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芥川龍之介の『羅生門』をどう読むか③  老婆を裸にしたのは「必要悪」ではない

下人は老婆の着物を「必要悪」で盗んだのではない


 芥川の『羅生門』は青空文庫で古いパターンと新しいパターンを比較して読むことができる。古い方は「すじやくおほぢ」「すじやくおおぢ」といきなり間違えているので少し怪しいところがあるが、まあ結末の違いだけ見る分には問題はなかろう。

 下人は、既に、雨を冐して、京都の町へ強盗を働きに急いでゐた。

(芥川龍之介『羅生門』)

 これが古い版の結末であることから、下人は老婆の着物を引き剝ぎしたことを契機に強盗になったと見做される向きが多い。しかし結末は書き換えられたのであるから必ずしもそう決めつける訳にもいかない。

下人の行方は、誰も知らない。

(芥川龍之介『羅生門』)

 この結末からは「下人は多襄丸という有名な盗賊となった」とは読めない。誰も知らないのだから。有名にはなれない。
 そもそも下人は老婆の着物を盗んだのだろうか?

 下人は死体から髪の毛を抜く老婆を見て「あらゆる悪に対する反感が、一分毎に強さを増して来た」のであり「饑死にをするか盗人になるかと云う問題を、改めて持出したら、恐らく下人は、何の未練もなく、饑死を選んだ事であろう」という状態にあった。つまり二択としては「饑死」が選択されていた。

 しかし老婆の話を聞いて「下人は、饑死をするか盗人になるかに、迷わなかったばかりではない。その時のこの男の心もちから云えば、饑死などと云う事は、ほとんど、考える事さえ出来ないほど、意識の外に追い出されていた」となる。すると二択としては「盗人」が選択されているように見える。

 結局下人は「盗人」になったのかと思える。しかし老婆の理屈では「そのくらいな事を、されてもいい人間ばかり」で「大目に見てくれる」者を相手にしていて、その理屈を下人が老婆にやり返したのだから、その繰り返しが行われるとしたら、相手が善良な人間という訳にはいかない。悪人限定の強盗にでもなるしかない。

 その方向性で考えて京都の町に向かうのなら「なぜなら京都の町には悪人が大勢いるに違いないからである」という皮肉が見える。では「下人の行方は、誰も知らない」となるとどうなるか。下人は強盗としてはかなくも散ったのではなかろうか。

 三島由紀夫ではないが言葉に殺されるという奴である。やったことは褒められたことではないが、老婆を裸にしただけで犯さなかったのは立派だ。老婆を裸にする話が教科書に何度も採用されたことも立派だ。そこには食うために生きるのとは別のスタイルというものがある。かなうものならば老婆を裸にするような人生を全うしたいものだ。


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