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岩波書店『定本漱石全集』注解を校正する95 夏目漱石『行人』をどう読むか⑦

一郎は何歳なのか

 夏目漱石作品ではどういう了見かわからぬ年齢が明示されて強調され、あるいはどういう了見か徹底的に伏せられるということがある。徹底的にというのは明かしてもいいところで敢えて明かさないというニュアンスを言っている。例えば『行人』では直の年齢が問われるも答えはない。

「姉さんはいくつでしたっけね」と自分はついに即かぬ事を聞き出した。
「これでもまだ若いのよ。あなたよりよっぽど下のつもりですわ」
 自分は始めから彼女の年と自分の年を比較する気はなかった。
「兄さんとこへ来てからもう何年になりますかね」と聞いた。
 嫂はただ澄まして「そうね」と云った。
「妾そんな事みんな忘れちまったわ。だいち自分の年さえ忘れるくらいですもの」
 嫂のこの恍け方かたはいかにも嫂らしく響いた。そうして自分にはかえって嬌態とも見えるこの不自然が、真面目な兄にはなはだしい不愉快を与えるのではなかろうかと考えた。
「姉さんは自分の年にさえ冷淡なんですね」
 自分はこんな皮肉を何となく云った。

(夏目漱石『行人』)

 これでは何歳なのかが分からない。仮に二郎が二十六歳なら二十五歳か二十四歳、十八で嫁に行ったお兼さんの五年後の今と同輩と云う感じはするが正確なところは分からない。当然芳江の年齢も解らない。一郎は二郎より五つ六つは年上のように感じられる。これも感じだけで確かな比較点は見つからない。誰かは忘れたが一郎を五十代に見積もっていた人がいた。流石にそれは老け過ぎだろうと思う。

 何故ならどうもお重が幼いからだ。

 自分は三沢へ端書を書いた後で、風呂から出立ての頬に髪剃をあてようと思っていた。お重を相手にぐずぐずいうのが面倒になったのを好い幸いに、「お重気の毒だが風呂場から熱い湯をうがい茶碗にいっぱい持って来てくれないか」と頼んだ。お重は嗽茶碗どころの騒ぎではないらしかった。それよりまだ十倍も厳粛な人生問題を考えているもののごとく澄まして膨れていた。自分はお重に構わず、手を鳴らして下女から必要な湯を貰った。それから机の上へ旅行用の鏡を立てて、象牙の柄のついた髪剃を並べて、熱湯で濡らした頬をわざと滑稽に膨らませた。
 自分が物新しそうにシェーヴィング・ブラッシを振り廻して、石鹸の泡で顔中を真白にしていると、先刻から傍に坐ってこの様子を見ていたお重は、ワッと云う悲劇的な声をふり上げて泣き出した。自分はお重の性質として、早晩ここに来るだろうと思って、暗にこの悲鳴を予期していたのである。そこでますます頬っぺたに空気をいっぱい入れて、白い石鹸をすうすうと髪剃の刃で心持よさそうに落し始めた。お重はそれを見て業腹だか何だかますます騒々しい声を立てた。しまいに「兄さん」と鋭どく自分を呼んだ。自分はお重を馬鹿にしていたには違ないが、この鋭い声には少し驚かされた。

(夏目漱石『行人』)

 どうもこのお重は幼く感じる。縁談があるとはいえ精々十八歳といったところか。二十歳を過ぎてこんなことで泣くとはとても思えない。(そもそも泣くようなことかとも思う。) 
  しかし仮にお重を十八歳、二郎を二十六歳と見た場合、一郎を三十代後半と見做すのは苦しい。仮に三人とも同じ母親の子だとしたら、上と下で精々十五歳程度の年齢差がまず常識的なところだろうと考えられるからだ。この感覚は漱石自身が母・千枝の四十一歳の時の子であることから全く無頓着というわけにもいくまい。
 むしろ一郎を三十代後半と見做してお重を「遅い子」と見做すよりは、一郎を別腹に見立てた方が自然ではなかろうか。

 俥で学校に行く一郎という設定を考えると、やはり二十代というわけにはいかないようにも思える。夏目漱石が人力車の贅沢を谷崎潤一郎に目撃されるのは、漱石の年齢が三十代後半に差し掛かったところである。谷崎はこれを贅沢ですましているが、仮に先輩や同輩からすればこれは「生意気」なことでもあろう。そういう意味では一郎もお重とはかなりの年齢差がある、とまずは考えてもいいのではなかろうか。

