大町桂月「夏目漱石論」 熊本に夏目漱石あり
夏目漱石論
絕代の奇才といふべき哉、大學を出でゝ、田舍の中學教員となり居りし間は、日本派の一俳人として、一部の人に知られしのみなり、さまで奇とするには足らざりし也。進んで、高等學校の教員となりしも、これは鰻上りといふものにて、さまで奇とするには足らず。留學を命ぜられ、歸へりて、大學の教員となりしは、秀才には相違なけれども、他に其の類も少なからざることなれば、さまで奇とするには足らず。一明、「我輩は猫である』を著はすに至りて夏目漱石の奇才、こゝに始めて頴脫せり。
啻に其作が奇拔なるのみならす、大學教員にして、而かも四十歲近くになりて、始めて小說を草し、而かも其小說が文壇を風靡するといふ事實が奇拔也。やがて、大學教員の職をなげうつこと敵履の如く、甘んじて、一生を一枝の筆に托するに至りては、益奇拔也。つらつら漱石の學や文や人格やを察するに、奇骨あるの士なること、明治の文壇、實に空前也。
日本派の俳壇にありて、正岡子規は、趣味ひろく、才大なる點に於て、大將株の價値あり内藤鳴雪は風韻高き點に於て、俳壇の仙也。漱石は、奇拔を以て、一頭地を拔く。他の諸子は、凡骨もしくは、小才子の徒、多く言ふに足らず。漱石は、滑稽をも兼ねたり。『かみなりのづに乘り過ぎて落ちにけり』は、まだ月並の痕跡もあれど『某は雀にて候案山子殿』などに至りては、滑稽の妙をきはめて、よく漱石一家の特色を發揮せるもの也。
はじめ、帝國文學に、『倫敦塔』出づるや、われ激賞して曰く、帝國文學空前の美文なりと。其後、『我輩は猫である』の上卷出づるや、われ少しく之を抑へたり。抑へたるは、其大成を期したる也。飮酒、道樂、社交、旅行等の註文も、この意に外ならず。
然るに、中卷に至りては、苦沙彌先生、二杯の晩酌の處を四杯まで飮み過す。細君苦々しき顏をなす。先生曰く『桂月が飮めと勸めたり。』『桂月とは何ぞ』『さすがの桂月も、細君に逢つては、一文の價値も無し。桂月は現今一流の批評家也。その桂月の言ふ事故、よき事なり』といへば『桂月だつて、梅月だつて、よけいなお世話なり』といふ。『酒のみならず、交際をして、道樂をして、旅行をしろとすゝめたり。』『なほ惡きにあらずや』と、細君柳眉をさかだつるに至りて、われ覺えず案を拍ちぬ。
謝劣、余の如きものゝ愚評が、作家に對して、こゝまで反應があるかと思へば、大に張合があるといふもの也。漱石は、なほ余の言を氣にせしと見えて、他の處に於て、『桂月は主人の事を穉氣があると言つて居る』と記せり。問ふに落ちずして、語るに落つ。そんな事言ふが、即ち穉氣也。
しかし、冷やかすことは、さて措き、上卷の三四倍大のものにしたしと註文せしに、うれしや、中卷出でたり、下卷出でたり。容量に於ても、大作の資格を備ふるものとなりたり。玆に、余は、さきに、上卷に對して、頌よりも、むしろ規を以てして、抑へたる批評を取消して、言はむとす、一九の『膝栗毛』三馬の『浮世風呂』が傑作なる以上は、『我輩は猫である』は、或點に於ては、たしかに、それ以上の傑作也。空前の作也。寫生文に、寫生の必要あり、畫家にモデルの必要あらば、『我輩は猫である』も、モデルあるべし。漱石の人となりもあらはれて居るなるべし。されど、それよりも、直接世にあらはれたる事實に就いて吟味する方が、早手廻し也。
