漱石は誰によって誤読されたのか――柄谷行人『新版 漱石論集成』再検討――
はじめに
夏目漱石研究の歴史を振り返るとき、柄谷行人の存在を無視することはできない。
戦後日本の文学批評において、柄谷行人は最も大きな影響力を持った批評家の一人であった。
その漱石論もまた長く読まれ、多くの研究者や読者に影響を与えてきた。
しかし影響力の大きさと読解の正確さは必ずしも一致しない。
むしろ影響力のある批評ほど、その前提を検証し続ける必要がある。
本稿では『新版 漱石論集成』を手掛かりとして、柄谷漱石論の問題点を検討する。
問題は単純な当否ではない。
なぜこれほど影響力を持った批評が成立したのか。
なぜ多くの読者はそれを受け入れたのか。
そして漱石作品は実際には何を語っているのか。
その点を考察したい。
第一章 「先生の死は構成的必然ではない」のか
柄谷行人は『こころ』について、
「先生の自殺は構成的必然ではなく作者の願望の表れである」
という趣旨の議論を行っている。
この見方の背景には、
作品の構成よりも作者心理を重視する姿勢がある。
しかし『こころ』の構成を仔細に検討すると、
先生の死はむしろ作品全体の設計によって準備されているように見える。
まず重要なのは時代設定である。
『こころ』は明治天皇の崩御と乃木希典の殉死を中心軸として展開する。
先生の遺書はこの歴史的事件と不可分である。
乃木の殉死がなければ先生の決断は成立しない。
逆に言えば、
乃木殉死が作品内部に組み込まれた時点で、
先生の死は単なる心理的衝動ではなく歴史的構造の中へ位置づけられる。
さらに注目すべきは、
作品冒頭において先生がすでに回想の対象となっていることである。
読者が先生と出会う時、
先生はすでに「失われた人」として語られている。
この意味で『こころ』の冒頭は一種のエピローグなのである。
したがって先生の死は終盤の偶発的出来事ではなく、
物語全体を成立させるための前提条件となっている。
第二章 『こころ』は金の物語である
『こころ』研究において繰り返し見落とされる問題がある。
それは金銭の問題である。
一般的な教科書的読解では、
先生とKの対立は倫理的葛藤として説明される。
しかしテクストを読み返すと、
そこには極めて具体的な経済問題が存在している。
先生は財産相続を経験している。
財産を失う恐怖を知っている。
生活基盤の重要性を理解している。
一方のKは経済的に極めて脆弱な立場に置かれている。
先生が先にお嬢さんとの結婚を決めたことによって、
Kは家庭内における位置を失う。
この状況は単なる恋愛競争ではない。
経済的競争でもある。
したがって、
先生は女によって動いたのか、
金によって動いたのか、
という二項対立は成立しない。
恋愛と経済は作中で分離されていないからである。
第三章 『坑夫』の現在
柄谷の読解でさらに興味深いのは、
『坑夫』についての理解である。
柄谷は『坑夫』を回想ではないとみなしている。
しかし実際には、
『坑夫』には現在の語り手が存在する。
問題はそれが非常に見えにくいことである。
『坊っちゃん』や『こころ』では、
回想構造は比較的明瞭である。
読者は容易に現在と過去を区別できる。
しかし『坑夫』では、
現在が巧妙に隠されている。
読者はしばしば、
出来事そのものが現在進行しているような錯覚を抱く。
ところがテクストを注意深く読むと、
語り手は過去の経験を振り返っている。
つまり『坑夫』は回想小説なのである。
ここを見落とすと、
作品全体の構造理解が変わってしまう。
第四章 見えないものを読むこと
漱石文学には特徴がある。
それは重要なことほど直接書かないことである。
『こころ』では先生の動機が完全には説明されない。
『行人』では一郎の心理が最後まで不透明である。
『明暗』では秘密の内容が確定されない。
『坑夫』では語りの現在が巧妙に隠される。
つまり漱石文学とは、
見えないものを読ませる文学なのである。
ところが批評家はしばしば、
見えないものを見えたことにしてしまう。
空白を埋め、
曖昧さを消し、
未確定なものを確定する。
しかしその瞬間、
作品が本来持っていた豊かさが失われる。
第五章 批評家の権威と誤読
ここで問題になるのは、
柄谷行人個人ではない。
むしろ批評家という存在そのものである。
批評家は語らなければならない。
曖昧なままでは仕事にならない。
そのため、
本来は「分からない」と言うべき箇所にも説明を与える。
仮説を立てる。
体系化する。
そしてその仮説が長く繰り返されるうちに、
事実であるかのように扱われる。
こうして誤読は制度化される。
問題は、
誤読そのものではない。
誤読を誤読として認識できなくなることである。
第六章 漱石研究の課題
漱石作品を読むとき、
最も重要なのは謙虚さである。
作品には理解できる部分がある。
同時に理解できない部分もある。
『三四郎』の謎。
『行人』の沈黙。
『明暗』の秘密。
『坑夫』の現在。
それらを安易に説明してしまうことは容易である。
しかし説明することと理解することは違う。
漱石研究に必要なのは、
すべてを説明する能力ではなく、
分からないことを分からないまま保持する能力である。
結論
柄谷行人の漱石論は、
日本の文学批評に大きな影響を与えた。
しかしその影響力の大きさゆえに、
その前提は改めて検証されなければならない。
『こころ』における先生の死。
『坑夫』の語りの構造。
金銭の問題。
歴史的背景。
これらを精査すると、
柄谷の議論には再考を要する部分が少なくない。
だが本稿の目的は、
柄谷を否定することではない。
むしろ批評という営みそのものを問い直すことである。
漱石文学は、読者に対して常に「本当にそうだろうか」と問い続ける文学である。
その問いは批評家に対しても例外ではない。
権威ある批評であっても再読されるべきであり、
再検討されるべきである。
漱石を読むとは、
他人の解釈を信じることではない。
テクストそのものに立ち返り、
そこに何が書かれ、
何が書かれていないのかを確かめ続けることなのである。
