柄谷行人の『新版 漱石論集成』をどう読むか② 基本的に読めていない
先生の死は構成的必然である
柄谷行人の『新版 漱石論集成』を読んでいて改めて感じるのは、作品そのものを全然読めていないのによく知ったかぶりができるなということである。note民にもたまに自分だけは全部わかっているという態度の人がいるが、それは柄谷の真似なのだろうか。
繰り返すが夏目漱石作品に関して言えば解っていることと解っていないことが必ずある筈である。野々宮の探し物や「檜に秋が来たのは珍しい」などは大抵の人が解らない筈だ。なのに「三四郎は○○である」とはなかなか書けない筈である。ところが柄谷は自分が解らないところに勝手な理屈をねじ込んでしまう。
『こゝろ』の隠された主題は自殺である、と私は先に述べた。それは、先生の自殺が作品の構成的必然ではなく、作者の願望のあらわれとしてあるということである。
つまり柄谷は乃木大将の妻が静子である事を知らず(そのことに気がつかず?)、「静が生かされる」という筋が見えてないことになる。先生の自殺の唐突さは、乃木静子が殺されるという不思議の裏返しである。むしろ先生の自殺は構成的必然によって、つまり先生の妻を「静」と名づけ、時代設定を明治末期に合わせて乃木希典の殉死という事件を作品に紛れ込ませた時点で確定していたものである。これを構成的必然と呼ばずして何と呼ぶべきなのか。
無一文で借金を背負い病の激痛に苦しんでいるのでなければたいていの人は死ななくていいのだから、先生も別に死ぬ必要はなかった。
本当は乃木希典も同じである。
これも繰り返したが漱石は「人生は自殺するほど価値のあるものではない」と書いている。この手の解釈だと先生の突然の立小便も露出願望になってしまうが、それ自体はふりであろう。
ただし、
夏目漱石が『こゝろ』を書き始める直前、かなり落ち込んでいたのは事実である。だからこそ私はあの清々しい書き出し、全肯定の精神に驚くのだ。先生の死の記録を経て「私」は更に経験を積み立派な大人に成長したのだというエピローグのような冒頭の時点で、先生は既に殺されていた筈だ。何故なら先生は冒頭において既に記憶の人である。
こうしたこまかいところをきっちり抑えておかないと、とんでもない出鱈目を書いてしまう。そしてその出鱈目が伝搬する。どうか死ぬ前に気がついてほしいものだ。
あなたの漱石論は間違っていますよ。
先生は金で動いた
これはなかなか消えない誤解である。
先生自身は金によって動きはしなかったが女によって動いた。とすれば「女さ君、女を見ると、どんな君子でもすぐ悪人になるのさ」と言ったようなことが書かれているのか。むろんそんなはずがないのだ。
現代文B的解釈においてなかなか消えない誤解である。
先生は金で動いた。「宅のもの」には奥さん(義母)も含まれる。大体金を持っているものほど金を欲しがるものである。先生は奥さんの財産の連携キーとしてのお嬢さんを貰うことにしたのだ。
そのために一番いい部屋を夫婦で使うことになれば……Kは無一文のまま居場所を失う。「何かお祝いを上げたいが、私は金がないから上げる事ができません」と言わせるまでに金銭的に追い詰めたのも先生である。
そもそも学業に負担のない程度のアルバイトはさせておけばよかったのだ。
それにしてもどうしてここまで書いていて「あれ?」と見直しをしないのかと不思議になる。夏目漱石作品の多くが金の話だったというのは俯瞰して眺めればすぐに気がつくことだと思うが、それがどうしても一つの思い込みに囚われて見えなくなってしまうのだろうか。
回想です
どうも『新版 漱石論集成』を読む限り、柄谷は漱石作品を広くまんべんなく眺めてはいるようです。時には「断片」にも言及していますので書簡や日記なども一応眺めてはいるかもしれません。
しかしまあ漢詩や俳句はいい加減に眺めているだけだとして、主要な長篇小説はもう少し読めていても良さそうなものなのですが……読めていませんね。
たとえば『虞美人草』の跡で、漱石は『坑夫』というのを書きます。これは一人称(「自分」)で書かれています。しかし、回想ではありません。
回想です。
柄谷にはディアゴスティーニ方式の現在が全く見えていないことになります。
いや、そんなことってありますか?
確かにやや解りにくいところで、最初は気がつきません。書き出しなどはいかにも今今目の前にあるものを描いているかのようです。しかしちょいちょいと現在が出てきます。この現在の見えにくさのランクで言えば、
難しい 『行人』
普通 『坑夫』
簡単 『坊っちゃん』『こころ』
こんな感じで、
例えば『こころ』の最後は暗かったと「読書メーター」に感想を書いている高校生はいなくはないのですが、仮にも評論家なら『坑夫』の現在を見逃してはおかしいと思うんですけどね。
この『坑夫』の現在は、他に喩えると芥川龍之介の『奇怪な再会』の「私」みたいなものなのかと思います。
漱石文学と云うものを一切継承しようとしなかったように見える芥川ですが、「何かを隠しながら描く」という漱石の流儀をたまたまかどうなのか、様々な形で試しています。
この『奇怪な再会』が一人称小説である、ということに気がつかない人もいなくはないと思うのですが、実際気がついてこそ面白いわけですよ。
つまりそういう意味では柄谷は『坑夫』の面白さに辿り着いていないわけです。焼きそばパンの焼きそばだけ食べているようなものなのです。それでいて『坑夫』について語るのですから凄まじいものです。
普通に考えると回想に気がつかないレベルの読み手は「いやあ、僕には少し難しくて良く解りませんでした」というべきではないのか。
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