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読むことと書くこと ウェブライティングから遠く離れて

 どういうわけか有名な作家や評論家の「文章読解力」に問題があり、夏目漱石作品の多くが誤読にまみれていて、なんなら谷崎潤一郎作品は殆ど読まれてさえいないという現実について、日々いささか批判的に書いてきました。しかし批判的とは言いながら「ここにこう書いてありますよ」「こういう構造と見ればこういう話になりますよね」と常に具体的に示しながら書いてきたのであって、「亀井は誠実だよ」とか「泡鳴にはあほうめいと言いたい」みたいな「どこが」とか「何が」を抜かした話にはしていないつもりです。

 しかしこれをウェブライティングのレベルに落としてまで書くということはしてきませんでした。それはなぜかと云うと、例えば谷崎潤一郎の『あくび』について、

・『あくび』には「あくび」の直接的な表現がない。

・唯一「あくび」が疑われる場面の会話から日露戦争批判が疑われる。

・『あくび』は若者言葉の音便を捉えながら、「あくび」を隠す凝った作品だ。

 みたいなまとめを冒頭に置き、さび頭で一文一意。できるだけ短いフレーズで書いていく……。なんてことはあまり意味がないんじゃないかと思うんですね。

 そういうものに馴れてしまうことによって、小説を読んでも「あれ、冒頭に要約ないじゃん」「いきなり会話文から始められてもどこの誰が誰と話しているか設定が解らないじゃん」「なんかくどくどと書いてあるけど結局何がいいたいんだコイツ」みたいな反応をしてしまう人たちがますます増えていくんじゃないかと思うんです。

 夏目漱石作品を代表として、そもそも要点なんてどこにも書いていないわけですよ。なんなら『こころ』では乃木静子には一言も言及していません。それから、

 これなんかも、

・「ゆうべの阿具里とのこと」が何なのか具体的な説明がない。

・照子、咲、三年前に亡くなった母が実在しなくても、幽霊であっても成立する話だ。

・実はゆうべ阿具里は既に殺されていて幻想が語られているのではないか?

 ……なんてまとめそのものには、そんなに値打ちはないですからね。そんなものを他人から教わったって、そこには価値はないんです。そもそもそれは書かれてもいないことなので、書かれていないことを自分の頭の中で読み取ること自体に価値があるからまとめがないんであって、そうでないなら皆冒頭にまとめを置きますよ。何なら水滸伝みたいに何が起きるのか小タイトルにしますよ。

 あれ、ローベルト・ムージルの『特性のない男』も同じ形式だな、偶然かな?

 この話でいえばむしろ「皇后ってそんなに偉いのかね?」と書かないところ、書いていないけど読ませるところに作品の値打ちがあるわけです。書いていないけど読めって、どれだけ上から目線なんだ、みたいな文句は勘弁してください。toggterなんかで時々そういう人がいますけど、ある種の小説はそういう仕組みを持っているということですからね。

 私も小説を書くとすれば必ず「書かないこと」を決めます。例えば「私はKの生まれ変わりである」とは書かないわけです。「飯田橋で電車に乗って水天宮で降りた」とも書きません。「美禰子の橙色の着物は黒い肌に映えた」とは書きません。「藤尾は脳溢血で倒れた」とは書きません。「宗助は水子のように丸まった」とも書きません。「津田は外傷性痔瘻であった」とも書きません。

 しかし読む側にまわれば、まずは丁寧に読むことを心がけます。

 ハイポーが何なのかわからなければ、調べます。そしてふりと落ちの関係を摑みます。

 これが文学作品を書くこと読むことの基本で、ウェブライティングの作法や意図とは全く別の世界の話なんだと私は考えています。ウェブに書いていてウェブライティングの作法を守らないのはどうしてかといえば、こうした「読み」を「書き」ながら、まとめに収斂しない「解らないこと」を考え続けているからです。

 2019年の神宮球場では実際には黒ビールが売られていなかったことと、伊香保温泉らしき場所で水沢うどんではなく不味い蕎麦を食べることには何か関係があるのだろうかと考え続けているからです。あ、これは村上春樹さんの『一人称単数』の話です。伊香保で蕎麦食っちゃだめですよ。












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