、小六と石野直子は顔を上げて、岩之助を見た。
「昨日もそうめん、一昨日もそうめん、明後日もそうめんだった」石野岩之助はなおも続けた。「そうめんなんて、そう毎日食べるものじゃなくて、年に二三回でいいんじゃないか。だが我が家では昼飯といえばいつもそうめんだ。一年中、そうめん、そうめん。もう私はそうめん以外の食べ物を何年も口にしていないんじゃなかったかな。まるでそうめん教の教祖様だ。どいつもこいつも、そうめん、そうめん。やれ、ごま油だ、やれ葱だ、ハムだ、かいわれだ、卵だ、ツナだ、全部そうめんだ。そんなにそうめんが食べたければそうめん国にでも行けばいいのだ。わさびだ、のりだ、生姜だ、みんなそうめんだ。そうめんなんて、そう毎日食べるものじゃなくて、年に二三回でいいんじゃないか、なんてお前たちは思ってやしないか。事実に立脚して証拠立てられたことをないがしろにしてはいかんな。つまりそんなにそうめんばかりを食べていると、にゅうめんという一種の美くしい世界にはまるで足を踏み込まないで死んでしまわなくっちゃならない。私から云わせると、これ程憐れな無経験はないと思う。そうめんに関係した経験は、切実かも知れないが、要するに劣等だよ。そうめんを離れ水を離れた贅沢な経験をしなくっちゃ人間の甲斐はない。お前たちは私をまだ坊っちゃんだと考えてるらしいが、私の住んでいる贅沢な世界では、毎日昼飯はそうめんだ…」
石野岩之助の言う事にも一理あるなと小六は感心した。小六の記憶では、昨日の昼飯は赤だしと天丼だった。アナゴと海老、キスとマイタケ、それにイカまで入った豪華な天丼だった。ただそれは小六の記憶に過ぎない。石野岩之助が小六とは別の記憶を持っていることは自然だ。それは石野直子も同じだろう。そう小六は思った。
「私が若い頃はろくな食い物がなかった。今は贅沢だ。やれ、タピオカだ、やれハットグだ、キンパだ、チャンジャだ、チーズダッカルビだ、タッカンジョンだ、プリンクルチキンだ、カルボプルタックだ、チムタクだ、ナクチポックンだ、そんなものはなかった。あるものといったら、そうだな、芋だな。芋しかなかった。毎日毎日、芋ばっかり食べていた。後は大根だな。大根ばかり食べていた。後は牛蒡だな。牛蒡ばかり食べていた。後は土佐赤牛のデミハンバーグだな。土佐赤牛のデミハンバーグばかり食べていた。後はサッポロ一番味噌ラーメンだな。サッポロ一番味噌ラーメンばかり食べていた。後はあれだ、水団だな。水団ばかり食べていた。後はウシガエルだな、ウシガエルばかり食べていた。後はあれだな、カイコだな。カイコばかり食べていた。後はイナゴだな、イナゴばかり食べていた。後はドングリだな。ドングリばかり食べていた…」石野岩之助は言った。
石野直子は一つ嘘が挟まれたように感じた。あるいは別人の記憶が。それは石野岩之助の駆け引きではないかと疑い、一切表情を変えなかった。だが小六もその食べ物には引っかかった。これは村雨春陽の好物ではないかと疑った。だが小六はその不自然が石野岩之助の駆け引きだとまでは気が付かなかった。
村雨春陽の母は二つの嘘に気が付いていた。石野岩之助は実は石野岩之助そっくりの別人であり、本当は村雨春陽の父親なのではないかと疑っていた。ただ確信はなかった。また何故村雨春陽の父親が石野岩之助のふりをしなくてはならないのか、その動機が思い当たらなかった。それにそもそもいつ二人が入れ替わったのか、そのタイミングが解らなかった。
「信田巻は?」村雨春陽の母親は訊いた。
「そう、信田巻ばかりだった。毎日毎日信田巻だ。信田巻しかなかった。もう何年も信田巻しか食べていない…」言いながら石野岩之助はそうめんをすすった。
