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谷崎潤一郎の『卍』をどう読むか⑲ サブジャンクティヴ・ムードは起こらないこと

「どうや、気分ええのんか? もうちょっとも頭痛いことないか? まだ起きてるねんやったら、僕話したいことあるねん」いうて、「お前、……知ってるねんやろ?……どうぞ堪忍してくれ、運命や思て怺えてくれ。」「ああ、そんなら夢やなかってんなあ。……」「堪忍してくれ、なあ、堪忍すると一と言いうてくれ。」そないいわれてもしくしくしくしく泣いてばっかりいる私を、いたわるように肩さすってくれながら、「僕かてあれ夢と思いたい。……悪夢や思て忘れてしまいたい。……けど、僕、忘れること出来んようになってしもた。僕は始めて恋するもんの心を知った。お前があないに夢中になったのん無理ないいうこと今分った。お前は僕のことパッションないないいうたけど、僕にかてパッションあったんや。なあ、僕もお前許す代り、お前かて僕許してくれるやろ?」「あんた、そないなこというて復讐する気イやねんなあ。今にあの人とグルになって、うち独りぼっちにさそ思て、……」「馬鹿なこといいな? 僕そんな卑劣な男やない? 今になったらお前の気持かて分ったさかい、何で悲しい思いさすもんか!」自分は今日も事務所の帰りに光子さんと会うて相談して来た。私さい承知してくれたら、あとは自分が一切引き受けて、綿貫の方もちょっとも心配ないように片附けてやる。

(谷崎潤一郎『卍』)

 昨日私は次第に決定論に靡いていく自分について書いた。

 いや、一昨日だ。それを谷崎君は読んだのか「運命」などと云い出す。運命とはあらかじめ定められた未来で、変えることはできない。スベクヒャンはスベクヒャンでソルヒはソルヒなのだ。しかしこれは本当に物事の受け止め方だけの問題なのだろうか。谷崎が「運命」と書き、私が決定論について書いてからそこを読むこと、つまり私が「運命」という文字を読む前に決定論について書くことは、私が「運命」という文字を読む前に既に決まっていたことなのではなかろうか。

 あるいは柿内園子はそれを復讐と疑ってみる。そこには夫の自由意志と選択があり、夫は復讐を自分の意思で選択したのではないかと。しかし夫はパッションと云い悪夢と云い、〈僕〉が飽くまで受け身であることを主張する。

 思い出してもみよう。『痴人の愛』において谷崎はナオミに何を教えていたか。いや、低俗なマゾヒスト読者を何と咎めていたか。

せめて過去分詞の使い方や、パッシヴ・ヴォイスの組み立てや、サブジャンクティヴ・ムードの応用法ぐらいは、実際的に心得ていい筈だのに

パッシヴ・ヴォイスとアクティヴ・ヴォイスの区別さえも分らないとは、

(谷崎潤一郎『痴人の愛』)

 過去分詞は受け身で使われる。仮定法で語られることは実際には起こらないことだ。そこにはのがれられないものがあったのだ。パッションとは情熱という意味でもあるが、運命と復讐に挟まれたパッションは受難ではなかろうか。
 グルとは導師のことだ。導師・徳光光子から与えられた受難、そんなものがまさに今、柿内園子の夫の夫の目の前にある。

光子さんも明日は家い来なさるやろけど、私に会うのん極り悪がってなさって、「あんたから姉ちゃんに詫まっといて頂戴」いわれて来た。と、そないにいうて、自分は綿貫みたいな不信用な男やないよって、綿貫に許したこと自分にも許してくれたらええやろいうのんですが、そら、なるほど、夫の方は人欺すようなことせんとしても、気がかりやのんは光子さんですねん。夫にいわしたら「自分は綿貫と違うよって大丈夫や」いいますねんけど、私の身イになったらその「違う」いうこと心配の種やのんで、なんせ光子さんは始めてほんまの男性ちゅうもん知んなさった、そんだけ今までより真剣になんなさるかも分れへんし、そのために私捨てなさっても、「不自然の愛より自然の愛貴い」いう立派な口実ありますし、良心の苛責も少いですやろし、……

(谷崎潤一郎『卍』)

 なんせ光子さんは始めてほんまの男性ちゅうもん知んなさったとは言ってくれるじゃないか、谷崎君。それはつまりあれか、綿貫栄次郎に欠けているものを具体的に頭に思い浮かべよということだな。それはロゴス・スペルマティコスなのか、エレクテイオン神殿なのか、勝手に考えろということなのだな。しかしそこに「不自然の愛より自然の愛貴い」を当て嵌めるとどちらもあてはまるじゃないか。柿内園子にはロゴス・スペルマティコスもエレクテイオン神殿もあるまい。精々聖邪の口唇があるだけだ。フィンガー・ファイブがあるだけだ。今、君はそれをあえて「不自然の愛」と呼んでしまったわけだ。何が女性脳だ。全世界のそっち系の人に謝れ。
 完全に村上春樹式のポッキー、豆乳、しゃーせん式の大根ロゴス主義にかぶれている。株ロゴス主義なのか?

もし光子さんにそんな理窟いわれたら、夫にしたかって間違うてることしなさいいう訳に行けしませんし、ひょッとしたらあッちゃこッちゃ説き伏せられて、しまいには「光子さんと結婚さして欲し」いい出さんとも限れしません。「僕とお前とは誤まって夫婦になったのんや。性の合わんもんこないしてたらお互の不幸やさかい、別れた方がええ思う。」――と、いつぞそないいわれる日イ来るのやないやろか? そしたら常時恋愛の自由口にしてながら「イヤや」いうこと出来しませんし、世間の人かて私みたいなもん離縁しられるのん当り前や思うやろ、今からそんな行末のこと考えて、取り越し苦労したとこでしョうないようなもんの、どうも私にはきっとそないなる運命みたいな気イするのんですが、そうかいうて、今の場合、夫の頼み聴かなんだら自分も明日から光子さんの顔見られんようになるのんで、「あんた信用せえへんのやないけど、何や知らん悲しい予覚して、――」いうて、しくしくしくしくいつまででも泣いてますと、「そんな馬鹿なことあるもんか。そらみんなお前の妄想や。誰ぞ一人でも不幸になったら三人で死のやないか」いうて、夫も泣き出して、とうとう二人で夜が明けるまで泣き通してしまいましてん。

(谷崎潤一郎『卍』)

 いやまてよ、そもそも「下人のゆくえは誰も知らない」ではなくて、この話は「先生」のところに柿内園子がやってきて話していて、徳光光子と柿内園子の夫の死は確定しているので、ここで話していることは過去なのだから、未来に柿内園子は生きているっちゆうこつちゃ。つまりやな、ここで仮定されている運命やら予覚やら妄想は概ね実現し、すくなくとも「誰ぞ一人でも不幸になったら三人で死のやないか」という柿内園子の夫の提案は実行されなかったと、そういうことになるわけやないか。
 そしてまだ読んではいないが、結末はもう確定している筈だ。まさに運命じゃないか。決定論だ。ただし、それがどんなものなのか、まだ誰も知らない。

 何故なら私はこれから風呂に入るからだ。



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