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『三四郎』の謎について⑩ 西洋手拭二枚は多いよ

 人が何故小説を書くのか、その理由は人それぞれでしょうが、書く快感というものは少なからずその理由の一部になっているのではないでしょうか。まあ「顔は無傷である。」と「あのすごい死顔」を書けたら愉快だと思うのですよ。前回私はこれを意図して書いたと書きましたが、百パーセントコントロールしていたという風にも思えないんですね。少しややこしい話になりますが、ホームランは狙って打ったと言えるかもしれませんが、百パーセントコントロールして打つことはできませんよね。また野球例えになってしまいましたが、俳句でもいいんです。やろうとしてやっていますが、できないこともあるわけです。だから結果として作者自身を喜ばせるようなものが「書けた」ということはあると思うのです。

 漱石でもなかなかうまく行かないこともあるわけで『虞美人草』や『門』なんかではなかなかうまく行かなくて愚痴をこぼしていますね。その愚痴が開き直りのような形で作品にしみ出してくるケースもあると思います。自分に対して「おいおい、お前何書いちゃってるの」と云いたいこともあるでしょう。

 三四郎はこの男に見られた時、なんとなくきまりが悪かった。本でも読んで気をまぎらかそうと思って、鞄をあけてみると、昨夜の西洋手拭が、上のところにぎっしり詰まっている。そいつをそばへかき寄せて、底のほうから、手にさわったやつをなんでもかまわず引き出すと、読んでもわからないベーコンの論文集が出た。ベーコンには気の毒なくらい薄っぺらな粗末な仮綴である。元来汽車の中で読む了見もないものを、大きな行李に入れそくなったから、片づけるついでに提鞄の底へ、ほかの二、三冊といっしょにほうり込んでおいたのが、運悪く当選したのである。(夏目漱石『三四郎』)

 ここなんですが、いかにも西洋手拭が邪魔そうですね。これをミスというか謎というかどうかは別にして、改めて「鞄をあけてみると、昨夜の西洋手拭が、上のところにぎっしり詰まっている。」と書かれてみると、「西洋手拭を二筋」は多いんじゃないかと気が付きます。大きな行李には何枚入れてもいいんでしょうが、提鞄に「西洋手拭を二筋」は多いですね。それにキャラコのシャツとズボン下がありますから提鞄はパンパンですよ。この「鞄をあけてみると、昨夜の西洋手拭が、上のところにぎっしり詰まっている。」は自分に対する厭味ではないでしょうか。お前が割り床を拵えたから鞄がパンパンじゃないかと自分に文句を言っています。書くことは自分との対話でもありますね。

 それから何故ベーコンの二十二ページを見ないのか気になりますね。いや二十四ページでもいいんですが。「万遍なくページ全体を見回していた」とあるのに三四郎は何故か二十三ページしか見ません。これは二十三歳という三四郎の年齢にフォーカスさせるための仕掛けではあるんでしょうが、本を開いて「万遍なくページ全体を見回していた」としながら、片側しか見ないのは奇妙なことです。

 このベーコンがフランシス・ベーコンなのか、ロジャー・ベーコンなのかという問題について、漱石の研究範囲からして当然のようにフランシス・ベーコンだと小宮豊隆(たぶん)が註を入れていますが、ここはむしろ泳がしている感じに見てもいいかも知れませんね。「ベーコンには気の毒なくらい薄っぺらな粗末な仮綴である」とあるのに対してロジャー・ベーコンには百科事典を編むという計画もありましたし、野々宮さんではありませんが光のスペクトルの観測をしています。フランシス・ベーコンなら英語でかかれていたでしょうが、ロジャー・ベーコンの時代では英語ではなくラテン語で書かれていたと思われますので、見るだけで「読んでいない」ことともつながる感じがします。英語ならどうしても読んでしまって、ただ見ることの方が難しいんじゃないでしょうか。それにロジャー・ベーコンの方が「経験が大切」と三四郎に皮肉を言っているようで面白くないですかね。