「チキンラーメン」小六は言った。
「そう、チキンラーメンばかりだった。毎日毎日チキンラーメンだ。チキンラーメンしかなかった。もう何年もチキンラーメンしか食べていない…」
「伝説のスタ丼」石野直子は言った。
「そう、伝説のスタ丼ばかりだった。毎日毎日伝説のスタ丼だ。伝説のスタ丼しかなかった。もう何年も伝説のスタ丼しか食べていない…ってお直、私は今までに伝説のスタ丼など一度も食べたことがないぞ。お前たち、私を揶揄っているんじゃないのか?」
「いえ、お義父様勘違いですわ。伝説のスタミナから揚げカレーとごっちゃになっていませんか?」
「そうだったかな……」岩之助は何度か空振りさせた後、橋を置いた。「この何日間か、まるで悪夢を見ているようだ。こうして…昼飯を食べていても何の味もしない。こう、胸のあたりになにかが閊えている感じがする。そうめんの冷たさが二の腕を伝わって肩口から心臓へ飛び込んだような気持がするのだ。それに咳を二三度したら死んでしまうような気がするのだ」
「何ですか、滅相もない」村雨春陽の母親は言った。
「滅相もないと言ったってもう二十一万人以上が死んでいるんだ。死んだってコロナかどうか解らない死体もある。私だっていつ死ぬか解らない。今死ぬかも知れない。もう死んでいるかもしれない。ああ、もう駄目だ。人類はお終いだ。原爆だ。サリンだ。口裂け女だ。イカ墨スパゲッティだ。安室奈美恵も引退した。もう何もいいことはない。バイデン氏は二十七年前にセクハラしたそうだ。ああ、私もセクハラされている。毎日締め付け痴漢ビームを浴びている。シャクティパットで叩かれている。足の裏を揉まれている。お直、お前は何故毎晩私の股間を舐めるのだ?」
「舐めてませんよ」
「嘘をつけ。私は毎晩お前に股間を舐められて大変迷惑をしているのだ。私はお前が竿をほったらかしにして肛門や金玉ばかりを責めるのに閉口している。私のつぼはそこではないのだ。私は先っちょをちょろちょろして欲しいのだ。それだけが私の願いだ。他には何も望むものはない」
「私が舐めますよ」村雨春陽の母親が言った。
「ああ、気持ち悪い。勘弁してくれ。お前、正気か? お前、何を舐めるだって? 頭が可笑しいのか? お前しわくちゃのくせして勝手なことを言うな。恥を知れ」
「なんですか、私があなたのおちんぽを舐めてはいけないのですか?」
「お前は魚肉ソーセージでもしゃぶっていろ。何を色気づいているのだ。はしたない。恥を知れ。お前には節操というもがないのか。お前は紐パンで、ミニスカートをはいているのか? それでお前、男に誘惑されるつもりなのか? 授乳させて、手コキさせるつもりなのか?」
「あんまりですわ」村雨春陽の母親は言った。言ったが気にしているのは金さんの事だった。いよいよそんな気がしていた。だがそれにしても静かな感じがした。それからどうなるのか想像もつかなかった。戦争が起こるような気がしたが、何故戦争になるのか解らなかった。平和になるような気もしたが、どうして平和になるのか思いつかなかった。
五月になった
あっという間に五月になった。小六は毎日飯を食べて寝た。コロナウイルスは人を殺し続けた。死者は二十四万人を超えた。村雨春陽はまだ戻ってこなかった。誰も村雨春陽の話をしなくなった。家族はなんとなく気がついた。村雨春陽がいなくなっても誰も困らないことに気がついたのだ。むしろ静かでよかった。
小六は途中で呼び止められることもなくなり、安心してうんこをすることができた。『夏目漱石論集成』も読み終わった。村雨春陽と嫂が話していたことの意味も何となく理解できた。しかし小林十之助の言わんとするところには辿り着けなかった。
