芥川龍之介は夏目漱石をどのくらい知っていたのか④ マグネテイズムを恐れた
この頃久米と僕とが、夏目さんの所へ行くのは、久米から聞いてゐるだらう。始めて行つた時は、僕はすつかり固くなつてしまつた。今でもまだ全くその精神硬化症から自由になつちやゐない。それも唯の気づまりとは違ふんだ。さつき着物の例を出したから、その例をもう一度使ふと、つまり向こうの肉体があんまりよすぎるので、丁度体格検査の時に僕の如く痩せた人間が、終始感ず可く余儀なくされるやうな圧迫を受けるんだね。現に僕はニ三度行つて、何だか夏目さんにヒプノタイズされさうな——たとへばだ、僕が小説を発表した場合に、もし夏目さんが悪いと云つたら、それがどんな傑作でも、自分で悪いと信じさうな、物騒な気がし出したから、この二三週間は行くのを見合はせている。
芥川が漱石と面会できたのは、漱石の晩年の本当に短い期間である。漱石は芥川に対して「ほしいものがあれば言いなさい」と格別に暖かく接していたように思えるし、その才を買っていたことは疑いようもない。それなのに芥川の方では、完全におぢいちゃん状態の漱石の肉体に怖気づいている。確かに漱石は帝大講師時代、その眼光の鋭さからザ・アイとあだ名され、その小柄な体躯が一回り大きく見える威圧感を放っていたと言われているが、芥川が出会った時点で漱石は満身創痍、というより全身ズタボロで、それでも圧倒されていた芥川の感受性の方にこそ注目すべきかもしれない。
冷静に見ればそこにはよぼよぼのおぢいちゃんになる寸前の、かろうじて威張っていた漱石がいたと見るしかない。この時期の漱石は小宮豊隆などからしてみれば、ぎりぎりの漱石であり、「向こうの肉体があんまりよすぎるので」などと感じられたら感涙を流すに違いない。少し批判の角度が違うようだが、漱石の恐ろしさに気づきもしない小宮よりも、よぼよぼの漱石の恐ろしさに気が付いて距離を置いた芥川の方が、より漱石のカリスマ性を理解していたのではないかと思わないでもない。
結果として芥川はその後も漱石文学とは距離を取り、独自の路線を貫いた。内田百閒のように『吾輩は猫である』の続きを書こうとはしなかった。(子供の時には芥川龍之介も三島由紀夫も『吾輩は猫である』のパロディ作品のようなものを書いている。)芥川は漱石に染まることを恐れたのだ。
人格的なマグネテイズムとでも云ふかな。兎に角さう云ふ危険性のあるものが、あの人の体からは何時でも放射してゐるんだ。だから夏目さんなんぞに接近するのは、一概に好いとばかりは云へないと思ふ。我々は大人と行かなくつても、まあいろんな点で全然小供ぢやなくなつてゐるから好いが、さもなかつたら、のつけにもうあの影響の捕虜になつて、自分自身の仕事にとりかかるだけの精神的自由を失つてしまふだらう。兎に角東京へ来たら君も一度は会つて見給へ。あの人に会ふ為なら、実際それだけにわざわざ京都から出て来ても好い位だ。——」
自分は当時菊池へ宛てて、こんな手紙を書いた事があつた。

芥川は自分自身の仕事をやり遂げる精神的自由を維持するために、夏目漱石に染まることを避けた。そう思えば、何故か漱石と距離をとった谷崎潤一郎は幸福であったかもしれない。ここで芥川が指摘している漱石の磁力に引き寄せられて、漱石に染まった一人に和辻哲郎がいる。
和辻が自分の仕事をやり遂げなかったというものはまず一人もあるまいが、その和辻倫理学とよばれているようなものが夏目漱石の強い影響下にあることもまた確かであろう。これが良いことなのか悪いことなのか私には何とも判断できない。
例えば芥川龍之介に『続明暗』という大作があったら、と無責任に思わないではない。ただ、こういう思いというものは芥川にしてみれば「冗談ぢやない」と拒絶すべきものであろう。『あの頃の自分のこと』が書かれたのは大正八年。和辻はまだ『古寺巡礼』を書いたばかりで、エゴイズムを巡る議論を始めていない。だからなんなら和辻倫理学に『続こころ』的な匂いがすることを芥川は見ていないかもしれない。しかしそのことに気が付いたら、やはりぞっとしてしまうのではないか。
松岡も久米も漱石にぞっこんになり、結果として娘を奪い合うようなことにもなった。久米正雄の「漱石先生の死(記錄)」を読むと、その心酔ぶりがよくわかる。
芥川は漱石離れをすることで自分の仕事をやり遂げた。どこか漱石に祟られたようなところはあるが、距離は置いていた。芥川は案外漱石のことを知らなかった。自分自身であり続けるために知らずにいたのだ。
[余談]
それにしてもこの顔で、あんな小説を書けば、誰でも驚くに違いない。顔だけでいえば若い頃の島田雅彦もかなりのハンサムだが、やはりハンサム度でいえば芥川が頭一つ抜けている感じがする。よく村上春樹の文章がものすごくハンサムを連想させると言われるけれど、芥川に対抗できるハンサムと云えば、中原中也かな。