漱石の朝日新聞社に入るや、入社の辭を草したり。『大學は我を冷遇したり。年俸僅々八百圓、衣食にも事缺く。故に我を優遇する新聞社に入りたり』との言あり。其學ぶ所が英學故、知らず知らず英國の氣風にかぶれて、それを當然の事と思ふかも知れず、又天眞爛熳、己れを佯らぬつもりかも知れねど、余を以て見れば、例の穉氣むしろ愛すべき點もあれど、立つ鳥.水を濁さずといふことを解せざる也。大學の諸公、多くはみな駿馬也。而かも槽櫪の間に一生を送るの駿馬也。即ち官臭を喜ぶ人也。漱石は、官學的臭氣を帶びず、所謂天馬稱すべからず底の人也。冷遇に腹立てゝ、去るなら去るで、大に好し。されと、行がけの駄賃、大學の惡口言ふの必要、いづくにか在る。
『文學論』の梓に上るや漱石大に怒り、校正者をして謝罪狀を新聞に出さしめたり。更に活版屋と爭へり。その活版屋と爭ひしは、愚のやうなれども、活版屋を警戒して、出版上に利益を與へたりとすれば、大愚と云ひて可也。されど、校正者の謝罪廣告に至りては、全く痴愚也。公私の區別を知らざる也。校正者疎漏ならば、私に於ては、大に校正者を叱るべし。されど、公に於ては、責を引きて、自から謝罪せざるべからず。元來、自著を自から校正せぬといふことは、讀者に對して、不忠實きはまること也。されど、自から信用する人ならば、之に托するも、止むを得ざる場合もあるべし。その塲合には、校正の誤謬は、校正者の罪にあらずして、漱石の罪也。其罪を校正者にのみ嫁して、己れひとり、いゝ子とならむとするは、餘りに得手勝手なる我儘者也、一寸氣が利いて、大に間が抜けたり。所謂頭かくして、尻隱さヾるの類也。即ち滑稽的也。腹に惡意あるにあらず、罪なし、無邪氣也。穉氣、むしろ愛すべき也。
事實上の漱石、既に斯く滑稽を帶びたり。これを『我輩は猫である』に擬するに、ハヽア、出て居るは、出て居るは。その爲めに、『我輩は猫である』に、一種の滑稽を添へたり。大學の薄遇を怒り、校正者の疎漏を怒り、活版屋の不埒を怒るの漱石は、苦沙彌となりて、金田夫人の鼻の大なるが、癲にさわりて怒りたり。墻外で、サベージ、チーと惡口言はれて、怒りて飛び出したり。湯屋にて學生と喧嘩したり。野球の丸をなげ込まれて、怒りて學生を捕へたり。校長を呼びたり、その結果、始めの怒りも何處へやら、龍頭蛇尾に收まりて、門が鳴る、御免、丸を拾はして下さいと、頻煩に學生の入り來るとが增したるだけにて、丸の飛來は、依然としてもとの如き也。
苦沙彌先生癇癪を起しゝは、右にあげたる塲合のみにて、それも至つて無邪氣なる、罪の無き怒り也。平生は、洒落也、飄逸也。白き鼻毛を拔き、珍らしがりて、うゑたてゝ面白がる也。細君來て、家計の不足を訴ふれば、その鼻毛にて、おつ拂ひて、うれしがる也。氣が利いたやうにて間が拔け、間拔けたやうにて、氣がきゝ、機智にとみ、想像力にも富めり盜賊にものを取られても、くやしがらず。その盜まれたる品物がもどると聞きても、さまで、うれしがりもせず。友に對しても、來る者は拒まず、去る者は追はず。細君の言ふが如く、巡査を恐れ敬ふは、内氣にして、眞面目にして、臆病なれば也。我家に入りたる盜賊を、それとは知らずに、刑事巡査と思ひあやまりて、慇懃に之に頭をさげたるは頗る滑稽也。迷亭に注意せられても、なほ悟らずに、其非を通すは、ますます滑稽也。
内氣にして臆病なるは、天才者の一の資格也。しやあしやあと蛙の面をするものに、到底大なる發達なし。姪の少女、小慧也。苦沙彌先生のあまのじやくなるとを看破せり。買つてくれと云へば、買つてくれず、いらないと云へば、買つてくれるといふ秘訣を知りて、いらないと云ひて、蝙蝠傘を買つてもらへり。得々として、之を叔母に語る。そんなら返せと、苦沙彌先生に言はれて、忽ち泣き出すなど、目の前に見る々やう也。