小六は自分が小林十之助の主張のどのあたりに引っかかっているのか、自分でも良く分からなかった。ただ受け入れがたかった。それに世界がコロナで大変なことになっているのに、今更近代文学でもなかろうという感じもした。だがどうでもいいという感じはしなかった。全て感じである。
まず小六には明治という時代が曖昧だった。昭和は何となくわかった。平成も大正も分った。ただ明治は曖昧だった。なにがどうなって明治になったのかよく解からなかった。小林十之助によれば、夏目漱石はそんな明治に生きたという。よく解らない時代に生きて、その不思議な時代と女の恐ろしさを正直に描いたという。
小六にはまずそこが不思議だった。
江戸城無血開城以降、官軍は江戸を荒らし回った。男が殺され、女が犯されるという戦争の常識は何時でも変わらない。東京には九州顔の天皇がやってきた。太い眉に二重瞼、そしてご立派な鼻。
地方領主が徳川幕府を追い落とすのではなく、王政復古と言い始めた時から混乱があった。このままでは日本は外国に攻め取られてしまうという危機感があり、その危機に立ち向かうには今の幕府では無理だと証明された戦闘もない。むしろ宮様を担いだ薩摩郡が
明治時代に幸徳秋水らが大逆事件で死刑になっている。幸徳秋水は南朝が正当だと主張し、明治政府はそれを認めた。それから南朝が正当だと教科書にも書かれた。まずここがよく解らない。
北朝の系譜である天皇を担ぐ明治政府が、南朝が正統だと認めるなどとても信じられない。本当のことはどうでもいいが、なんとしても北朝が正統だと言い張るべきだっただろう。それでも、もし南朝正統説が本当だとして、いつの間にか南朝の話が消えてしまったことが不思議だ。
皇居に楠木正成の銅像があることが不思議だ。楠木正成は南朝の忠臣だ。その楠木正成の北朝に対する呪詛の言葉、七生報国が日露戦争で大流行した。この矛盾を夏目漱石は『艇長の遺書と中佐の詩』で指摘していると小林十之助は書いているが、いま一つ曖昧である。
道義的情操に関する言辞(詩歌感想を含む)は其の言辞を実現し得たるとき始めて他をして其その誠実を肯はしむるのが常である。余に至つては、更に懐疑の方向に一歩を進めて、其その言辞を実現し得たる時にすら、猶且其誠実を残りなく認むる能はざるを悲しむものである。
微かなる陥欠は言辞詩歌の奥に潜むか、又はそれを実現する行為の根に絡んでゐるか何方であらう。余は中佐の敢へてせる旅順閉塞の行為に一点虚偽の疑ひを挟むを好まぬものである。だから好んで罪を中佐の詩に嫁するのである。
小林十之助は、この夏目漱石の抽象的表現を完結にこう書き換える。
およそ大意は「広瀬中佐の行為は誠実であり、詩が誠実でないのだ」と解することができる。つまり広瀬中佐は北朝の皇軍を裏切ったのではなく、七生報国という詩が間違っていただけなのだろう。
そういう意味でないとしたらどうという意味だという解釈が浮かばないから困る。それにしても明治時代に『太平記』がなかった訳ではなかろうに、何故七生報国などという言葉が流行したのか、本当に不思議だ。
小林十之助は夏目漱石を徹底した明治批判者に仕立て上げる。その代表作『こころ』では大嘘である明治天皇には殉死できないが、大嘘に蓋をしようと腐心した明治という時代の精神、帰太虚の精神に殉死する先生を描いたと断ずる。さらにその遺作『明暗』では生きたままの生まれ変わりを描き、明治天皇すり替え説を論ったという。しかし明治神宮ができて乃木神社までできた。
しかし小六にはそんな明治天皇批判が新聞小説で堂々と行われていたことが不思議だった。もしかしたら誰も意味が解らなかった? まさかそんなことはあるまい。解ってはいるが解らないふりをしていた? そんなことに一体何の意味があるのだろう。
