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ほかなる話

 われわれもまた「戦後民主主義」という一種の合理的な体系の下に、漱石がのぞきみた非合理で醜悪な「自然」の衝動を抑圧しているのだが、ただわれわれにはそれが見えないだけだ。 柄谷行人「漱石論集成」

「われわれ」とは誰なのか?
「戦後民主主義」が合理的?

リアリズムとは、たんに風景を描くのではなく、つねに風景を創出しなければならない。それまで事実としてあったにもかかわらず、だれもみていなかった風景を存在させるのだ。したがって、リアリストはいつも「内的間」なのである。(『日本近代文学の起源』風景の発見)

 アテカンの逆張りだなあ。「いつも」ってことがある? 漱石は主義で書いていたわけではない。「たんに」描くということもあり得るのでは? 

ウィトゲンシュタインは、「動物は考えないから、話さないのではない、たんに話さないのだ」と言った。逆にいえば、人間は考えがあるから話すのではなく、たんに話すのである。 −柄谷行人

 これとどうバランスを取るのか?

『こゝろ』の隠された主題は自殺であり、友への裏切り、乃木将軍の殉死などの理由立ては、ともかく自殺が前提となった上で導入されたのである。(『畏怖する間』意識と自然)

はい、これ。

 そういう風に理解するなら、主題が分裂は間違いだよね。

結核は、昔からある結核菌によってではなく、複雑な諸関係の網目におけるアンバランスから生じている。事実としての結核そのものが、解読さるべき社会的・文化的徴候なのだ。(『日本近代文学の起源』病という意味)

 あなたお医者様?

たとえば五歳ぐらいのころ、何かよくわからないままに怒りに駆られているとか、何かよくわからないままに悲しんでいるということがありますね。それは、もうたんに幼児的なものではない。すでに大以上に生のことをわかっているのではないでしょうか。(言葉と悲劇)

 ホルモンの関係では?

隠喩としての建築とは、混沌とした過剰な”生成”に対して、もはや一切”自然”に負うことない秩序や構造を確立することにほかならない。(隠喩としての建築)

設計士さん?

ディコンストラクティブな読解は、テクストの明示的な意味を文字通り受けいれるかぎりにおいて可能なのであって、恣意的な解釈を意味するのではない。(隠喩としての建築)

 普通の読みがそうですよ。

テクストが表面上意図するものと異なる意味を持ってしまうのは、"深層"に真の意味が隠されているからではない。それは「形式主義」的に接近するかぎり、必ず決定不可能性に直面するほかないからである。(隠喩としての建築)

 でた。程度問題。ほかなる。

森鴎外の『舞姫』が一称で書かれたことは不可避的であったといえる。そこでは語り手が主公である、いいかえれば、語り手が消去(中性化)されている。他方、二葉亭は『浮雲』従来の話法で書いたため、語り手を中性化できなかったのである。(『日本近代文学の起源』内面の発見)

 余は彼と交換可能。

歌舞伎役者の、厚化粧で隈取られた顔は「仮面」にほかならない。市川団十郎がもたらし、のちの新劇によっていっそう明瞭に見出されたのは、いわば「素顔」だといえる。(『日本近代文学の起源』内面の発見)

 昔の劇場は暗かったので居場所がわかる様白塗りをしたんだと歌舞伎役者さんが言っていました。つまり「ほかなる」。

藤村や花袋が抒情詩から散文(小説)へ移行したことは、彼らにとって「成熟」を意味した。が、そのような「成熟」こそ、ロマン主義が強いる不可避的なコースなのであり、ロマン主義の一環なのである。(『日本近代文学の起源』児童の発見)

 お金の爲でもあるんだろうな。

漱石の生活した社会圏が今日の眼からみて古くさいものであろうと、あるいは彼の小説が古びたモラルに限界づけられていようと、ぼくらが漱石から感得するのは間の生存条件に関する彼の本質的洞察であり、「内側から見た生」の普遍的な形相にほかならない。(『畏怖する間』内側から見た生)

いや「ほかなる」。「ぼくら」って誰と誰?

哲学的言説においては、きまって「私」一般を論じている。それらは万にあてはまるものにすぎない。「この私」はそこから抜けおちている。私が哲学になじめなかった、またはいつも異和を感じてきた理由はそこにあった。(『探求Ⅱ』単独性と特殊性)

永井均か。

分裂病者は、他者に対して、彼が「いう」ことが別のことを「意味してしまう」ことをおそれている。いいかえれば、彼らは、交換(コミュニケーション)が「命がけの飛躍」であることを知っているのだ。(『探求I』他者と分裂病)

知らなかったな。

漱石は間の心理が見えすぎて困る自意識の持主だったが、そのゆえに見えない何ものかに畏怖する間だったのである。(『畏怖する間』意識と自然)

奥さんに睡眠薬盛られても気が付かなかったけど。

広告というのは、それは広告であるということをみんなが知っている、ということです。それが広告であるということを知っていて、なおそれに動かされるということ、それが広告ですね。デモクラシーというのは、どうもそういうものではないでしょうか。(政治、あるいは批評としての広告)

 小泉進次郎?

『道草』にはどこにも超越性はない、まったくフィジカルな世界に終始しているからだ。にもかかわらず、フィジカルなものが、「帽子を被らない男」のようにそのままメタフィジカルなものに変容するのである。(『畏怖する間』意識と自然)

 あのからくりにきがついていないのね。

それ(写真)は肖像画とちがって、有無をいわさぬ、ある《客観性》をもってあらわれる。それは誰のものでもない眼差である。この《客観性》の位相は、写真技術の出現まで間が経験したことのないものである。(鏡と写真装置)

 ロラン・バルト読んだんだよね?





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