迷亭も、寒月も、越智東風も多々良三平も、いづれもみな苦沙彌先生の變形に過ぎず。迷亭は洒落のやうなれど、小心也、うそをつけど、惡意は無し、帽の說明を爲し、蕎麥の食ひかたを說明するなど、馬鹿のやうなれど、馬鹿にはあらず、寒月は金田令孃にほれて、吾妻橋より身を投ずるまでの馬鹿者なれど、橋の下にはあらで、橋の上に身をなげたる利口者也。蛙の目玉を研究し、博士論文を草し、博士となりて、金田の女婿とならむと思ふまでの馬鹿者かと思へば、いつの間にやら、國より細君をつれて來たる利口者也。越智東風は我が愛する美人が他に嫁すると聞きても、やきもちも燒かず、失戀して、華嚴瀑に赴きもせず、喜んで祝ひの歌をつくるまでに洒々落々たり。徹頭徹尾、滑稽に富みて、その滑稽には、機智あり、警句あり、-やみ無く、くすぐり無し。諷刺は少なし、諷刺の出來るほどの度量なき人也。否諷刺の出來るほどの惡人に非らざる也。
直截にして、天眞爛漫、いつばらず、ぶらず、街はずして、氣品自から高し。終に猫がビールに醉ひて、甕中に落ち、脫するに路なきを知りて、未練も言はず、愚痴もこぼさず、泰然として死するに至りて、淑石の面目、所謂畫龍に晴を點するの趣あり。激石の作、冷やかなるやうなれど、眞に冷かなるに非ず。腹には、萬斛の淚ある人也。
されど、自から修養する所ふかく、理性も發達せり生死得喪の上に超脫す、この猫の最期と中卷の序とを對照すれば、面白かるべし留學中、正岡子規が重病の苦狀を書きたる手紙を送りければ、長々と返書をおくれり。子規それを面白がりて、今一度おこしてくれと、あはれな事を言ひ來れり。されど、我は我の仕事あるを以て、返書をおくらざりき。子規むなしく死せり。一寸.この事を聞かば、人或は不人情と思ふべし。然れども不人情には非ず。激石の所謂非人情也。激石は善人也。淚ある人也。されど、自から生死得喪の上に超脫す。子規の病苦を氣の毒とは云へと、達人にありては、一死もとより大事件にはあらざる也。
一般の俗人なら、いざ知らず。正岡子規ともあるべき人なら、亦然るべき筈也。根蒂にこの悟脫あり、故に猫の最期も見事也。漱石自身の最後も、亦同じく見事なるべき也。明治の文壇われ漱石に於て、高士の俤を見る。滑稽も淚ある人の滑稽にして、はじめて眞の滑稽也。さなくば、いやみとなり、駄洒落となり、くすぐりとなりて、輕薄の氣紛々として近づくべからず、『我輩は猫である』一篇、一寸冷かなやうなれども、徹頭徹尾、面白可笑しく讀まるゝは、作者其人の腹に淚あるが故也、又漱石の人格の高きが故也。
唯漱石は、事實上にも、下らぬ事に癇癪を起し、それが作にあらはれて、自然の滑稽となる。穉氣と云へば、穉氣なれども、むしろ愛すべき也。世もし單に漱石の滑稽のみを味ひ、警句のみを味ふものあらは、これよく漱石の作を讀む者と云ふべからず。草枕の主人公が陶淵明の『採菊東離下、悠然見南山』を激賞したるは、やがてこれ淑石の趣味也。激石は英文學に精通し、哲學的頭腦を有し、西洋の新知識に富めども、根本は、漢詩、俳句、種、武士道などに含まれたる氣品を身解したる人なるべし、淵明もし小說を作らば、漱石に似たものが出來るべし。雪舟もし小說をつくらば、やはり漱石に似たものが出來るべし。石川丈山もし小說をつくらば、やはり漱石に似たものが出來るべし。
社會の趣味墮落し、浮薄にして、唯、新を追ひ、藝術も徒に西洋の糟粕を甞めて得々たる世の中に、雪舟、探幽などの名畫は、どしどし西洋に飛び出しつヽある也。氣品といふことを解せさる者は、去つて自然派の小說を讀め、自然派の小說は、また獨得の別趣味ある也。氣品を解するもの、漱石の小說を讀まば、塵外の仙境に遊びたる心地すべき也。
