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『三四郎』の謎について⑨ あえて書かない

 『三四郎』の最大の謎は最初から言っているようにギアチェンジしたかのように小説が上手くなっているということかもしれません。そりゃ天才が本気を出したんだよと言われるかもしれませんが、その凄さに本当に気が付いてみると、やはり「ちょっと理解できない(くらい凄いなあ)」という感覚になると思います。

 これまで色彩を隠しているとか、野々宮の捜しものが解らないとか、色々書いてきましたけれど、その中にはやろうと思えば誰にでも真似できることも混ざっていました。

 例えばこれなんか模倣可能ですね。

 はいってみると客が二組あって、いずれも学生であったが、向こうのすみにたった一人離れて茶を飲んでいた男がある。三四郎がふとその横顔を見ると、どうも上京の節汽車の中で水蜜桃をたくさん食った人のようである。向こうは気がつかない。茶を一口飲んでは煙草を一吸って、たいへんゆっくり構えている。きょうは白地の浴衣をやめて、背広を着ている。しかしけっしてりっぱなものじゃない。光線の圧力の野々宮君より白シャツだけがましなくらいなものである。三四郎は様子を見ているうちにたしかに水蜜桃だと物色した。大学の講義を聞いてから以来、汽車の中でこの男の話したことがなんだか急に意義のあるように思われだしたところなので、三四郎はそばへ行って挨拶をしようかと思った。けれども先方は正面を見たなり、茶を飲んでは煙草をふかし、煙草をふかしては茶を飲んでいる。手の出しようがない。
 三四郎はじっとその横顔をながめていたが、突然コップにある葡萄酒を飲み干して、表へ飛び出した。そうして図書館に帰った。(夏目漱石『三四郎』)

 これも謎というか不思議というか解らないというか、そういう場面です。「突然現れる葡萄酒」で読者をびっくりさせようとしています。

 これは時々ミスでも起こりますよね。例えば村上春樹さんの『1Q84』で川奈天吾とふかえりが新宿の中村屋で食事をするシーン、ふかえりは白ワインを飲みサラダを食べていますが、突然スプーンが出現します。これは校正ミスですね。

 漱石の場合はどうもわざとやっています。そもそも何かを注文する様子がありませんから、うっかりミスではないと思います。『三四郎』はそんなレベルの作品ではないんです。

 その証拠がここです。

 五、六間行くか行かないうちに、また一人土手から飛び降りた者がある。――
「轢死じゃないですか」
 三四郎は何か答えようとしたが、ちょっと声が出なかった。そのうち黒い男は行き過ぎた。これは野々宮君の奥に住んでいる家の主人だろうと、後をつけながら考えた。半町ほどくると提灯が留まっている。人も留まっている。人は灯をかざしたまま黙っている。三四郎は無言で灯の下を見た。下には死骸が半分ある。汽車は右の肩から乳の下を腰の上までみごとに引きちぎって、斜掛けの胴を置き去りにして行ったのである。顔は無傷である。若い女だ。
 三四郎はその時の心持ちをいまだに覚えている。すぐ帰ろうとして、踵をめぐらしかけたが、足がすくんでほとんど動けなかった。土手を這い上がって、座敷へもどったら、動悸が打ち出した。水をもらおうと思って、下女を呼ぶと、下女はさいわいになんにも知らないらしい。しばらくすると、奥の家で、なんだか騒ぎ出した。三四郎は主人が帰ったんだなと覚った。やがて土手の下ががやがやする。それが済むとまた静かになる。ほとんど堪え難いほどの静かさであった。
 三四郎の目の前には、ありありとさっきの女の顔が見える。その顔と「ああああ……」と言った力のない声と、その二つの奥に潜んでおるべきはずの無残な運命とを、継ぎ合わして考えてみると、人生という丈夫そうな命の根が、知らぬまに、ゆるんで、いつでも暗闇へ浮き出してゆきそうに思われる。三四郎は欲も得もいらないほどこわかった。ただごうという一瞬間である。そのまえまではたしかに生きていたに違いない。(夏目漱石『三四郎』)

 この「顔は無傷である。」が見事じゃないですか?

 そう思いませんか?

 え?

 まだ解りません?

 ちなみにですが、解りますよって人、どのくらいいます?

 お手数ですがちょっと挙手してもらっていいですか?

