芥川龍之介の『点心』をどう読むか⑪ もうやり直しは出来ない
蕗
坂になった路の土が、砥の粉のやうに乾いてゐる。寂しい山間の町だから、路には石塊も少くない。両側には古いこけら葺の家が、ひつそりと日光を浴びてゐる。僕等二人の中学生は、その路をせかせか上つて行つた。すると赤ん坊を背負つた少女が一人、濃い影を足もとに落しながら、静に坂を下つて来た。少女は袖のまくれた手に、茎の長い蕗をかざしてゐる。何の為めかと思つたら、それは真夏の日光が、すやすや寝入つた赤ん坊の顔へ、当らぬ為の蕗であつた。僕等二人はすれ違ふ時に、そつと微笑を交換した。が、少女はそれも知らないやうに、やはり静に通りすぎた。かすかに頬が日に焼けた、大様の顔だちの少女である。その顔が未だにどうかすると、はつきり記憶に浮ぶ事がある。里見君の所謂一目惚れとは、こんな心もちを云ふのかも知れない。(二月十日)
ここまで『点心』は作家芥川龍之介が大正十年の正月から二月にかけて、もの思うことというていで書かれてきた。随分難しい理屈もこねられた。博識も披露した。
その中に最後にポツンと極めて短い小説のような「蕗」が置かれている。勿論小説と呼びうるほどの長さではない。しかし構えとしては『蜜柑』や『トロッコ』と変わりない。回顧の形式の中に詩的関興が込められている。現在の作家芥川龍之介とも連絡をもち、何をかのメッセージがある。
それにしても「坂になった路の土が、砥の粉のやうに乾いてゐる」とはまるで唐突な現在法である。こんなことがあった、昔のことだと前置きがない。唐突な入りだけに、何故そんな話を? と気を引くことになる。二月に夏のことを思いだすのは唐突だ。しかも中学生とはずいぶん昔である。なにに付いてそんな話が飛び出してきたのかと思わざるを得ない。そしてやおら現在が出てきて「その顔が未だにどうかすると、はつきり記憶に浮ぶ事がある」とはいささか剣呑である。
別に意地悪でもなんでもなくこの「蕗」という話の肝は、これが過去の出来事ながら今も思いだされる理由にある。つまり冒頭の「下では赤ん坊が泣き続けてゐる」「私の家の御降りは、赤ん坊の泣き声に満たされてゐる」というやかましい赤ん坊に対して「何の為めかと思つたら、それは真夏の日光が、すやすや寝入つた赤ん坊の顔へ、当らぬ為の蕗であつた」というすやすや眠る赤ん坊が比較されていて、そのあやし手としての女房と蕗を翳す少女が対になっているのである。
それにしても赤ん坊に蕗を翳す少女とはいかにも風流である。その風流に隠して、現在法で芥川が仕掛けている。
ふきの収穫
— 日本の食生活全集 (@imgnbkpro) October 5, 2023
『聞き書 秋田の食事』県北鹿角の食よりhttps://t.co/avk73nmSj9 pic.twitter.com/lbp3CM78vV
私が芥川の女房だったら「一目惚れしたんならその方をお貰いになったらよかつたじゃありませんか」とカチンとくるところであろうが、幸い私は芥川の女房ではないし、何なら実際芥川の女房は「こんなものでもちゃんとお金になるんだから、うちの亭主は偉いもんだねえ」と感心するのかもしれない。
頭とお尻が繋がって『点心』は丸く収まった。
池西言水に関しては先に少し述べたので省いた。
『羅生門』『地獄変』『邪宗門』他、多く切支丹ものには鬼気、鬼趣があることは書き忘れた。芥川の作品のいくつかはモダン・ゴースト・ストーリー、怪談の味わいを孕んでいる。
こんなものをよく書いたなという意味も込めて。
[余談]
蕗には「付記」の意味もある?
[余談]②

こんなメールが来ていた。いやいや、500万円て。一回だけ試しに竹輪かなんか買うただけやで。毎月500万円の買い物せえへんし、そもそも300万円でも高い方やし、年会費無料でプラチナcard並やな。
どないなっとんねん?
わしどれだけ金持ちや思うとんねん。