 また二十二ページを見なかったのは二十二ページがラテン語で二十三ページが英語だったからかも知れませんね。

 レオナルド・ダ・ヴィンチに辟易とする三四郎については一応既に書いていますが、みなさんは不思議とも変ともおもわなかったんでしょうかね。

「じっさいあぶない。レオナルド・ダ・ヴィンチという人は桃の幹に砒石を注射してね、その実へも毒が回るものだろうか、どうだろうかという試験をしたことがある。ところがその桃を食って死んだ人がある。あぶない。気をつけないとあぶない」と言いながら、さんざん食い散らした水蜜桃の核子やら皮やらを、ひとまとめに新聞にくるんで、窓の外へなげ出した。
 今度は三四郎も笑う気が起こらなかった。レオナルド・ダ・ヴィンチという名を聞いて少しく辟易したうえに、なんだかゆうべの女のことを考え出して、妙に不愉快になったから、謹んで黙ってしまった。(夏目漱石『三四郎』)

 色々と解釈の余地はあるんだと思いますが、逆に一読では解らない箇所じゃないかと思います。解り難く書いていますね。「水蜜桃の核子やら皮やらを、ひとまとめに新聞にくるんで、窓の外へなげ出した」という動作とレオナルド・ダ・ヴィンチという名が和歌山の女の事を思い出させて不愉快になったというのが一応私の解釈ではありますが、特にレオナルド・ダ・ヴィンチという名だけでは何のことか分からないんじゃないかと思います。

 このやり方提喩、シネクドキの応用なんでしょうが、まあ広い意味での仄めかしですよね。『三四郎』ではほかにも、

 広田先生はまた立って書斎に入った。帰った時は、手に一巻の書物を持っていた。表紙が赤黒くって、切り口の埃でよごれたものである。
「これがこのあいだ話したハイドリオタフヒア。退屈なら見ていたまえ」
 三四郎は礼を述べて書物を受け取った。
「寂寞の罌粟花を散らすやしきりなり。人の記念に対しては、永劫に価するといなとを問うことなし」という句が目についた。(夏目漱石『三四郎』)

 こんなやり方で如何にも勿体をつけられると、ギリシャ語が得意な人が一生懸命調べてくれていますが、レオナルド・ダ・ヴィンチくらいさりげないと案外ほったらかしになりがちですよね。

 で、改めて書きますがこれで「摩訶不思議は書けない」というのが「ふり」だということは明らかでしょう。この「ふり」と「おち」を断固として認めない人がいますが、

 漱石はユーモリストですよ。太宰もそうです。何でも大真面目な三島由紀夫とは違うんです。だからちょっと変なことを書きますがハイドリオタフヒアまで大真面目に完全に理解しないと駄目なんてことではないと思うんですね。ここは不思議だ、ここは解らないというところで「摩訶不思議は書けない」とふった漱石の試みは成功していると思うんです。

 しかし何でもスルーして「青春小説の金字塔」なんて片付けてしまうと漱石が可哀相です。一応「解らない」ということだけには気が付いてあげましょうよ。

[余談]

 読書メーターなどでもこの時期は『こころ』の感想文が増えてきますが、やはり「私」の立ち位置、冒頭のすがすがしさ、財産と擬制家族、乃木静子、浣腸の意味など基本的なところが読めている子は現れません。

 この方もそうですが、このレベルで何かを書くのは恥ずかしいとは思わないんでしょうか?

 こうした人も含めて夏目漱石が好きだ、という人は物凄く多いんですが、だったら漱石作品の本当の姿を見たいとは思わないのかなと不思議になります。

 蓮實重彦とか柄谷行人とか吉本隆明なんか読んでも夏目漱石作品に関しては全く役に立ちませんよ。石原千秋と小森陽一はためになりますが、まずは私の本を買わないでどうして夏目漱石作品が理解できるんでしょうか? 「私」の立ち位置、冒頭のすがすがしさ、財産と擬制家族、乃木静子、なんて指摘を柄谷行人が書いていますか?

 みなさん、目を覚ましてください。ブーン。

向上心のない奴は馬鹿だ。

 










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