『彼 第三』をどう読むか⑮ 『或阿呆の一生』をどう読むか⑨ ありかなしかで言えば
もしも『彼 第二』が遺作になり損ねていなくて、つまり漱石の命日に死にたいなどと言う話が嘘であると仮定して、さらに『或阿呆の一生』と完全に切り離したところで『続西方の人』を読めば、芥川は最後の最後にクリストを「ジヤアナリスト」呼ばわりしたことで、クリストに皮肉を書いて死んだとでも纏められるのかもしれない。巻き込まれたクリストには気の毒だが芥川と云うのはそういう人だから仕方がない。
しかし厄介なことに芥川の語彙として「ジャアナリズム」を手繰ると『彼 第二』が出て來る。これはもうそういう仕組みなのだから文句を言っても仕方ない。
ショオの言葉に従えば、「あらゆる文芸はジャアナリズムである。」こう云う意識があったかどうか、それは問題にしないでも好い。が、菊池はショオのように、細い線を選ぶよりも、太い線の画を描いて行った。その画は微細な効果には乏しいにしても、大きい情熱に溢れていた事は、我々友人の間にさえ打ち消し難い事実である。
このショオのスタイルは『彼 第二』において間接的に批判されていたものだ。
「I detest Bernard Shaw.」
この言葉は二度繰り返された。これは飽くまで「彼」の言葉ながら、『彼』はロマン・ロランが焼かれ、『彼 第二』はロマン・ロランとともにバーナード・ショーが否定される話だと括ってみても良いかもしれない。あるいはそのスタイルは残るでしょうねと褒め殺しされているのが『続西方の人』のクリストだ。
芥川が早く志賀直哉の小説スタイルを高く評価しながら、案外残るのは菊池寛ではないかと考えていたことは良く知られていようか。
菊池の小説も、菊池の生活態度のように、思切ってぐん/\書いてある。だから、細かい味なぞというものは乏しいかも知れない。そこが一部の世間には物足りないらしいが、それは不服を言う方が間違っている。菊池の小説は大味であっても、小説としてちゃんと出来上っている。細かい味以外に何もない作品よりどの位ましだか分らないと思う。
つまり「残る」とは大衆受けのことだ。ここで芥川はフラットな気持ちで菊池を褒めているのだろうが、やはり『続西方の人』と繋げてしまうと毒も生まれる。あるいは文学に関する本気の議論を避け、女の失敗の話で通した『或阿呆の一生』の後に、わざわざその最後の最後の位置でジャアナリズムとしての文芸に対する嫉妬、つまりは敗北を語ってはいまいか。
クリストのジヤアナリズムは貧しい人たちや奴隷を慰めることになつた。それは勿論天国などに行かうと思はない貴族や金持ちに都合の善かつた為もあるであらう。しかし彼の天才は彼等を動かさずにはゐなかつたのである。いや、彼等ばかりではない。我々も彼のジヤアナリズムの中に何か美しいものを見出してゐる。何度叩いても開かれない門のあることは我々も亦知らないわけではない。狭い門からはひることもやはり我々には必しも幸福ではないことを示してゐる。しかし彼のジヤアナリズムはいつも無花果のやうに甘みを持つてゐる。彼は実にイスラエルの民の生んだ、古今に珍らしいジヤアナリストだつた。同時に又我々人間の生んだ、古今に珍らしい天才だつた。「予言者」は彼以後には流行してゐない。しかし彼の一生はいつも我々を動かすであらう。彼は十字架にかかる為に、――ジヤアナリズム至上主義を推おし立てる為にあらゆるものを犠牲にした。ゲエテは婉曲にクリストに対する彼の軽蔑を示してゐる。丁度後代のクリストたちの多少はゲエテを嫉妬してゐるやうに。――我々はエマヲの旅びとたちのやうに我々の心を燃え上らせるクリストを求めずにはゐられないのであらう。
