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芥川における父という符号


 コレラが流行るので思ひ出すのは、漱石先生の話である。先生の子供の時分にも、コレラが流行つたことがある。その時、先生は豆を沢山食つて、水を沢山飲んで、それから先生のお父さんと一緒に、蚊帳の中に寝てゐたさうである。さうして、その明け方に、蚊帳の中で、いきなり吐瀉を始めたさうである。すると、先生のお父さんは「そら、コレラだ」と言つて、蚊帳を飛び出したさうである。蚊帳を飛び出して、どうするかと思ふと、何もすることがないものだから、まだ星が出てゐるのに庭を箒で掃き始めたさうである。勿論、先生の吐瀉したのは、豆と水とに祟られたので、コレラではなかつたが、この事があつたために、先生は人間の父たるもののエゴイズムを知つたと話してゐた。

(芥川龍之介『続野人生計事』)

 この父は養父であろうが、養父のようには書かれていない。漱石も養父とは言わなかったかもしれない。芥川の保吉ものでも、父が誰なのか曖昧なものがある。
 これは誰であれ現に父という役目を与えられたものを父とする感覚なのではなかろうか。要するに「上司」と同じようなもので。

 なかなか生い立ちの複雑な漱石と芥川の間で受け渡された父という符号はその程度の意味合いだったのではないかと、ふと思った。無論このルールは母には当てはまるまい。





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