 脇は隠していいんで。

 はい。

 なるほど。

 ええと、この「顔は無傷である。」が見事というのは、ここで止められる人はまあ、見たことがないという、そういう意味です。なかなかここでは止められません。これは十七文字という世界で最も短い詩・俳句の修業あっての事でしょうね。十七文字で何かを説明しつくすということはできませんから、必ず俳句には書かれていない余韻があるわけですよね。俳人は省略ができますが、普通の散文家はなかなか、できません。私は「省略」というレトリックこそ一番難しいと考えて居ます。

 例えば酒鬼薔薇くんが『絶歌』でやりましたが、少年院時代のことやその他あれこれ、スパッと省略しているのを読んで、なかなか書く練習をした人だなと直感しました。たまごサンドのエピソードや場面転換、過少誇張法、浮遊する視座、キャラクターの書き分けや風景描写などいくつものレトリックが駆使されていて、特に「父の涙」の章なんていうのは目線を高く書けているので、切り取って短篇の賞に応募したら当選してしまうんじゃないかと感心しましたよ。

 ま、話を戻しますが、ここで使われている省略法は後で気が付きます。気が付いたらもう、体がぶるっときます。まず三四郎は相当堪えていますね。「足がすくんでほとんど動けなかった。土手を這い上がって、座敷へもどったら、動悸が打ち出した」って、かなり重症なんです。ただ、その時点では、ちょっと大げさにも感じるんです。そりゃ、初めて半分の轢死体を観たらショックかなとは思いながら、もうひとつピンと来ない感じがあるわけです。しかし、その感じさえまだ微妙なものです。ところが、この微妙なところがすぐに腑に落ちます。

 いいですか。ここですよ。ここが凄いんです。

 三四郎はこの時ふと汽車で水蜜桃をくれた男が、あぶないあぶない、気をつけないとあぶない、と言ったことを思い出した。あぶないあぶないと言いながら、あの男はいやにおちついていた。つまりあぶないあぶないと言いうるほどに、自分はあぶなくない地位に立っていれば、あんな男にもなれるだろう。世の中にいて、世の中を傍観している人はここに面白味があるかもしれない。どうもあの水蜜桃の食いぐあいから、青木堂で茶を飲んでは煙草を吸い、煙草を吸っては茶を飲んで、じっと正面を見ていた様子は、まさにこの種の人物である。――批評家である。――三四郎は妙な意味に批評家という字を使ってみた。使ってみて自分でうまいと感心した。のみならず自分も批評家として、未来に存在しようかとまで考えだした。あのすごい死顔を見るとこんな気も起こる。(夏目漱石『三四郎』)

 はい「顔は無傷である。」と「あのすごい死顔」の間に省略されているものが今、みなさんの頭の中に浮かんだでしょう。女の顔は無傷なのに、すごい死顏なんです。つまり女の顔は無傷は無傷でも恐怖と激痛で激しくゆがめられていたわけでしょう。だから「あのすごい死顔」なわけですよね。だとしたら「顔は無傷である。」で止められる人はそういないでしょう。

 直しでならできるかもしれませんが、一気に書いていたらまず止まらないでしょうし、それにしたってこれ省略法なんて枠に収まり切れないレトリツクじゃないですか。「後のせサクサク」とでも呼びますか。いや、でも違いますね。やはり「顔は無傷である。」のところで止めたところが味噌ですね。「後のせサクサク」はノベライズでいくらでも見られますからね。

 で、何故村上さんの方はミスで、漱石のはわざとだと言えるかと言えばですね、

 ……こんなことをやってきたからです。とにかく徹底的に読みました。多分本人より読んだと思います。ベストセラーを校正するってどういうことだと思われる方もいらっしゃると思いますが、現実として間違いが印刷されています。村上春樹さんの場合校閲は入らないそうですが、それはある意味責任放棄ですよね。まあ、その手前で、校正が這入っていないということは無いと思うんですが、それでも「ビシ・ソワーズ」とか「グラス・ホッパー」なんかが残ってしまうわけです。

 私は漱石信者ではないので漱石にミスはないとは言いませんが、漱石が「書いたことと書かないこと」をかなり正確に記憶していた事実を確認しています。『三四郎』では徹底して色を隠しますし、『門』では花を隠します。この徹底は意図でしょう。

 偶然ならむらが起きます。『坑夫』の「シキ」のエピソードはもういいですかね。多分漱石は一時記憶量というか、メモリーが大きいんですね。脳内の作業スペース、作業台の広さが普通の人より広いので、普通の人にはできない芸当ができるんではないでしょうか。『坊っちゃん』の「おれ」が使われるまでのストロークの長さというか、そういうところを感じてもらえばいいと思います。あの冒頭を自分で想像で書き直すとたいていの人が三四行目で「おれ」を使ってしまうと思います。『虞美人草』で個人名が出て來る迄の文字数を確認してください。『行人』の芳江が出て來る迄の文字数、二郎に仕事があることが解るまでの文字数を勘定して見て下さい。「書いたことと書かないこと」をかなり正確に記憶するのは「これから書くことをまだ書かずにいるため」でもありますね。『坊っちゃん』では清の死は結びにありますが、それは九段落目で確定している話です。

