不自然な現実、近代文学とは本当は何だったのか?
夏目漱石の『こころ』の「私」はKの生まれ変わりのように仄めかされており、Kは苗字ではなく、芥川龍之介の『羅生門』に描かれた太い下人はいつの間にか消え、太宰治の『右大臣実朝』は実朝の歌をほめそやしている訳ではなく、三島由紀夫の『金閣寺』は不自由な凡庸さを巡る物語だと書いてみたところで、ついに谷崎潤一郎の『誕生』や『象』には天皇制や日韓併合に対する批判があると書いてしまえば、私はこの百余年の近代文学史から完全に孤立することができる。つまりたった一人になれる。あるいはたった一人にされる。
これはおおよそ皮肉な言い分であって、私はそもそもそんなことを望んではいない。
例えば三島由紀夫の辞世の句がへたくそだと云ってみたところで、既に多くの人がそう述べている。これはもう確実にへたくそなのだが、何故へたくそなのかとつきつめた人はいないだけだ。
近代文学とは何であったのかと考えるとき、例えば政治的な問題に関しては無関心で、自身の文学を性的嗜好に染め、悪魔的な文学を構築したと言われる谷崎潤一郎の初期作品が優れて政治的であることを指摘しても、おそらく大方は「はあ、逆張りか」と呆れるだけであろう。では実際に谷崎潤一郎の作品がどれくらい叮嚀に読まれてきたのであろうか。明日私が指摘する事項が果たして周知の事実だったのか。もしかすると、私の指摘のあと、「え? そうだったの?」と動き出すものはないのか?
私には近代文学が私だけを待っていた空しい仮構に思える。何しろこの私以外に夏目漱石の『こころ』の「私」はKの生まれ変わりのように仄めかされており、Kは苗字ではなく、芥川龍之介の『羅生門』に描かれた太い下人はいつの間にか消え、太宰治の『右大臣実朝』は実朝の歌をほめそやしている訳ではなく、三島由紀夫の『金閣寺』は不自由な凡庸さを巡る物語だと見做した人は存在しないのである。しかしそのことは繰り返し念押しされうる。明日私はまた谷崎潤一郎の『刺青』と『麒麟』について、おそらくこれまで誰も指摘していないことを書いてしまう。
誰も指摘していないこととは大きく出たものだ。
まだ何の確信もないが、それでもこのことは間違いがない。
そんな不思議な文学史を私は生きている。
