芥川龍之介の『歯車』をどう読むか⑭ 枝の間に人の脚が二本ぶら下つてゐた
この記事で述べたように、たとえば『あばばばば』は一連の体験記などではなく、さまざまなプロットやモチーフを煮詰めて鋳めた小説だ。同じ意味で『歯車』も精神を病み、間もなく死に至る作家の狂気の告白ではない。
例えば『あばばばば』は『隣室』のプロットを変形させて取り入れている。同じように『歯車』には、例えば『凶』の翻案が含まれている。
大正十二年の冬(?)、僕はどこからかタクシイに乗り、本郷通りを一高の横から藍染橋へ下らうとしてゐた。あの通りは甚だ街燈の少い、いつも真暗な往来である。そこにやはり自動車が一台、僕のタクシイの前を走つてゐた。僕は巻煙草を啣くはへながら、勿論その車に気もとめなかつた。しかしだんだん近寄つて見ると、――僕のタクシイのへツド・ライトがぼんやりその車を照らしたのを見ると、それは金色の唐艸をつけた、葬式に使ふ自動車だつた。
こうした何でもないこと、単なる偶然でしかないこと、これらのことどもを敏感に警告として受け取る、という意匠が『凶』に既にあった。
大正十五年の正月十日、僕はやはりタクシイに乗り、本郷通りを一高の横から藍染橋へ下らうとしてゐた。するとあの唐艸をつけた、葬式に使ふ自動車が一台、もう一度僕のタクシイの前にぼんやりと後ろを現し出した。僕はまだその時までは前に挙げた幾つかの現象を聯絡のあるものとは思はなかつた。しかしこの自動車を見た時、――殊にその中の棺を見た時、何ものか僕に冥々の裡に或警告を与へてゐる、――そんなことをはつきり感じたのだつた。
(大正十五年四月十三日鵠沼にて浄書)
こうした材料は探せばまだ見つかるだろう。別に全部探さずとも、芥川がそういう書き方をしていたのだ、という事実はもう明らかであろう。『歯車』を芥川龍之介の神話にしたい人には不都合な真実ではあろうが。