この點に於て、明治の輕文學壇上、漱石が獨歩也。さらば、漱石は、氣品の極に達し居るかと云ふに、余は、否と答ふべし。味噌の味贈くさきは、眞の味噌に非ずと云ひけむ、氣品の氣くさきも、まだ上乘の氣品にはあらざる也。寫生文と題する論文の中に、漱石は、寫生文の要を說きて、寫生文家の社會人生に對するは、親の子に對するが如しと云へり。これだけなら大に好し。
然るに其理由を問へば、子が犬に吠えられて、あわてゝにげて、菓子を落して、泣いたからとて、親は其子と同じく泣く能はざるなりと云ふ。漱石のまだ氣品くさきもこゝ也。其作の冷かに見ゆるも、こゝ也。子と同じ心になりて、子と共に遊び、子と共に鬼戯もなし、子と共に笑ひ、子と共に泣き、しばらく、小我を沒してこそ、まことの親なね氣品も、こゝに至りて、渾然たる大氣品也。
潔癖にして理智のすぐれたる漱石には、無理なる註文かも知らざれども、漱石もし其大を望まば、自から力めて其理智をくらますべし、愚になるの趣を解すべし。
西園寺侯が聰明純潔の資を以て、豺狼のよりあひのやうな政界に立ち、政友黨の總理となり、內閣總理大臣となれるは、之を能くせるに由る也。書を讀み居りては、漱石の理智は、益長ずべし。しばらく書卷を擲道ち、世の愚物、俗物に伍して、外部の主角を去れば、それでよき事也。余の飮酒、樂、社交、旅行云々は、要するに、愚になれとの事也。必ずしも小說に酒を描け、道樂を描けとの事にはあらざる也。
單に氣品のみならば、明治の世といへども、佛に名僧あるべく、野に高士あるべし。漱石のみに限らざる也。藝術上の手腕として、漱石に多とすべきは、其獨創力也。獨創力なき氣品は。氣品なれども、陳腐となるべし。漱石は奇才也、月並を嫌ひ、常套を忌む。杜甫は、『語不驚人死不休』と云ひたるが、漱石にも、この概あり。何事も古人、もしくは西人の糟粕を甞めず。今の自然派の作家が西洋の自然派の糟粕を甞むるが如きは。漱石の蛇蝎視する所なるべじ。
漱石は其小說のみならず、其文章にまで、自家の新機軸を出して、すべて所謂夏目式也。これ藝術上の一大要件也。之を缺ぎては、大家とは云ふべからず。大家と云ふべからざるのみならず、藝術上の生命なき也。トルストイを眞似て、トルストイまでに至り、モーパツサンを眞似て、モーパツサンまでに至りたればとて、一時の愛嬌にはなれ、こけをどしにはなれ、藝術史上、何等存在の價値なき也。『我輩は猫である』は、たしかに一種の夏目式也。所謂非人情小說の『草枕』は、猫とは、とびはなれて、亦一種の夏目式也。『二百十日』も、『坊ちやん』も、みな夏目式也。短篇にいたるまで、それぞれ特色あり。『一夜』は、漱石が自から『我輩は猫である』の中に、『先達ても、私の友人で送籍といふ男が一夜といふ短篇をかきましたが、誰が讀んでも朦朧として、取り留めがつかないので、當人に逢つて、篤と主意のある所を糺して見たのですが當人もそんな事は知らないよと云つて、取り合はないのです。全く其邊が詩人の特色かと思ひます』と云へるが如く、まことに禪問答みたやうにて、とんと分りかねるものなるが、とにかく、一種の特色あり。
その他、幻影の盾、薤露行、趣味の遺傳、琴の空音など、いづれも夏目式なるが一篇は一篇の特色ありて、似寄つたものなく、いよいよ出でゝいよいよ新、いよいよ奇、以て才の大なるを知るべし。かく小說其物が世に夏目式と云はるゝが、交章も亦夏目式と云はる。譬喩な形容、と、ありふれた成句は、一つも用ゐず。皆自から新に工夫して、而かも妥帖也。毫も生硬ならず。警句續出、應接に遑あらず。文才にも長けたる人なる哉。文は長けれど
句は短く、從つて力あり。斷岸絕壁相連りて、はきはきして居りて、而かも委曲をつくし、複雜なることを明白に描き出して、所謂痒い處に手の屆くとは、漱石の文章の事也。