何曜日なのかも曖昧なただなんとなく五月ではあろうという休日の午後三時、小六は村雨春陽の書斎にいた。『夏目漱石論集成』を返しに来たついでに何か面白い本はないかと探しに来たのだ。図書館が閉まっていて、書店に行くのも憚られて、村雨春陽の蔵書を漁ろうという魂胆である。
ただその書架を眺めながら、小六は退屈した。どの本も小六には興味がなかった。村雨春陽は馬鹿ではなかろうかと小六は疑った。どうでもいい本ばかりが並んでいた。小六は椅子に深く腰掛け、スマホを取り出してなんとなくツイッターを眺めた。
小六はふと、これからは昔の思い出だけの世界になるのではないかと考えていた。アーカイブ、アーカイブ。だがいつか立ち聞きした通り、門野の予言は当たっていた。日経平均は半分になることもなく、下げ渋るどころか二番底を埋め、むしろ上げ渋っていると誰かは呟いていた。
書斎へ石野直子がやって来て、ソファーに腰かけた。
「金さんがテレビに出たそうよ」
「金さんですか」言いながら小六はツイッターの中を金さんで検索した。「こ、これは…酷い」
「酷いでしょう」
「酷いですね。これは酷い」
「なら小六さん、小説にでもお書きなさいな」
「無理ですよ。日本に工作員が何万人いると思っているんですか? 下手なことを書いたら、明日にでもちい兄さんみたいなことになっていますよ」
「あら、春陽さんは工作員に何かされたの?」
「そうは言っていません。でも…何か都合が良すぎませんか」
「何がです?」
「まずコロナウイルスが大流行した。これは仕方ありません。誰かが意図的にやったものではなく、事故でしょう。ただし人類史上最大のピンチだと言われています。世界はもう元には戻らないと言われています。大地震にも大不況にも耐えられた世界が、疫病によって確実に変わると言われています。ウイルスは変異し続け、当初言われていたよりも死亡率がぐんと高くなっています。そしてちい兄さんがいなくなりました。これは単なる偶然でしょうか?」
「コロナと春陽さんは関係ないでしょう」
「でも国がステイホームを呼び掛けた瞬間にちい兄さんは家を出た訳でしょう。何か変じゃないですか。それにドンの首が取れたのも偶然ではないでしょう。ちい兄さんの書生の癖に門野は平気な顔をして飯を食っています。それに何故かうちの近所の商店街は家族連れで溢れています。みんな自分達だけはコロナに罹らないと思い込んでいるみたいな顔をしています。みんなテレビも見ないし、インターネットもやらないとして、どうしてあんなに平気なんでしょう。それからちい兄さんと一緒に金さんがいなくなって、金さんの偽者が現れました。似てるっちゃー似ていますが、明らかに偽者です。もう無茶苦茶です。僕はこのシナリオが不快です。もう滅亡の感じ鹿致しません。嫂さん。僕はこの『夏目漱石論集成』という本を読んで、小林十之助という批評家には感心しませんが、夏目漱石なる明治の文豪には大いに感心しました。夏目漱石はこんなことを書いていると小林十之助は書いているのです」
現今英国の小説家中でもっとも個性のいちじるしい作品にあらわれた、メレジスを見給え、ジェームスを見給え。読み手は極めて少ないじゃないか。少ない訳さ。あんな作品はあんな個性のある人でなければ読んで面白くないんだから仕方がない。この傾向がだんだん発達して婚姻が不道徳になる時分には芸術も完く滅亡さ。そうだろう君のかいたものは僕にわからなくなる、僕のかいたものは君にわからなくなった日にゃ、君と僕の間には芸術も糞もないじゃないか」
「そりゃそうですけれども私はどうも直覚的にそう思われないんです」
