小谷野敦の『リアリズムの擁護』をどう読むか⑤ さかさまな世界
乳母車を押すお母さんが職務質問を受けていた。まさかと思いそっと近寄っていくと、本当に職質だった。乳母車にはちゃんと赤ちゃんがいた。全然リアルではない。
もちろん鷗外は体制側の人間であり、大逆事件のあとで「カズイスチカ」を書いて、社会を変革しようなどと考えず日々の生活を大事にせよと説き、明治天皇に対して乃木希典が殉死した時は、「興津弥五右衛門の遺書」でこれを讃えた。
これは間違いである。
そして「もちろん鷗外は体制側の人間であり」とわざわざ「鴎外」ではなく「鷗外」と書く人間が「谷﨑潤一郎」ではなく「谷崎潤一郎」と書くことは誠実ではない。
何故小谷野敦は谷﨑なのか谷崎なのか確認しないのか。
それは仮にも伝記を書いた者の責任なのではないか?
しかしこの或物が父に無いということだけは、花房も疾に気が付いて、初めは父がつまらない、内容の無い生活をしているように思って、それは老人だからだ、老人のつまらないのは当然だと思った。そのうち、熊沢蕃山の書いたものを読んでいると、志を得て天下国家を事とするのも道を行うのであるが、平生顔を洗ったり髪を梳ったりするのも道を行うのであるという意味の事が書いてあった。花房はそれを見て、父の平生を考えて見ると、自分が遠い向うに或物を望んで、目前の事を好いい加減に済ませて行くのに反して、父はつまらない日常の事にも全幅の精神を傾注しているということに気が附いた。
おそらくこの「志を得て天下国家を事とするのも道を行うのであるが、平生顔を洗ったり髪を梳ったりするのも道を行うのである」が「社会を変革しようなどと考えず日々の生活を大事にせよ」に変換されたのであろうが、それが「大逆事件のあとで」と言われるべきことなのか「志を得て天下国家を事とする」が「社会を変革しよう」なのかは疑問である。むしろ「志を得て天下国家を事とする」は体制側にあり、国のために働くことを意味していないだろうか。
どうもここは小谷野が勝手に角度をつけて読んでおり、独自解釈になってしまっている。
そして「明治天皇に対して乃木希典が殉死した時は、「興津弥五右衛門の遺書」でこれを讃えた」、これは間違いである。「十三回忌の殉死」が初稿。そんな惚けた殉死はなかろう。
これは「やるとしても崩御時に殉死すべきであり御大葬に殉死はおかしい」という鷗外の真面目過ぎる批判なのではなかろうか。
さらに殿様に許しを得て場所を決め介錯人を置いて切腹するのが殉死の作法だと説いたのが改訂稿、その後繰り返し書かれる殉死ものでは「女房を道連れにすべきものではない」というルールが明記された。さらにさらに鷗外はしつこいので「堺事件」では人は腹を切ってもなかなか死ねないと説き、「高瀬舟」でも一人で死に切る困難さを指摘した。
別に讃えていない。
むしろ批判している。しかしここが絶対に見えない人は多い。「鷗外は体制側にいるのだから」「元号を調べた人だから」という先入観で、書かれていることそのものがさっぱり見えなくなってしまっているのだ。
森鴎外の「歴史もの」は、大正元年十月の中央公論に「興津彌五右衛門の遺書」が載せられたのが第一作であった。そして、斎藤茂吉氏の解説によると、この一作のかかれた動機は、その年九月十三日明治大帝の御大葬にあたって乃木大将夫妻の殉死があった。夜半青山の御大葬式場から退出しての帰途、その噂をきいて「予半信半疑す」と日記にかかれているそうである。つづいて、鴎外は乃木夫妻の納棺式に臨み、十八日の葬式にも列った。同日の日記に「興津彌五右衛門を艸して中央公論に寄す」とあって、乃木夫妻の死を知った十四日から三日ぐらいの間に、しかもその間には夫妻の納棺式や葬儀に列しつつ、この作品は書かれたのであった。
この「半信半疑」は漱石の「神聖か罪悪か」に通じる。しかし宮本百合子は「一応の常識に、半信半疑という驚きで受けられた乃木夫妻の死は、あと三日ほどの間に、鴎外の心の中で、その行為として十分肯ける内的動因が見出されたのであろう。」と書いているが、なら殉死もの連作の必要はない。
この中途半端な納得の仕方が気持ち悪い。
そもそも乃木静子のことは誰も「可哀相」と思わないのが不思議である。旦那が死ぬと女房も死ななくてはならないなら未亡人はいない。みんなインドみたいな世界観なのかな。
何度も書いているように夏目漱石の『こころ』の連載開始時期まで明治天皇の妃は生きていた。別に殉死はしていない。
ならば何故、乃木静子は死ななくてはならなかったのか?
その論的である小泉浩一郎にしてからが、まぎれもない天皇崇拝家の谷崎潤一郎を、反天皇制思想を隠して作品を書いたと、妄想としか思えない論文を書いたうえ、同じ論文を二度も雑誌に載せた人である
小谷野敦が何を根拠に「まぎれもない天皇崇拝家の谷崎潤一郎」と言っているのかは解らない。しかし「まぎれもない天皇崇拝家の谷崎潤一郎」が日の皇子の誕生を怨霊に呪わせるものであろうか?

実際谷﨑潤一郎自身が南朝びいきを公言している。
それは一つには、明治時代には水戸学派の南朝崇拝の思想が支配的であったので、私たちは今の青年が民主主義や平和論を謳歌してファッショや戦争に反対する如く、足利氏の不正を憎んで吉野朝の天子や楠氏の末路に悲憤慷慨するように仕向けられていたところから、ひとしおああ云う文章に血を沸かしたのでもあった。
どう考えても「まぎれもない天皇崇拝家の谷崎潤一郎」ではない。しかし同じものを目にしながらここまで真逆になるものかと感心してしまう。勿論この青年期の南朝びいきの熱は冷め、現実迎合的に生活したことは確かだが、よくよく読めば初期谷崎作品は天皇の血脈を呪っている。
本当は小谷野敦もそろそろ自分の間違いに気がついたのではなかろうか。やり直すのは大変なことだ。しかし学者は間違えば永遠に批判される。生きている間ならやり直せる。間違えたまま死ねばそれまでだ。
何とかやり直してほしいものだ。