對話のうけ具合も、今の小說家の中にては、上出來の方也。西洋の新知識に加へて、漢文、漢詩、俳句の素養も深かるべし。和歌和文の素養はあまり見えざるやうなれども、文法語格などの間違ひは、幾んど無くして、文章家としても、一種の異彩を放てる名文家たるを失はず。
漱石は新を好み、奇を愛すれども、妄りに小才を恃みて格を破りたるに非ず。十分古文學の素養ありて、一旦格に入りて、而して後、格を出でたる也。故に前人を襲蹈せずして、自から法度ある也。
今、朝日新聞に出しつゝある『虞美人草』は、未完なれば、しばらく言はざるべし。在來の作は、『我輩は猫である』の外は、『野分』一篇を除きては、漾虛集と鶉籠とにまとまれり。『我輩は猫である」は、漱石の名を成さしめたるだけありて、どうしても、第一の傑作也。之に次ぎて、『草枕』と『坊ちやん』とが見るべし。
人或は漱石が小說の技倆を疑ふものあり。されど、坊ちやんが書ければ、小說の伎倆は、十分也。坊ちやんは、よく躍動す。所謂小說の格にはまりたるもの也。かうまで坊ちやんを躍動させるには、作者自身を描けるにあらずんば、出來ざること也。當年、『油地獄』は、齋藤綠雨の傑作ど、稱せられたるものなるが極めて内氣なる、恥かしがりの、初心なる主人公は、綠雨自身なりとすれば、我儘で、氣が勝ちて、負嫌ひで、而かも無邪氣なる坊ちやんは、漱石自身なるべし。『草枕』は之と異なりて、格を出でたる、所謂非人情小說也。
文最も美也。警句最も多し。漱石自からも說明せる如く、美を美として描ける小說也。非人情の一畫家、温泉塲に赴きて、非人情の美人に遇ひ、之を描かむとすれど、何處か足らぬ處あり。されど、こゝぞとつきとめること出來ざりしに、停車塲裡、人を送りし時、その美人の顏に、『憐れ』が浮び出でしを見て、これだこれだこれで畫になると喜びたりと云ふだけにて、筋を云へば、極簡單なれども、筆底花を生じ、描寫神に入り、美をきはめ、妍をつくし、人をして畫裡に逍遙するの思あらしむ。その美人の面に『憐れ』を缺きて、畫にならざるを知るの漱石は、我が作にも、同じく『憐れ』。を缺くの不可なるを知らざるべからず。
思ふに、漱石は、尋常の藝術家以上に自分の下らぬことを自知せるだけの明あるべし。これ『我輩は猫である』の成れる所以也。されど、人もみな下らぬものと思ふなるべし。これ『憐れ』を缺げる所以也。余はおもに藝術家としての漱石を見たり。即ち漱石の輕文學のみを見たり。
漱石には『文學論』の大著あり。『文藝の哲學的價値』といふ長論文もありその他にも論文ありて、硬文學に於ても、亦有力の士也。漱石の如き作家が、新聞小說の中にあるは、はきだめの鶴と言はヾ、或は誇張に失するかも知れず、安普請の小借家の金屏風とても言はむ乎。新聞に小說を草してより未だ久しからざるに、讀者の評判、はや、はじめのやうにもなく、毀譽相半せるが如し。『我輩は猫である』に、輕快なる滑稽のみを味ひて、漱石が新機軸の氣品を味はざるの致す所たらずんばあらざる也。
[出典]『半生の文章』大町桂月 著広文堂 1907年
[付記]熊本に夏目漱石あり
漱石の死後、漱石の代表作から読み始め、やがて漱石全集を何周かするようになった者にとっては、漱石の無名時代からの読者の感覚というのがちょっと掴みづらいようなところがある。
伊豫に村上霽月柳原極堂あり熊本に夏目漱石あり。就中、紅綠は碧梧桐に似て、而も變化の才あり、露月は漢語調を好む事虛碧に同じくして而も藻思多面なり。(『明治文学史』岩城準太郎 著育英舎 1906年)
