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岩波書店・漱石全集注釈を校正する32 呑気な鬼瓦はしっぽくと菜飯と田楽と


おれの生涯のうちでは比較的呑気な時節

 この『坊っちゃん』は回顧の形式で書かれていることから、この「生涯」とは街鉄の技士である時代もいくらか含む勘定になる。つまり、

この三年間は四畳半に蟄居して小言はただの一度も聞いた事がない。喧嘩もせずに済んだ。おれの生涯のうちでは比較的呑気な時節であった。

(夏目漱石『坊っちゃん』)

 この小言も喧嘩もない時代は、赴任先での小言や喧嘩の時代と対になるばかりでなく、街鉄の技士の生活にも小言や喧嘩があったらしいことを仄めかしている。

どうせ碌なところでもあるまい

 生れてから東京以外に踏み出したのは、同級生と一所に鎌倉へ遠足した時ばかりである。今度は鎌倉どころではない。大変な遠くへ行かねばならぬ。地図で見ると海浜で針の先ほど小さく見える。どうせ碌な所ではあるまい。どんな町で、どんな人が住んでるか分らん。分らんでも困らない。心配にはならぬ。ただ行くばかりである。もっとも少々面倒臭い。

(夏目漱石『坊っちゃん』)

 漱石自身は明治二十五年松山を訪れている。この赴任先を巡っては最終的に「不浄の地」とまで呼ばれるようになる。都落ちという意識があったことは否めないものの、この差別意識はいかにも極端で引っかかるところ。しかし問題はそこではない。ここで「おれ」が地図を見ていることだ。「地図で見ると海浜で針の先ほど小さく見える」とある。このことは後で重要な意味を持つことになるので記憶に留めておいてもらいたい。

赤シャツだから人を馬鹿にしている

 文学士だけにご苦労千万な服装をしたもんだ。しかもそれが赤シャツだから人を馬鹿ばかにしている。あとから聞いたらこの男は年が年中赤シャツを着るんだそうだ。妙な病気があった者だ。当人の説明では赤は身体に薬になるから、衛生のためにわざわざ誂えるんだそうだが、入らざる心配だ。そんならついでに着物も袴も赤にすればいい。

(夏目漱石『坊っちゃん』)

ところで、赤シヤツだが、それは當時の流行で「赤シヤツ」に限つて赤シヤツを着てゐたわけではなかつた。
 赤シヤツは赤いワイシヤツで、袖口だけは白い固いのをつけるので、一寸見にはわからぬが、料理屋などに行つて「お風呂を」といはれると、上着をスパリと脫いで、眞紅のワイシヤツを見せびらかすといふ、當世風流子? の伊達姿であつた。
 だから「赤シヤツ」は夏目さんの知らない沼福氏だけでなく、教頭の橫地石太郞氏(後廣島高商校長)英語教師西川忠太郞氏、夏目さんと教員室で席を隣り合せてゐた中村といふお髯さんなども着てゐたし、それ等を突きまぜたものなのである。

桜井忠温「漱石先生の思ひ出 -「坊ちやん」を中心に-」

 この赤シャツの袖の白いことは案外知られていないのではなかろうか。今でもコットンの青いストライプのシャツで、袖とエリが白いデザインのものをよく見かける。全部が赤いとぼんやりしてしまうが袖が白いと引き締まった感じになるのではなかろうか。

鬼瓦ぐらいな大硯を担ぎ込んだ


 その次には鬼瓦ぐらいな大硯を担ぎ込んだ。これは端渓です、端渓ですと二遍へんも三遍も端渓がるから、面白半分に端渓た何だいと聞いたら、すぐ講釈を始め出した。

(夏目漱石『坊っちゃん』)

 松山中学時代漱石の渾名は「鬼瓦」だった。


旨かったから天麩羅を四杯平らげた


ある日の晩大町と云う所を散歩していたら郵便局の隣に蕎麦とかいて、下に東京と注を加えた看板があった。おれは蕎麦が大好きである。東京に居った時でも蕎麦屋の前を通って薬味の香をかぐと、どうしても暖簾がくぐりたくなった。

(夏目漱石『坊っちゃん』)

 この蕎麦が蕎麦ではなく、「しっぽく」であったという説がある。

僕が小唐人町と湊町一丁目の角のうどんやでしつぽくを四杯食つたら、シツポク四杯なりと黑板に書かれた。小說では漱石が自分の好きな天麩羅蕎麥に改めてる。

『伊予の松山と俳聖子規と文豪漱石』曽我正堂 著三好文成堂 1937年

 このエピソードそのものではなく、この話全体を神主さんが「嘘」と断じていることから拾われないところではあろうが、小説はあったことそのままを書く訳ではないという確認のためにも記録しておきたいところ。


何だか訳が分らない


 天麩羅蕎麦もうちへ帰って、一晩寝たらそんなに肝癪に障らなくなった。学校へ出てみると、生徒も出ている。何だか訳が分らない。それから三日ばかりは無事であったが、四日目の晩に住田と云う所へ行って団子を食った。

(夏目漱石『坊っちゃん』)