「君が直覚的にそう思われなければ、僕は曲覚的にそう思うまでさ」
「曲覚的かも知れないが」と今度は独仙君が口を出す。「とにかく人間に個性の自由を許せば許すほど御互の間が窮屈になるに相違ないよ」
「小林十之助は書いているんです。明治時代に夏目漱石という文豪がいて、新聞小説で散々明治天皇を批判してきたと。そしてこのように人間の個性と自由は芸術を滅ぼすと。随分皮肉じゃないですか。夏目漱石という作家の作品はどれもこれも百年もの長きにわたり誰にも理解されなかったというんです」
「兄弟ですね。村雨春陽さんも同じことをおっしゃっていましたよ」
「そりゃ同じ本を読んだんだから同じことを言うでしょう」
「だってお二人とも個性をお持ちでしょう。お二人の個性が窮屈でないというのはご兄弟の特権ではありませんか」
「でも、僕にはちい兄さんの考えが解りません。商店街の家族、金さんの偽者を信じている人が解りません。そして小林十之助という人が何故明治の文豪まで捏造して、存在する筈もない批評家を馬鹿にしたいのか解りません。ないものをあるといって、そのないものを理解できない批評家がいたといって、架空の批評家を馬鹿にする。こんな人が現れてはもうこの世の終わりだと思いました。しかしインターネットの世界はもっとひどいですね。有名人はみんなコイツ呼ばわりです。馬鹿と阿呆が罵り合っています。みな心が荒れています。ただ下品で粗野で間抜けになろうと必死です。誰かを言葉で傷つけようと頑張っています。小林十之助の『夏目漱石論集成』もそんな試みの一つではないでしょうか。これならコロナで世界が滅びても仕方ありません」
「そうですね。でもそう簡単に滅びないから苦しいんじゃありません? じわじわと締め付けられて、先が見えない。ただ楽観できない。ヒーローは現れない。飯屋は休業中。春陽さんはアル中」
「嫂さん、最近していますか?」
「何を?」
「何をって? 惚けるつもりですか?」
小六は嫂の正面に坐り、中指を立てた。
「前立腺マッサージ?」
「いえ、鼻ほじりですよ」
石野直子は鼻を触った。鼻毛は伸びていないし、鼻糞もついていない。小六は書斎のドアを見た。
繰返していうが、小六はドアを見たのである。
書斎のドアは平生の通り別にこれと云って変った様子もなかった。ただわずかに開いた隙間から、こちらを覗いている者があった。
「芳江かい?」小六はそちらに声をかけた。
芳江というのは兄夫婦の間にできた一人っ子であった。嫂がほとんど構わないので、普段はお重が引受けて万事世話をしていた。芳江は元来母や嫂に馴いていたが、いざとなると、お重だけでも不自由を感じないほど世話の焼けない子であった。小六はそれを村雨春陽の気性を受けて生れたためか、そうでなければシベリア帰りの近所の米屋のおじさんの愛嬌のあるためだと解釈していた。シベリア帰りの近所の米屋のおじさんは真冬でもランニングシャツ一枚で、布団が要らない。タオルケット一枚で、それでも足は出さないと眠れないらしい。シベリア帰りの近所の米屋のおじさんは毎月米とプラッシーを配達に来る。小六には米屋の場所が正確には解らないが、シベリア帰りの近所の米屋のおじさんは徒歩でやってくる。シベリア帰りの近所の米屋のおじさんは…
「芳江?」
石野直子はそう呼びかけたが、芳江は何の反応もしなかった。
「米屋のおじさん?」
小六は試しにそう声をかけたが、返事はなかった。その代わりにドアがそっとしまった。
「芳江じゃなかったんですかね?」
「芳江じゃないとしたら、誰でしょう? まさか春陽さんの霊?」
小六にはその冗談がなんだかとても深刻なものに感じられてならなかった。そしてふと門野と嫂の因縁を思い出した。そしてまた嫂の出身地を思い出した。
