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柴崎友香は『坑夫』を読めているか① 炭坑場?

 どうして漱石作品がかくのごとく読み誤られてしまうかと言えば、それは、

① 漱石作品には「書かれていないこと」が多い
② そこに脳が勝手に情報を補う

 ……こういうからくりであろう。

 『坑夫』の青年は、山を越えて見知らぬ炭坑場へとたどり着くが、体を悪くしてすぐ帰る。

(「『草枕』—— 画になるとき」柴崎友香『KAWADE夢ムック 文藝別冊 夏目漱石(増補新版)百年後に逢いましょう』2016年)

 柴崎友香はこのように書いている。しかし「自分」が連れていかれたところは炭坑場ではない。

「実はこう云う口なんだがね」
と、どてらが、すぐに云う。自分は黙って聞いていた。
「実はこう云う口なんだがね。銅山(やま)へ行って仕事をするんだが、私が周旋さえすれば、すぐ坑夫になれる。すぐ坑夫になれりゃ大したもんじゃないか」

(夏目漱石『坑夫』)

 ここで「銅山(やま)」と書かれている。「銅山」の文字は十八回出てくるが最初に「ヤマ」と読んでしまうと記憶から「銅」が消えてしまうのかもしれない。

坑夫と云えば鉱山の穴の中で働く労働者に違ない。

(夏目漱石『坑夫』)

 こうも書かれている。炭坑夫と間違う人はほぼ『坑夫』を読んでいないに等しい。

 要するに読んだふりという奴である。

 また「体を悪くしてすぐ帰る」も、少し曖昧だ。「自分」は健康診断の結果「気管支炎」と診断され、飯場の帳附に回される。なんとなく勤労動員の三島由紀夫のようなものだ。

自分はこの帳附を五箇月間無事に勤めた。そうして東京へ帰った。

(夏目漱石『坑夫』)

 この五か月を「すぐ」と見做すかどうかは見解が分かれるところだとして、一つ引っかかるのは「気管支炎」の診断を、「体を悪くして」と読むかどうかだ。

「職業は何だ」
「職業って別に何にもないんです」
「職業がない。じゃ、今まで何をして生きていたのか」
「ただ親の厄介になっていました」
「親の厄介になっていた。親の厄介になって、ごろごろしていたのか」
「まあ、そうです」
「じゃ、ごろつきだな」
 自分は答をしなかった。
「裸になれ」
 自分は裸になった。医者は聴診器で胸と背中をちょっと視みた上、いきなり自分の鼻を撮つまんだ。
「息をして見ろ」
 息が口から出る。医者は口の所へ手をあてがった。
「今度こんだ口を塞ぐんだ」
 医者は鼻の下へ手をあてた。
「どうでしょう。坑夫になれますか」
「駄目だ」
「どこか悪いですか」
「今書いてやる」
 医者は四角な紙片へ、何か書いて抛り出すように自分に渡した。見ると気管支炎とある。
 気管支炎と云えば肺病の下地である。肺病になれば助かりようがない。なるほどさっき薬の臭いを嗅いで死ぬんだなと虫が知らせたのも無理はない。今度はいよいよ死ぬ事になりそうだ。これから先二三週間もしたら、金さんのようによっしょいよっしょいでジャンボーを見せられて、そのあげくには自分がとうとうジャンボーになって、それから思う存分囃し立てられて、敲き立てられて、――もっとも新参だから囃してくれるものも、敲いてくれるものも、ないかも知れないが――とどの詰りは、――どうなる事か自分にも分らない。それは分らなくってもよろしい。生きて動いている今ですら分らない。

(夏目漱石『坑夫』)

 前夜は南京虫と格闘して寝不足だが、「自分」に「気管支炎」の症状は見られない。これを無理に人情噺にする必要もないが、騙されて連れて来られた世間知らずの若造に、銅山の人は皆無理だから帰れという。医者はやはり「こいつは持たないだろう」と判断して「気管支炎」の診断をした可能性はないだろうか。気管支炎が悪化する様子もなく咳一つしない。「体を悪くしてすぐ帰る」ではないストーリーが私には見える。これも、

① 漱石作品には「書かれていないこと」が多い
② そこに脳が勝手に情報を補う

 ……の一種だとして、「体を悪くしてすぐ帰る」ではなく「気管支炎と診断され、帳附を五箇月間勤めたのち東京へ帰る」が正しい。
 医者でもないものが診察もせずに診断してしまうのは医師法二十条違反となるので「気管支炎」が嘘だとは、誰にも言いきれないのである。


[余談]

 最後の診断書の下り、口の悪い医者ほど実は優しい、という「お約束」のひな型だったんじゃないかな。いまだに教師ドラマのひな型が『坊っちゃん』なのと一緒で。「悪い教頭」って「お約束」じゃない?


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