 夏目漱石作品にはしばしばこのようなまさに「何だか訳が分らない」ものが挟み込まれる。「学校へ出てみると、生徒も出ている」とは当たり前のことだ。ここに「何だか訳が分らない」という理屈はない。理屈はないものの自同律の不快と当たり前のことに文句を言うと高尚に見られるから気取っているというわけでもなさそうだ。『坊っちゃん』ではここが哲学に掘り下げられることは無い。しかし後にこの感覚そのものは繰り返し作中に現れ、『三四郎』では「三つの現実世界」という奇妙な現実認識が現れる。また、

 彼はぼんやりして四五日過ぎた。ふと学生時代に学校へ招待したある宗教家の談話を思い出した。その宗教家は家庭にも社会にも何の不満もない身分だのに、自みずから進んで坊主になった人で、その当時の事情を述べる時に、どうしても不思議でたまらないからこの道に入って見たと云った。この人はどんな朗らかに透すき徹とおるような空の下に立っても、四方から閉じ込められているような気がして苦しかったのだそうである。樹を見ても家を見ても往来を歩く人間を見ても鮮かに見えながら、自分だけ硝子張りの箱の中に入れられて、外の物と直じかに続いていない心持が絶えずして、しまいには窒息するほど苦しくなって来るんだという。敬太郎はこの話を聞いて、それは一種の神経病に罹っていたのではなかろうかと疑ったなり、今日まで気にもかけずにいた。しかしこの四五日ぼんやり屈託しているうちによくよく考えて見ると、彼自身が今までに、何一つ突き抜いて痛快だという感じを得た事のないのは、坊主にならない前のこの宗教家の心にどこか似た点があるようである。もちろん自分のは比較にならないほど微弱で、しかも性質がまるで違っているから、この坊さんのようにえらい勇断をする必要はない。もう少し奮発して気張る事さえ覚えれば、当っても外れても、今よりはまだ痛快に生きて行かれるのに、今日までついぞそこに心を用いる事をしなかったのである。

(夏目漱石『彼岸過迄』)

 ……とやはり独特の現実認識が見える。これ等の感覚が同一のもの、共通のものであるとは断じられない。ただここでは一見当たり前のことに「何だか訳が分らない」と文句が付けられていて、それが繰り返されるということを記録しておきたい。


温泉だけは立派なものだ

 おれはここへ来てから、毎日住田の温泉へ行く事に極めている。ほかの所は何を見ても東京の足元にも及ばないが温泉だけは立派なものだ。せっかく来た者だから毎日はいってやろうという気で、晩飯前に運動かたがた出掛でかける。

(夏目漱石『坊っちゃん』)

 夏目漱石が『坊っちゃん』を書いた頃、松山には6000人もの露西亜人捕虜がいて、比較的自由に街を歩き回り、温泉にも入っていた。この事実そのものは実際に書かれた小説そのものとは無関係なのだが、この書かれた小説を読む者にしてみれば、松山とはそうした場所だったということになる。


学校には宿直があって、職員が代る代るこれをつとめる


学校には宿直があって、職員が代る代るこれをつとめる。但し狸と赤シャツは例外である。何でこの両人が当然の義務を免まぬかれるのかと聞いてみたら、奏任待遇だからと云う。面白くもない。月給はたくさんとる、時間は少ない、それで宿直を逃れるなんて不公平があるものか。勝手な規則をこしらえて、それが当あたり前だというような顔をしている。よくまああんなにずうずうしく出来るものだ。

(夏目漱石『坊っちゃん』)

 実際には漱石も宿直当番はしたりしなかったりということのようだ。

バツタ事件は宿直の先生の毛布の中へいなごを入れたので騒動が起る。さうどうおこバツタ事件は、「そりやいなごぞなもし」「いなごもバツタと同じもんだ」などといふ問答があるが、さういつた事件もありはしたが、夏目さんにでなく、― 第一夏目さんは寄宿舎に泊まつたりしはなかつた。月給八十圓也の先生は、普通の宿直でもしたり、しなかつたりで、大ていは體操の先生か、下つぱの先生の受持であつた。

桜井忠温「漱石先生の思ひ出 -「坊ちやん」を中心に-」

菜飯は田楽の時より外に食うもんじゃない


 田楽と菜飯の組み合わせは古くからあり、

目川の立場には、菜飯と田樂とありと。今何處にても目川菜飯とよぶは、此所より起れりと聞きて、伊勢かの菜飯もとむるに、田樂の豆腐暖にものして味よろし。

『大田南畝集』有朋堂 1913年

廣小路に菜飯と田樂を食はせるすみ屋といふ酒落た家があるとか、駒形の御堂の前の綺麗な繩暖簾を下げた鮒屋は昔から名代なものだとか、食物の話も大分聞かされたが、

(夏目漱石『彼岸過迄』)

 ……田楽と菜飯はセットメニューであった。




[余談]

 そういえば子規は夏でもフランネルのシャツを着ていた。何処に書いていたか忘れたのだが確かにそうだった。何処に書いたっけ?



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