樺太のエヴェンキ
「そういえば、嫂さん、嫂さんの出身地はどこか北の方じゃありませんでしたか?」
小六は訊いた。シベリア帰りの近所の米屋のおじさんからのなんということはない連想だったが、その問いは思いがけない響きで石野直子の胸に迫った。昔から小説というものは登場人物の言葉の駆け引きが肝心だと相場が決まっている。だが小六は小説が下手だった。なんでも棒切れを振り回していたら嫂の方から寄ってきたようなものだ。
「昔、身代金誘拐事件に遭ったというのは本当ですか?」
小六は重ねて訊いた。
「まさか。小六さんはきっと小説をたくさんお読みだから、現実と物語の区別がつかなくなっているのですわ」
「でもお嫂さまのお父様の弟さんは頭をボウガンで撃たれてお亡くなりになったでしょう?」
「いえ、父は末っ子です」
「フェイクファー禁止を訴える団体の役員をされていたとか?」
「父がですか? 父は官職を退いた後、中南米カリブ海の野犬保護団体にしばらく努めていましたが」
「中南米カリブ海に野犬なんかいるんですか?」
「信じられないかもしれませんが、生きたままの野犬を餌にしてサメを釣る人たちがいるそうなんです」
「でもカリブ海って海でしょう」
「海にだって犬くらいいるでしょう」
小六には曖昧だった。確かに海に犬がいても可笑しくはないのだが、何か辻褄が合わない感じがする。考えれば考えるほど解らなくなる。今、何故か世界は全く新しい事態を迎えている。だがどうしてこんなことになったのか解らない。どうも何かもう一つ辻褄が合わない気がする。前例のない非常事態が不思議だ。疫病が流行ることは不自然ではない。そういうことがあってもおかしくはない。だがタイミングが可笑しい。このタイミングでなくともよかった筈だ。ちょっと前まで小六は北朝鮮のミサイルと首都直下型大地震を恐れていた。しかし今はなんといってもコロナだ。そして金さんの顔が変わってしまった。では地震の方が自粛してくれているかといえばむしろそうではなさそうだ。ツイッターではみんな出鱈目なことをリツイートしている。『存在と時間』の中でマルティン・ハイデッガーが書いていたことを思い出す。ハイデッガーは、コロスは身体性を欠くと書いていた。リツイートはコロスだ。身体性はない。確かにお馬鹿なテンプレートを無批判に借りてくる無思想性もある。ファナティックという病もある。博士号が、哲学者が、コロスしている。嫂の父親が末っ子で弟はなく、その弟がボウガンで殺されたのではないとしたら、そしてフェイクファー禁止を訴える団体の役員ではなかったとしたら、自分の記憶にはどこかおかしな部分がある。小六は嫂がドレミまりちゃんに跨っている白黒写真を見たことがあるのだが、嫂はピンクレディの自転車の間違いだと言い張る。この世界が五秒前に作られたものではないのだとしても、誰かが自分の脳味噌に嘘の記憶を詰め込んで、それでこんなにコロナが流行っているんじゃないのかという気がする。
「でも嫂さん、何故僕の名前は小六なんでしょう?」
いよいよ小六は訊いてはならない質問をした。小六が自分の名前に疑問を持ったのはこれが初めてだった。今の今まで一度も疑問に思ったことはなかった。だが一度疑問に思うと不思議としか思えなかった。
石野直子は何も答えなかった。答えられるわけもない。
ノックをして三四郎と五右衛門が入ってきた。
「なんだ、小六もここにいたのか?」三四郎は言った。
「ちい兄さんがいなくなったんだって?」五右衛門は言った。
「だ、誰?」思わず小六は呟いた。
原爆は落とされたのではなく、打ち上げられた
