見出し画像

谷崎潤一郎の『幇間』を読む かりそめのドミナ

※ここから読めます。


明治三十七年の春から、三十八年の秋へかけて、世界中を騒がせた日露戦争が漸くポウツマス條約に終りを告げ、國力發展の名の下に、いろいろの企業が續々と勃興して、新華族も出來れば成り金も出來るし、世間一帶がなんとなくお祭りのやうに景気附いて居た四十年の四月の半ば頃の事でした。(谷崎潤一郎『幇間』)

 さて、『少年』に関して、「谷崎潤一郎は不意にある見え透いた主題を反古にして、極めてシンプルな政治的主張をするようなところがある。」と指摘した傍から、いきなりこのように政治的な話から始められる谷崎潤一郎の『幇間』の毒をどう捉えればよいものだろうか。『刺青』は茶坊主や幇間が立派に存在していけた、世間がのんびりしていた時代の話であった。私はこれまで明治四十年の四月が好景気だったという話は他で聞いたことがない。谷崎潤一郎は異世界の話を書こうとしているのだろうか。そう思ってみれば、『刺青』は江戸風でありながら幇間が存在していけるのんびりとした時代設定だった。この矛盾、とても幇間が存在していけるのんびりとした時代ではありえない明治に時代を映して、幇間を描こうとする谷崎潤一郎の狙いはどこにあるのか。 

1月、東京株式市場が大暴落。日露戦争後の戦勝景気は終わり、翌年にかけて企業の倒産や銀行の休業など経済恐慌が全国を襲った。

日露戦争が終了したあと、1907年(明治40年)に戦後恐慌というものが起こります。これは、明治四十年恐慌ともよばれていて、戦争で多額のお金を使ったのに、賠償金が全くとれなかったことから起こりました。


此の男は幇間の三平と云つて、もとは兜町の相場師ですが、其の時分から今の商売がやつて見たくて耐らず、とうとう四五年前に柳橋の太鼓持ちの弟子入りをして、一と風變つたコツのある氣象から、めきめき贔屓を拵へ、今では仲間のうちでも相應な好いになつて居ます。(谷崎潤一郎『幇間』)

 恐慌の年、兜町の相場師が株になるとは洒落が過ぎる。しかし谷崎はこの洒落をずんずんすすめる。三平を根っからの幇間、道楽の神髄に徹した歓楽の権化として、描いていく。しかしやはり油断がならない。三平(櫻井)は「惚れたとなったらだらしない」男であり、「女の歓心を買うため」に傅きながら、非常に飽きっぽい質で、しつこいほどちやほやするかと思えば、直にほとぼりがさめて、何人となく女房を取り換えるのだ。「いつも女にしてやられ、年中ぴいぴいしていた」ところ借金で首が回らなくなり、昔の友達の榊原の店に転がり込み、旦那の思い付きから本職の幇間となる。
 芸はできるし、お座敷はうまい。瞬く間に売れてしまう。
 そんな三平が梅吉という芸者に惚れる。男を男と思わぬような勝気な女である。三平は榊原に梅吉と一晩過ごせるように、つまりチョメチョメできるように頼む。榊原はその折座敷で流行っていた催眠術をかける遊びを利用して、三平を玩具にしてやろうと企む。(三平は催眠術にかかったふりで場をにぎやかしていただけ。)

「ちつと罪なやうだが、今夜お前から彼奴を此處へ呼んで、精々口先の嬉しがらせを聞かせた上、肝腎の所は催眠術で欺してやるがいヽ。己は蔭で様子を見て居るから、奴を素裸にさせて勝手な藝當をやらせて御覧」(谷崎潤一郎『幇間』)

 榊原は梅吉にそう相談する。梅吉は「なんぼ何でも、それぢゃあんまり可哀相だわ。」と躊躇したものの、面白いからやってみろ、という気になる。どうも谷崎は信用できない。私が、『少年』について、光子が下半身を責めないこと、榮と仙吉を裸に剥かないことに苦情を言ったのが聞こえていたようだ。結局三平は裸にされてしまう。

 それでも三平には、梅吉の酷い言葉が嬉しくつて堪まりません。果ては女の與へる暗示のまヽに、云ふに忍びないやうな事をします。(谷崎潤一郎『幇間』)

 云ふに忍びないやうな事という書かれていないことでマゾヒストを喜ばせようというのが谷崎の魂胆であれば、谷崎文学とはただの淫書であろうか。いや露骨に書いていないので春本ではないという話ではない。ここで谷崎がコントロールしようとした感覚の一つに、梅吉が「云ふに忍びないやうな事」を命じたということによるエロティシズムがあることはどうにも否定しがたい。最初は躊躇していた筈がついついエスカレートした梅吉の興奮が、男女ともに伝わるように谷崎は書いている。「云ふに忍びないやうな事」が具体的にはなんであったのかといえば、それは『少年』では書かれなかったことであり、体に傷が残るようなことでもないと考えられる。首尾よく事を遂げたと思わせるためには欠かせないことだとも言える。これは書かれていないことだが、ロジックから現れることだ。つまり少なくとも梅吉が命じたことの一つはejaculationであろう。よく眠れるくらいたっぷりと、何度も命じられたに違いない。三平は催眠術にかかっているわけではないのに、梅吉に命じられるまま従ったに過ぎない。
 柄谷行人に言わせれば明治の知識人は、気が狂うか、宗教に入るか、自殺するか三つの選択肢しかないそうだが、元兜町の相場師は大恐慌の日本で、幇間というもう一つの選択肢を見つけていたのではなかろうか。谷崎はこうも語る。