(昭和二年七月二十三日、遺稿)
何度読み返してもよく分からない話だ。
・ゲエテは婉曲にクリストに対する彼の軽蔑を示してゐる。
・丁度後代のクリストたちの多少はゲエテを嫉妬してゐるやうに
この「後代のクリストたち」はクリストが「古代のジヤアナリスト」であることから≒「後代のジヤアナリスト」ということにでもなろうか。
つまりゲーテは現代のジヤアナリストにとってさして売れないが偉大な文学者としてあがめられる存在として嫉妬されているということなのだろうか。
いや、そんなに簡単なことではなかろう。
「世の罪を負ふ神の仔羊を観みよ。我に後おくれ来らん者は我よりも優まされる者なり。」――バプテズマのヨハネはクリストを見、彼のまはりにゐた人々にかう話したと伝へられてゐる。壁の上にストリントベリイの肖像を掲げ、「ここにわたしよりも優れたものがゐる」と言つた、逞しいイブセンの心もちはヨハネの心もちに近かつたであらう。そこに茨に近い嫉妬よりも寧ろ薔薇の花に似た理解の美しさを感じるばかりである。かう云ふ年少のクリストのどの位天才的だつたかは言はずとも善い。しかしヨハネもこの時にはやはり最も天才的だつたであらう。丁度丈の高いヨルダンの蘆のゆららかに星を撫でてゐるやうに。……
恐らく『或阿呆の一生』において「ここにわたしよりも優れたものがゐる」として掲げられたのはストリントベリイではない。ストリントベリイは『歯車』において被害妄想狂の瑞典人として現れ『或阿呆の一生』では苦笑される対象だ。
彼はあらゆる善悪の彼岸に悠々と立つてゐるゲエテを見、絶望に近い羨ましさを感じた。詩人ゲエテは彼の目には詩人クリストよりも偉大だつた。この詩人の心にはアクロポリスやゴルゴタの外にアラビアの薔薇さへ花をひらいてゐた。
それはゲーテなのだ。
詩人ゲーテは詩人クリストより偉大だった。クリストはただジヤアナリストとして人気があっただけだ。
もし順番が逆なら、つまり『或阿呆の一生』が最後の最後に書かれたならば、素直にそう読めたかもしれない。しかし何故か『続西方の人』が意図して最後に置かれていて、「死ね、生まれよ」という落ちに見えない。
つまりジヤアナリストとしてクリストをたたえつつも『続西方の人』には「薔薇の花に似た理解の美しさ」ではなく皮肉が見え、その一方で『或阿呆の一生』では東方の人になれない「彼」、ゲーテと比して彼自身を軽蔑せずにはゐられなかった「彼」の文学的敗北が、先生と無関係なところでうすぼんやりと見えてくるような気がするのだ。
ゲーテをキーに結びつく『続西方の人』『或阿呆の一生』によって何事も成し遂げられずに死んでいく「彼」が見えてくる。
これは何なのか?
足して合わせて『彼 第三』? この発想もありかなしかで言えばありだ。
どうも勝った気がしないことだけは確かだ。
何故?
それは芥川が「アクロポリスやゴルゴタの外にアラビアの薔薇」と書いてしまっているからだ。「Divan はもう一度彼の心に新しい力を与へようとした。それは彼の知らずにゐた「東洋的なゲエテ」だつた。」と書きながら。やはりそもそもクリストは「東方の人」であろう。アラビアが東でイスラエルが西なんて、それは無理と云うものだ。
とにかく最後の最後まで芥川が何やらややこしいことをやってくれていることだけは間違いない。
何やらややこしく手の込んだ意地悪い仕掛けだ。
そしてそんな芥川龍之介の作品をこれまで誰一人読んでこなかったことも間違いない。
そろそろ眺めるのを止めて読んでみたら?
ここから。
[余談]
それにしても菊池寛はあらぬ角度から酷いとばっちりを喰らっている。本当に芥川には悪気はないのだ。悪いのは彼の正直だ。