小六には村雨春陽の書斎に突然現れた二人の男の顔に見覚えがなかった。もしかしたらこの二人とは前世の因縁があるのかもしれないが、それにしても突然村雨春陽の書斎に現れて、さも知り合いかのように話しかけてくるのは意外だった。何やら年上で、なんなら兄弟のような口ぶりも妙だった。
小六は思わず嫂の顔を見た。嫂は体を斜めに捩って、後目に小六の驚愕と狼狽を心地よげに眺めていた。それから二人の男の股間に流し眼をして、その顔を見比べた。まるで海水浴場の掛茶屋に一切を脱ぎ捨てたかのように全裸の男たちは、その股間を西洋の流儀でつるつるにしていた。一人は坊主、もう一人の男は二ヶ月も床屋に行っていないような長髪に手拭いを巻いていた。
「寒くありませんの?」嫂はさも本当に不思議であるかのように訊いた。
小六はどうやってこうまでみごとにつるつるにしたのか不思議だった。コロナで頭がおかしくなったのか、それとも少しでも長く見せようとしたのか、いや、理由ばかりではない。剃刀で剃ったにしては見事過ぎる。ブラジリアンワックスを使ったのか、Veetを使ったのか…。
「そんなことより…」三四郎は言いながら、石野直子の向かいに座った。五右衛門も隣に。二人は何か深刻な顔をして、ソファーに腰かけた。「ちい兄さんはどこへ行ったんでしょうね?」
どうもその問いは石野直子に向けられていた。石野直子がその答えを持っていて、それを隠しているかのような口ぶりだった。深田恭子が半尻ビキニでサーフィンをしているとして、本田翼と一度でもできたら、もう何も思い残すことはないという顔をしていた。
「春陽さんは…」石野直子は言った。「きっと…」
石野直子は手相でも確認するかのように両掌を順に眺めて指でなぞり、言葉を選んでいた。小六はその言葉を推測しながら、どんな言葉にも辿り着けないでいた。いや、本田翼より浜辺美波の方がいいのではないかと小六は考えていた。永野芽衣は一瞬で切り捨てた。
「春陽さんはスマホゾンビにおなりになったんじゃないでしょうか?」
「スマホゾンビ?」
いかにもそう訊き返したげに五右衛門は石野直子の顔を見た。
「それからデカ盛りの店に行って、後ろ向きにバスケットボールを投げて、跳ね返ってきたボールに頭をぶつけたんじゃないでしょうか。それにリモートのワイドショーに飽きて、白猫プロジェクトの鬼滅の刃ガチャも終わって、もう何もかもどうでもよくなったんじゃないでしょうか。それにしても…お二人とも平気ですか」
「何がです?」
いかにもそう訊き返したげに三四郎は石野直子の顔を見た。
「だってあんまり裸じゃないですか。見ているこちらが恥ずかしくなりますわ。お二人とも、もうそういうことはどうでも良くなったんですか?」
小六には嫂のこだわりがやや不明だった。
裸の二人は愉快そうに黙っていた。
嫂はフロギストンを奪い取られた炎のように、静かに消えた。まるで、絶對とは問うことさえも許さないという、厳かな神聖の現れだった。小六は嫂が残したしびれえいの帽子を被ってみる。
「まあ、いいか。」そう呟く。月曜の朝になってみれば、しびれえいなんてぐったりしている。どんなひどい目に遭ったのか知らないけど、ぺちゃんこだ。そう思っていた。
ツイッターでは今、原爆は落とされたのではなく、打ち上げられたのだと呟かれた。
「それにしても小六、お前は春陽そっくりだな」三四郎は言った。
「いざとなれば身代わりができるんじゃないか」五右衛門は言った。
「そんなに似ていますか?」小六は訊いた。村雨春陽に似ていることが小六には不満であった。
「良く似ているよ」三四郎は言った。
「フォン・ド・ボーくらいにな」五右衛門は言った。
小六の体内でコロナウイルスはひそかに変異を始めていた。
了