 「顔は無傷である。」と「あのすごい死顔」自体は摩訶不思議を拵えるためというよりは、より恐ろしさを伝えるための演出なので「謎」とは言い難いんですが、実はこれだけ器用に恐ろしさを演出しておいて「謎」はその後にポツンと置かれます。

 安心して床にはいったが、三四郎の夢はすこぶる危険であった。――轢死を企てた女は、野々宮に関係のある女で、野々宮はそれと知って家へ帰って来ない。ただ三四郎を安心させるために電報だけ掛けた。妹無事とあるのは偽りで、今夜轢死のあった時刻に妹も死んでしまった。そうしてその妹はすなわち三四郎が池の端で会った女である。……
 三四郎はあくる日例になく早く起きた。
 寝つけない所に寝た床のあとをながめて、煙草を一本のんだが、ゆうべの事は、すべて夢のようである。椽側へ出て、低い廂の外にある空を仰ぐと、きょうはいい天気だ。世界が今朗らかになったばかりの色をしている。(夏目漱石『三四郎』)

 私はここでずっこけましたよ。恐怖と激痛で歪んだ女の顔、恐ろしい夢、残酷な運命……そこからの「きょうはいい天気だ。世界が今朗らかになったばかりの色をしている」って何なんですか、一体。そもそも「世界が今朗らかになったばかりの色」って何色なんですか? 青以外にあるんですか。そこまで色を隱す必要がありますか?

 それに三四郎は夢の中で美禰子を殺しておいて、いったいどんな感情なんですか?

 まあ流れ的にはこれは「賺し」になるんでしょうが、訳の分からない感情の変化と訳の分からない比喩ですね。ではなんでこうなったかというと本当に解らないんですが、それでもあえて書きますと、この余裕は俳味なんじゃないでしょうか。「写生文」→「則天去私」の考察であれこれうろついていますが、どうもこのようにぐっと緊張させておいて放り出すようないい加減なところが『三四郎』にも見られます。

 どうも私には「則天去私」がこれまでの漱石作品とはかけ離れた、非常に高尚なところにあるものとは思えないんですよね。例えばここでぱっと出た「世界が今朗らかになったばかりの色」は轢死体や美禰子の死をやり過ごしていますよね。これは殆ど「則天去私」なんじゃないかと思うんですよ。ただ「顔は無傷である。」と「あのすごい死顔」は漱石が意識して駆使したレトリックであったとして、「世界が今朗らかになったばかりの色」は何となく浮かんだ景色かもしれないですよね。漱石の剽げたところがポンと出たような感じがあります。これが『明暗』でいえば、「お延お前お秀に詫まったらどうだ」でしょうか。それはやはりポンと出た感じがします。

 俳句ですよね。そうでなければ「世界が今朗らかになったばかりの色」なんていかさまです。


[余談]

 夏休みも中盤ということで、私がツイッターで「夏目漱石」を検索している関係で、「読書感想文の書き方」みたいなツイートが時々流れてきます。当然それは今の学習指導要領に沿ったものではあるんでしょうが、どうも間違っているような気がします。

読書感想文に正解はない → 作品そのものはある程度正しく読み、要点を抑えなくてはならない。従ってあらすじを捉えきれていない場合、たとえばAの行為とBの行為を取り違えているような場合は不正解とすべき。

読書感想文には自分のことを書く → 対象となる作品が不要ならそれは読書感想文ではなくただの作文、要約する能力がなくては作品を捉えられない。あらすじに終始する必要はないが結果として「どういう作品なのか」という理解が見えない読書感想文は不正解とすべき。

 こんな学習指導が「読まない力」を伸ばしているように私には思えます。Audibleで聞き流す子も増えているみたいですし。

 自分の事だけ書くなら別に本なんて読まなくていいですからね。小説なんかどう読んでも自由なんていう人もいますが最低でもここまでは読めていなくてはいけないというラインを決めて、そこを越えて来たもののなかの個性を見てあげればいいと思うんですよね。あとは「ビシ・ソワーズ」とか「グラス・ホッパー」と書いてきたらちゃんと赤ペンを入れてあげましょう。

 でないとそんなこともできない編集者が育ってしまいますよ。

 こういうのね。


 いい加減に買いません?

 これで読書感想文もばっちりですよ。










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