こんなことを云われても、高浜虚子の手紙を読んでいなければピンと来ない筈だ。
漱石は熊本で「紫溟吟社」という俳句の結社を起こしていた。「熊本に夏目漱石あり」とはその評判のことだろう。
素より文にして世に公にしなくとも、心の裡に大經綸のある人もあらうが、それは別物として今迄世に顯はれた泰西演劇に關する話で、面白く思つたのは、一昨年頃『歌舞伎』誌上に出た夏目漱石氏の談であります。尤もこれは演劇其物或は藝評に亘つて居ないから、私の望む所とは少し違ふ。他の新聞雜誌に見えた演劇談は日本に居る人も夙くに傳聞して承知の事ばかり、私は思ふ何故に諸氏は、歐洲劇壇の潮流を觀察して、其最も進步した形式は何であるか、優人の表情法、或は一般技術に於て東西の相違はどこにあるか……。(『文芸講話』上田敏 著金尾文淵堂 1907年)
上田敏はどこがどう面白かったのか書かないが、この当時、漱石の書くものは既に「解る人には解る」と密に評判だったのではないか。
現在法(Prosopopaeia)とは、過去または未來の事實を現在働詞を以つて發表し、まざまざと目前に出來て居ることであるかの樣に見せることだ。幻像(Vision)ともいふ。修辭小說家では、夏目漱石がよく之を用ゐる。(『新体詩の作法』岩野泡鳴 (美衛) 著修文館 1907年)
岩野泡鳴まで漱石に言及している。この例は『倫敦塔』や『カーライル博物館』あるいは『趣味の遺伝』にフォーカスした指摘であろうか。むしろ漱石のリアリズム小説(本当はそんなものは一つもないけど)の方に親しんだ現代の読者なら、突然こんな説明を受けてもなんのことやらと感じてしまうのではないか。
現代の小說家では饗庭篁村夏目漱石の文章はまた平易である。新聞では時事新報の文章はきはめて平易である。これらはいづれも手本にしてよろしい。(『文章入門』武島羽衣 著大倉書店 1907年)
漱石の文章が平明と、芥川龍之介を讀んだ後に言われるとやはり妙な気がする。いやもう我々は三島由紀夫の華麗で硬直な文章も、庄司薫のティーンエイジスカースも経て来たのだ。ありとあらゆる文体の中で比較してみると、やはり漱石は平明というより理屈っぽい。
夏目漱石、『我輩は猫である』に所謂寫生文の標本を示せり。
山に入りて、山を見ずとかや。われ今山の中にあり。殊に寡聞にして眼前の大家を、それと氣づかざること多かるべし。寡聞なる余の見るところを以てするも、尙各方面に大家羅列して、目幾んど應接に遑あらず。嗚呼盛んなる哉。(『新体文範』大町桂月 著大倉書店 1907年)
それでも当時の人々は新しい文体に沸いたのだ。夏目漱石という新しい才能を歓迎したのだ。
洋行歸へりの人にして、日本人としての第一刺觸を巧妙に言ひ廻したるが爲めに恰かも歐米の零圍氣中にあるが如き思ひを讀者聽者に抱かしむるやうなものは洵に稀少であつて、夏目漱石君の倫敦通信や島村抱月君の滯歐文談の如きものは滅多に逍遥し得られない珠玉の文學であらうと思ふ。(『文談花談』畔柳都太郎 (芥舟) 著春陽堂 1907年)
例えば漱石も明治の小説としては後世に伝ふべき名篇也とみとめる島崎藤村の『破戒』が明治三十九年(1906年)、その評価は後にじわじわ高まるが、大町桂月の「夏目漱石論」を読んでいると、そんなものは眼に入らぬようだ。
それにしても欧米の雰囲気、描写の妙、幻影、平明な文体、俳味、滑稽、癇癪、内気、臆病となんでも褒められたものだ。
※「歐米の零圍氣」といえば、まず永井荷風の『ふらんす物語』が思い浮かぶ。これが1909年だが、発禁処分で1915年に再発行された。つまり、大正四年だ。うーん。
