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『三四郎』の謎について⑰ 広田は何故三四郎を湯に誘ったのか?

 題名を見た瞬間にどうせそっち関係の話だろうと決めつけるのは良くないことです。何でもかんでもそっち関係にしてもつまりません。いや、例えば芥川龍之介にしても、このような、

 嗜好があり、漱石にも怪しげな手紙のやり取りがないわけではないのですが、そういう意味では谷崎潤一郎の初期作品には明確に対象を女性に絞ったマゾヒズムではないものが現れてもおり、南方熊楠にしても、

 そういうところがあり、これは時代もあるのかなあ、とは思いますが、あえてこうして別に章立てして書いているのは、

 この「与次郎は硬派」→「与次郎は相当悪い」とは違う話をするためなのです。これまでこの銭湯問題は、

 ……という問題の陰に隠れて出てきませんでした。注目すべきは銭湯に行くこと自体ではなく、三四郎の身長だと思い込んできたわけです。しかし、

 こうして三四郎の下宿について記憶に残らないところを敢て確認してみますと、三四郎の下宿でさえ風呂があるんですね。風呂がないのは『明暗』の津田の家ですね。ではさて広田の家はどうかというと

 あくる日は約束だから、天長節にもかかわらず、例刻に起きて、学校へ行くつもりで西片町十番地へはいって、への三号を調べてみると、妙に細い通りの中ほどにある。古い家だ。
 玄関の代りに西洋間が一つ突き出していて、それと鉤の手に座敷がある。座敷のうしろが茶の間で、茶の間の向こうが勝手下女部屋と順に並んでいる。ほかに二階がある。ただし何畳だかわからない。(夏目漱石『三四郎』)

 なるほど風呂の事は書かれていません。二階は空いていて佐々木与次郎を住まわせようかというのに、風呂がないようです。三四郎の下宿でさえ風呂付なのに、広田の家には風呂がないとなると、銭湯に行くのは自然なことです。しかし広田の家に風呂がないと仮定してみると、この会話が別の響きを持ってきます。

「先生はそれで……」と言ったが急につかえた。
「それで?」
「それで結婚をなさらないんですか」
 先生は笑いだした。
「それほど浪漫的な人間じゃない。ぼくは君よりもはるかに散文的にできている」
「しかし、もしその女が来たらおもらいになったでしょう」
「そうさね」と一度考えたうえで、「もらったろうね」と言った。三四郎は気の毒なような顔をしている。すると先生がまた話し出した。
「そのために独身を余儀なくされたというと、ぼくがその女のために不具にされたと同じ事になる。けれども人間には生まれついて、結婚のできない不具もあるし。そのほかいろいろ結婚のしにくい事情を持っている者がある」
「そんなに結婚を妨げる事情が世の中にたくさんあるでしょうか」(夏目漱石『三四郎』)

 そうですね。散文的に言ってしまえば、広田は風呂付の家を借りられない程度の甲斐性なしです。津田由雄と同じです。「いろいろ結婚のしにくい事情」の中には妻を国元へ預けた柔術家と同じ生活の悩みがあるでしょう。そのあたりのことを知っている佐々木与次郎は、先生の大学への就職の斡旋にやたら熱心なわけです。

 そう思うと津田由雄が清子にふられるのは当然のような気がします。

「どうもならないのさ。だから結婚は考え物だよ。離合集散、ともに自由にならない。広田先生を見たまえ、野々宮さんを見たまえ、里見恭助君を見たまえ、ついでにぼくを見たまえ。みんな結婚をしていない。女が偉くなると、こういう独身ものがたくさんできてくる。だから社会の原則は、独身ものが、できえない程度内において、女が偉くならなくっちゃだめだね」
「でも兄は近々結婚いたしますよ」(夏目漱石『三四郎』)

 法学士の里見恭助が結婚し、画家の原口や野々宮や広田が独身なのは、実益にかなう学問をしていない爲なのではないかというもう一つの事情も思い浮かんできます。

 筋としては広田が結婚しない理由については、

「ハムレットは結婚したくなかったんだろう。ハムレットは一人しかいないかもしれないが、あれに似た人はたくさんいる」
「たとえばどんな人です」
「たとえば」と言って、先生は黙った。煙がしきりに出る。「たとえば、ここに一人の男がいる。父は早く死んで、母一人を頼りに育ったとする。その母がまた病気にかかって、いよいよ息を引き取るという、まぎわに、自分が死んだら誰某だれそれがしの世話になれという。子供が会ったこともない、知りもしない人を指名する。理由を聞くと、母がなんとも答えない。しいて聞くとじつは誰某がお前の本当のおとっさんだとかすかな声で言った。――まあ話だが、そういう母を持った子がいるとする。すると、その子が結婚に信仰を置かなくなるのはむろんだろう」(夏目漱石『三四郎』)