取り分け御婦人の勢力と申したら大したものでげす。我がは天の窟戸の始まりから『女ならでは夜の明けぬ國』などと申しまする。……(谷崎潤一郎『幇間』)

 はい、また國だ。これは殆ど沼昭三の『家畜人ヤプー』と同じ前提だが、おそらく谷崎はむしろそんなことを全く信じていなかったであろう。
 思い出してみよう。『刺青』で彫り物師・清吉に見初められた娘は女郎蜘蛛の刺青の力によって眠っていた残酷さを呼び覚まされる。五帝の妖婦は暴君の威を借りて悪魔となる。『少年』の光子は緊縛に被虐の快感を覚えさせられ、被虐の快感を与える快感に転じる。最初から完璧なドミナなど存在しなかった。ただ勝気で悪戯好きの梅吉は、プロフェッショナルな幇間のために一夜のドミナとして持ち上げられたに過ぎない。
 ここもロジックで考えてみよう。そもそも梅吉は神通力もなにも持っていないのだ。三平に飽きられるただの芸者に過ぎない。他の客で試そうにも梅吉の催眠術は、三平の仮構でしかなく、梅吉に男を支配する力などないのだ。私はここでまたマゾヒスト本質論、マゾヒストあってのサディストについて論じているのではない。谷崎潤一郎自身がそもそもドミナ崇拝によってしかドミナが存在しえないことを書いているのではないかと云っているのだ。谷崎はただ自分の嗜好をうなされるように吐露しているのではなく、人の間、人と人の関係を理詰めで書いている。この男をただの変態作家と見做すことはできない。
 よく考えてみれば、『家畜人ヤプー』はデストピア小説ではなくユートピア小説である。同じ意味で、日露戦争で疲弊した貧乏国日本において、日比谷焼き討ち事件の戒厳令のあとで、相場師から幇間に転じることは非合理的なことですらない。合理的とは言えないまでも強烈なストレスの逃げ道としてない話ではない。それはペストが大流行しているさなかにキンドル作家に身を転じ、日々仮構を綴ることにも似てはいまいか。作家もある意味幇間である。『彷徨』で立ち止まっていた明治の青年が「幇間」という馬鹿馬鹿しい生き方を見出したと書いてしまえば近代文学1.0に堕ちてしまうので、理屈を書いておく。幇間が立派に存在していけた時代は『刺青』の時代、殿様や若旦那が平穏に暮らす江戸っ子の時代である。頭に乗った梅吉は間もなく贔屓から捨てられるだろう。三平は偽りのマゾヒストである。




【余談①】『幇間』の言葉たち

八百松 やほまつ

言問いの艇庫

 明治20年(1887)になると、日本初の艇庫として東京帝国大学(現東京大学)艇庫が向島に完成しました。それに続くように他の大学もこぞって艇庫を建設し、現在の堤通1丁目(旧向島区寺島村3丁目)の一帯は、「向島艇庫村」と呼ばれ、多くの艇庫が立ち並んでいました。

小松宮御別邸

亀清楼

幔幕 式場や会場などで、まわりに張りめぐらす幕。
末社 取り巻きの人
循つて まわって
皆目 まるまる
宛転滑脱 言葉や行動が自在で角立たず、物事をすらすら処理していくさま。
植半 植木屋半兵衛。料理屋。
麻裏 「あさうらぞうり」の略。麻苧(あさお)の平たい組みひもを裏一面に縫いつけたぞうり。 

餘熱 ほとぼり
直屋 仲買人の看板を借り、取引所の相場をめやすとして一種の賭博(とばく)をなすもののこと。
端唄 幕末の頃、江戸市中で流行した小曲。
三下り 三味線の調弦法の一。本調子の第3弦を1全音(長2度)下げたもの。粋 (いき) や艶 (つや) を表し、長唄・小唄に多く用いる。

大津絵

平生 ひごろ
むそうばおり 羽織のひとつで、表裏を同じ布でしたててある袷羽織
繻珍 しゅちん  朱珍  繻子(しゅす)組織の地に模様を織り出した絹織物。赤大名

https://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000150625

後生よし 来世の安楽がまちがいないこと。 慈悲善根を積んで来世の果報は疑いないこと。 また、その人。 果報者。


【余談②】空気のことまで書かないといけないのか

 夏目漱石の『こころ』の冒頭付近、鎌倉での海水浴に於いて話者「私」と先生の腰のあたりを覆うものについては明記されない。そのことをもって私は二人は全裸のように仄めかされていると読むが、それに対して、何もかも書く必要があるのか、書いていないから全裸という理屈はない、空気の事は書かれていないが空気はあろう、式の反論を唱える馬鹿がいるかもしれない。

 それは馬鹿な言いがかりだ。空気の事はそもそも触れられていない。衣服の事は触れられている。その上で二人の腰の周りを覆うものが解らないだけだ。

 まず、丁寧に読む。それすらできない人間は、…。









いいなと思ったら応援しよう!