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『彼岸過迄』を読む 4333 良民と対峙するもの

 僕は比較的楽に育った、物質的に幸福な子だから、贅沢と知らずに贅沢をして平気でいました。着物などでも、母の注意で、人前へ出て恥かしくないようなものを身に着けながら、これが当然だと澄ましていました。けれどもそれは永く習慣に養われた結果、自分で知らない不明から出るので、一度そこに気がつくと、急に不安になります。着物や食事はまあどうでもいいとして、僕はこの間ある富豪のむやみに金を使う様子を聞いて恐ろしくなった事があります。その男は芸者幇間を大勢集めて、鞄の中から出した札の束を、その前でずたずたに裂いて、それを御祝儀とか称えて、みんなにやるのだそうです。それから立派な着物を着たまま湯に這入って、あとは三助にくれるのだそうです。彼の乱行はまだたくさんありましたが、いずれもを恐れない暴慢極まるもののみでした。僕はその話を聞いた時無論彼を悪みました。けれども気概に乏しい僕は、悪むよりもむしろ恐れました。僕から彼の所行を見ると、強盗が白刃の抜身を畳に突き立てて良民を脅迫かしているのと同じような感じになるのです。僕は実に天とか、人道とか、もしくは神仏とかに対して申し訳がないという、真正に宗教的な意味において恐れたのです。僕はこれほど臆病な人間なのです。驕奢に近づかない先から、驕奢の絶頂に達して躍り狂う人の、一転化の後を想像して、怖くてたまらないのであります。――僕はこんな事を考えて、静かな波の上を流れて行く涼み船を見送りながら、このくらいな程度の慰さみが人間としてちょうど手頃なんだろうと思いました。(夏目漱石『彼岸過迄』)

 その男は芸者幇間を大勢集めて、はその男は芸者幇間を大勢集めて、ではないでしょうか。こんばんは。小林十之助です。近代文学2.0をやっています。トンデモ説ではない、夏目漱石論を書いています。芸者は女、幇間は男でしょう。一度そこに気がつくと、急に不安になります。一度そこに気がつくと、急に不安になります。ってどの時点で気が付いたんでしたっけ?

 そもそも須永市蔵は豪奢な祖父に遥かなあこがれを見せていませんでしたっけ。「扇の要がぐるぐる廻って、地紙に塗った銀泥をきらきらさせながら水に落ちる景色は定めてみごとだろうと思います」と言っていましたよ。「定めてみごと」は否定ではないですよね。褒めています。しかしSDGsではないですよね。銀扇がおじゃんです。こっちは良くて、ある富豪のむやみに金を使う様子が駄目という理屈が解りません。

 この理屈を読み解くには「良民」という言葉がキーとなるように思います。「良民」とは税を納める公民です。ということは、公民と対峙するのは誰でしょう。

 私が『彼岸過迄』を経済小説だ、と書いたのは案外出鱈目ではないんです。そもそもこの話は帝大卒らしい田川敬太郎が職探しに奔走してくたびれてしまうところから始まりましたよね。そしていわゆる「高等遊民問題」が出てきます。

 そして森本は大連に行きます。ここには悲壮感は感じられないのですが『明暗』の小林にはいかにも「朝鮮に堕ちる」感じがありますよね。丈の合わない外套を貰って寒い朝鮮に行く、っていかにも都落ちです。要するに当時日本中の食い詰め者が世界中に散っていって、国によってはもう移民は来ないでなんてことをやられていたわけです。就職難、棄民、そうした問題を時代性として『彼岸過迄』は引き受けていました。

 無論『彼岸過迄』はそうした時代の上澄み部分、経済的には比較的恵まれた人たちにフォーカスして書かれているので、「強盗が白刃の抜身を畳に突き立てて良民を脅迫かしている」なんて見立てには当事者性が欠けるわけですけど、ここで批判されているのは良民に対峙するもの、つまり天皇でしょう。

 天皇と言えば昭和天皇以降の大変質素な食事のイメージがありますが、天皇の贅沢について、夏目漱石は松根東洋城から聞き知っていました。

 東洋城東宮御所の会計をしらべてゐる。皇太子と皇太子妃殿下が二人前の鮪のさしみ代(晩飯だけで)五円也。一日の肴代が三十円なりと。天子様の方は肴代一日分百円以上なり。而して事実は両方とも一円くらいしかかゝらぬ也。あとはどうなるか分からず。
 伊藤其他の元老は無暗に宮内省から金をとる由。十万円、五万円。なくなると寄こせと云ってくる由。人を馬鹿にしてゐる。(明治四十ニ年六月十七日、日記)

 夏目漱石というと御大喪の時喪章を巻いたり、御幸の見物の際にわざわざ袴を穿いてきたりと、大変な天皇崇拝者なのではないかと誤解されている人が大変多いようで、ここはなかなか信じてもらえないんですが、漱石は明治の四十年に尊敬に値する人は一人としていないと書くほどリアリストなんです。天皇だからなんでも許されるとは思っていません。昔の殿様の方が偉かったと講演で述べています。ここでは天皇自身が贅沢をしてけしからんと言っているのではなく、お金がどこかに消えてしまうその制度が批判されていますね。伊藤博文が好きなだけ金をとれることが批判されています。そういう視点が漱石にはあるのです。

 また漱石は神が人間であることも、人間が神であることも認めていませんでした。だから「僕は実に天とか、人道とか、もしくは神仏とかに対して申し訳がないという、真正に宗教的な意味において恐れたのです」という時、ここで批判されているある富豪とは、天とか、人道とか、もしくは神仏を冒す存在なんでしょう。「札の束を、その前でずたずたに裂いて」というのは日銀の買いオペみたいな感じですが、日露戦争後に借金漬けで首が回らなくなった日本の比喩なのではないかと思います。

 ここも少し注意が必要ですね。

 村上作品の読み解きはほどほどにしなくてはなりませんが、漱石作品も注意が必要ですね。小宮豊隆ではないけれど、「札の束を、その前でずたずたに裂いて」というのは、三重吉が聞いてきた話そのままで……なんて資料が明日にも見つかるかもしれません。

 ただ祖父が自分の金を散財するのは豪奢で、「ある富豪」のふるまいに対して天とか、人道とか、もしくは神仏とかに対して申し訳がないという、真正に宗教的な意味において恐れたというのは理屈が合いません。ここで「ある富豪」を単なる一個人にしてしまうとどうにも理屈が合わないのです。「ある富豪」は特別な存在である必要があります。従って天とか、人道とか、もしくは神仏まで持ち出して「良民」と対峙させたものは天皇及び制度としての明治政府なのだろうと私は考えます。なにもそうがっちり決めつける必要はないとも思います。しかし何でも好きに解釈していいとは思いません。

 この良民と対峙する「ある富豪」は単なる一個人ではありえない、という話でした。


[余談]

 缶ビールのプルトップやバドワイザーの瓶のデザインなど、昔のことは本当に分からなくなってくる。バドワイザーの画像検索をしても、あの珍竹林のボトルはなかなかでてこないもの。

 大体五十年前のことはみんな本当に、純粋に、当然のように、知らないのだ。本当に細かいことを記録していくべきなんだろうな。バドワイザーの王冠はツイストオフできるとか。










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