 このように母の托卵を引き合いに出して笑って誤魔化されており、それ以上の事情は分かりません。これが十一章の終わり。しかしこの銭湯問題、いや貧困問題は十二章の冒頭でこう語られています。

 演芸会は比較的寒い時に開かれた。年はようやく押し詰まってくる。人は二十日はつか足らずの目のさきに春を控えた。市に生きるものは、忙しからんとしている。越年の計は貧者の頭に落ちた。演芸会はこのあいだにあって、すべてののどかなるものと、余裕あるものと、春と暮の差別を知らぬものとを迎えた。(夏目漱石『三四郎』)

 この演芸会に三四郎は広田を誘い出すのですが、なんやかやと高尚めいた言い訳をしながら小屋の前までついてきて、結局広田は小屋には入りません。ということは、つまりもしや広田は切符を持っていなかったか売り払っていたのではないでしょうか。

 思い返してみれば、そもそも広田は三等の汽車に乗る男なのです。たいしたことのない男なのです。現代でいえば回転寿司で絵皿が取れず、ビールではなく第三のビールを飲む男です。ペットボトルの水が買えない男です。

 やがて、ピューと汽笛が鳴って、車がつく。待ち合せた連中はぞろぞろ吾れ勝ちに乗り込む。赤シャツはいの一号に上等へ飛び込んだ。上等へ乗ったって威張れるどころではない、住田まで上等が五銭で下等が三銭だから、わずか二銭違いで上下の区別がつく。こういうおれでさえ上等を奮発して白切符を握ってるんでもわかる。もっとも田舎者はけちだから、たった二銭の出入でもすこぶる苦になると見えて、大抵は下等へ乗る。赤シャツのあとからマドンナとマドンナのお袋が上等へはいり込んだ。うらなり君は活版で押したように下等ばかりへ乗る男だ。先生、下等の車室の入口へ立って、何だか躊躇の体であったが、おれの顔を見るや否や思いきって、飛び込んでしまった。おれはこの時何となく気の毒でたまらなかったから、うらなり君のあとから、すぐ同じ車室へ乗り込んだ。上等の切符で下等へ乗るに不都合はなかろう。(夏目漱石『坊っちゃん』)

 うらなり君は安月給なのです。ならば上等の切符は変えないわけです。この露骨な貧富の差を、確かに漱石は切符で表現していました。

 車掌が、ぴしゃりぴしゃりと戸を閉たてながら、こちらへ走って来る。一つ閉てるごとに、行く人と、送る人の距離はますます遠くなる。やがて久一さんの車室の戸もぴしゃりとしまった。世界はもう二つに為った。老人は思わず窓側へ寄る。青年は窓から首を出す。
「あぶない。出ますよ」と云う声の下から、未練のない鉄車の音がごっとりごっとりと調子を取って動き出す。窓は一つ一つ、余等の前を通る。久一さんの顔が小さくなって、最後の三等列車が、余の前を通るとき、窓の中から、また一つ顔が出た。
 茶色のはげた中折帽の下から、髯ひげだらけな野武士が名残惜気に首を出した。そのとき、那美さんと野武士は思わず顔を見合みあわせた。鉄車はごとりごとりと運転する。野武士の顔はすぐ消えた。那美さんは茫然として、行く汽車を見送る。その茫然のうちには不思議にも今までかつて見た事のない「憐れ」が一面に浮いている。
「それだ! それだ! それが出れば画になりますよ」と余は那美さんの肩を叩きながら小声に云った。余が胸中の画面はこの咄嗟の際に成就したのである。(夏目漱石『草枕』)

 元の女房に金を貰いに来て満州に行く貧乏人が三等列車に乗る憐れ、その憐れは広田にもしっかり当てはまり、それが銭湯問題となって現れているのではないでしょうか。そもそも『三四郎』全体が甲斐性なしの三四郎が美禰子に見限られる話としても読めますしね。

[付記]

 それにしてももし広田が普段から銭湯通いをしているのならば、体重ではなく身長を測るのは妙な事ではある。体重は日々変化しようが、もう大人の広田の身長がそう変わるわけではないだろうに、とは思う。

 やはりそこはそれ、漱石は三四郎の身長が伸び縮みすることを強調したかったのであり、「相変らず低い下駄をはいている」美禰子のいじらしさにも光をあてようとしたのかも知れない。




















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