金ならないよ

 父は長い手紙を裾の方から巻き返しながら、「何か用かね、また金じゃないか。金ならないよ」と云って、封筒に上書を認したためた。
 自分はきわめて簡略に自分の決意を述べた上、「永々御厄介になりましたが……」というような形式の言葉をちょっと後へ付け加えた。父はただ「うんそうか」と答えた。やがて切手を状袋の角へ貼り付けて、「ちょっとそのベルを押してくれ」と自分に頼んだ。自分は「僕が出させましょう」と云って手紙を受け取った。父は「お前の下宿の番地を書いて、御母さんに渡しておきな」と注意した。それから床の幅についていろいろな説明をした。

(夏目漱石『行人』)

 こう言われるからには、二郎はさぞかし何度も親爺に小遣いをせびったのではないかとまずは考える。しかし実際、金がないのかもしれない。というのも長野家はまずかなり豊かそうなのだが、かなり豊かなのは母親のお蔭で、長井家と違い、長野家の父親は「事業で成功して財産家になった」とは書かれていないのである。

 自分が東京を立つ前に、母の持っていた、ある場末の地面が、新たに電車の布設される通り路に当るとかでその前側を幾坪か買い上げられると聞いたとき、自分は母に「じゃその金でこの夏みんなを連れて旅行なさい」と勧めて、「また二郎さんのお株が始まった」と笑われた事がある。母はかねてから、もし機会があったら京大阪を見たいと云っていたが、あるいはその金が手に入ったところへ、岡田からの勧誘があったため、こう大袈裟さな計画になったのではなかろうか。それにしても岡田がまた何でそんな勧誘をしたものだろう。

(夏目漱石『行人』)

 この母親の持っていた土地の売却益が長野家の全財産ということは無かろうが、まず母親が土地持ちであり、相続財産のようなものを持っていたというところまでは確かであろう。
 一方と父親の方は、

「これもお父さんの御蔭さ」と兄が答えた。その時兄の唇に薄い皮肉の影が動いたのを、母は気がつかなかった。
「全くお父さんの御蔭に違ないよ。岡田が今ああやってるのと同じ事さ」と母はだいぶ満足な体に見えた。
 憐れな母は父が今でも社会的に昔通りの勢力をもっているとばかり信じていた。兄は兄だけに、社会から退隠したと同様の今の父に、その半分の影響さえむずかしいと云う事を見破っていた。

(夏目漱石『行人』)

 ここで「昔通りの勢力」と呼ばれているものは、現役の社会人としての人脈や地位のことだろう。「社会から退隠したと同様の今の父」ということは老害と陰で言われていることにもお構いなしに組織にしがみつく業突く張りではないということだ。それでも圧倒的な財産があれば、仮にリタイアしていても、老人であっても社会的な影響力を維持できるはずだ。どうもこの父にはそうしたものがないのではないか。

 父は交際家だけあって、こういう妙な話をたくさん頭の中にしまっていた。そうして客でもあると、献酬の間によくそれを臨機応変に運用した。多年父の傍に寝起ねおきしている自分にもこの女景清の逸話は始めてであった。自分は思わず耳を傾けて父の顔を見た。
「ついこの間の事で、また実際あった事なんだから御話をするが、その発端はずっと古い。古いたって何も源平時代から説き出すんじゃないからそこは御安心だが、何しろ今から二十五六年前、ちょうど私の腰弁時代とでも云いましょうかね……」

(夏目漱石『行人』)

 この「腰弁」とは安月給取りのことだ。つまり二十五六年前、一郎や二郎が生まれた時点では父はまだ安月給取りだったということになる。それから二十数年のうちに次第に社会的な勢力を獲得するとして、そもそも最初から高い地位についていたわけではないことが分かる。つまり田口要作のような、「官吏から実業界へ這入って、今では四つか五つの会社に関係を有っている相当な位地の人」ではないということだ。

 父には人に見られない一種剽軽なところがあった。ある者は直な方だとも云い、ある者は気のおけない男だとも評した。
「親爺は全くあれで自分の地位を拵え上げたんだね。実際のところそれが世の中なんだろう。本式に学問をしたり真面目に考えを纏めたりしたって、社会ではちっとも重宝がらない。ただ軽蔑されるだけだ」
 兄はこんな愚痴とも厭味とも、また諷刺とも事実とも、片のつかない感慨を、蔭ながらかつて自分に洩らした事があった。

(夏目漱石『行人』)

 こうした一郎の批評の中でも父は一流のコミュニケーション能力を発揮し、現役時代はサラリーマンとして、あるいは組織人としてそれなりの成功を収めた人だ、ということが推測される。しかし起業して成功したとか、経営者になったとは書かれていない。

 そうなると「金ならないよ」とはさして冗談でもなんでもないことなのではなかろうか。

一郎はこの父親の子なのか

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