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夏目先生の追憶  安倍能成

               一

 自分は夏目先生の弟子であらうか、先生の門人であらうか。世間からはさういふ風に考へられて居るらしい。現にさういふ風に考へて自分達の先生に對する關係を、昔の宗匠とその弟子との關係のやうに見、それを大正の今日にある可からざることだといきまいて論じた人もあつた。自分がそのやうな關係に於いて先生の弟子でなかつたことはいふまでもない。それに自分は第一に創作家たる先生の創作上の弟子でもなかつたし、又思想上の方面に於いて先生から特別に影響を分けた思想上の弟子だとも思はれない。自分の考方を無理に先生の考方と結合して團體的に見られることは、實をいへば自分に取つて迷惑であつた。しかし自分が樣々な點に於いて敬愛したる、殊に人格と教養との點に於いて敬愛を傾け得たる先達としての意味、しかも自分が十分親しみ、懷しみを感じ得られるまでの個人的關係を有した先輩の意味に於いては、先生は實に、自分が先生と呼び得る少數者中の最も代表的なる者であることは否定されない。

 始めて先生の名を知り、又よそながら先生の風貌に接したのは、先生が松山の中學校に來られ、自分がまだ小學校の生徒であつた二十三四年も前の頃である。其等の思出も記しておきたいとは思ふが、自分の今ここに書かうと思ふのは、先生に對する最近の追憶及びそれについての所感である。

 先生は實に懷しい、人の敬慕を引き得る人柄であつた。自分はその原因を考へて見た。先生が禮儀を重んじ後輩に傲られないといふこともその一であらう。又先生が淡懷で城府を設けられなかつたこともその一であらう。又先生が都會人として殆ど自然に近い洗煉せられた談話術を以て居られたこともその一であらう。併し其等の根本に存した更に重大なる原因は、先生の誠實にあると思ふ。先生の中にあつた誠實は他人の誠實と相觸れずには居なかつた。先生はかくの如くにしていつも本物の尊敬者であつた。誠實を以て先生に向ふ者は必ずそれに報ひられた。先生は社會的地位とか名聲とか或は矯飾とかによつてこの交通を妨げられることを少なくするだけの天眞を多く惠まれた人であつた。かくして先生は他人の中からその誠實なる意志と、その眞實なる所有とを感じ得られる頗る敏感なる嗅覺を有して居られた。その代に又虛僞と粉飾とに對する强度なる潔癖を有して居られた。

 先生に接した者、殊に先生と多少內面的なる交に入つた者には、多少なりとも皆先生に對してかくの如き經驗を有するであらうと思ふ。先生の眞實に對する傾倒は、羨しい位うぶな所があつたと思ふ。先生から多少にしてもかかる敬意を與へられた者は、衷心よりこれを光榮に感じ、-これ人間の感じ得る光榮の最も醇なるものである、――又先生の前に自分の虚僞を恥ぢて、求めずして他人の前に於けるよりも以上の誠實を先生に示すといふ結果になつた。先生の人としての最も價値ある點はここにあつた。實際先生に多少親しく接した者にとつて、先生位その學識とか地位とか年輩とかいふ外的若しくは附帶的事情に妨げられず、直に其人と語り得るといふ感じのする人は少ないであらう。

 率直にいへば自分も亦確に先生に對してかかる經驗を有した。自分は先生を衷心より敬夏日先主の追憶愛し、又先生からも多少敬愛せられた、――若し此詞が妥當を缺くならば、自分の有する多少の誠實が先生の敬愛を受け得たといふ方がよいかも知れない、-と少なくとも自分だけは感じたことがあつた。先生は一見して狷介らしいに拘らず、この一點に於いては殊に私のない、非個人的もしくは超個人的な要素を多く備へて居られた。自分は先生に接した人、殊に始めて先生に接した人の抱く先生に對する傾倒の念は、主としてこの邊の消息より來るのだと思ふ。

 我々の內で先生に對して無遠慮な批評を下したりする時にも、先生のこの根本の人格に對する敬愛をなくした者は恐らくなかつた。又我々に對して先生が甚しき酷評を加へられた時にも、先生は我等の誠實――もしあるならば――を踏附けにするといふ態度は一つも示されなかつた。この點に於いて我々の先生に對する敬愛は色々な點に於ける變化にも拘らず、維持せられた。

 けれども自分一個のことをいへば、自分は先生に對するこの敬愛の情を進めて、更に先生に對する傾倒を盡し、先生の中にはいれるだけはいるといふまでには固より至らなかつた。自分はこの意味に於いて先生の弟子の內のささやかなる者に過ぎない。その原因は容易に他人と融合し得ざる自分の性格の硬さ、又自分の感情の適當なる表現に拙なる、惡い意味に於ける粗野といふやうなこともその原因であつたらうと思はれる。兎に角自分は先生の前に十分に自由になり、-最も他人の前に居る時とは比較することの出來ない程自由であつたが-同時に先生にも自分に對して自由な態度を取つて頂くまでにはならなかつた。自分はそれの出來た他の友人を羨しく思つたこともあつたが、自分の到底かくなり得ざることも心得て居た。先生の許に集まつた人の中には、熾烈にして純粹な傾倒の心を貫いて、一度全く先生に包まれてしまひ、やがて自意識の生起と共に先生より離れ、しかも亦先生に歸らうとする間際に先生に死なれた人もあつた、卽ちいはば一旦先生からの墮罪を經た末更に先生への復歸を遂げんとして遂げ得ざりし遺憾を切に感ずる人もあつたけれども、自分の先生を失つた感じはそれとは違ふ。自分は先生の中へ入り得ざることを先生の生前より感じて居たけれども、今になつてはそれが自分の囘收し得ざる終生の遺憾となつてしまつた。

               
              二

 自分は先生に對する追懷の一を語りたい。それは先生のなくなられる一個月も前であつたらうか、その時の日記がないから日は分らない。木曜の夜先生の御宅へ行つた時に、先生は少し氣味のわるさうなナーヴァスな顏をして居られたのが、席に著くと直ぐ眼についた。その時座に大愚良寛の掛地がかかつて居た、良寛の話が前からあつたものらしい。座に居たA君が「先生良寛が腹を立てないといふのは、始からでせうか。修行を積んだ上でせうか」といふ意味のことをいつた。先生が「さうぢやない、自然にさうなつたのだ」(言葉通ではないが、こんな意味であつたと思ふ)といはれたのに對して、自分は「やつぱり度々怒つたりした末、修行を積んでさうなつたのでせう」と可成り强く、今から考へて見れば頗る無躾にいつた。先生は其に對して不快な顏をせられて、「そんなことはないよ、腹が立つ時には誰も腹が立つ。良寛だつて腹が立てば立つ。唯それに執しなかつた。その時ばかりであつたのだ」といふ意味のことをいはれ、且それが實行上の修行といふよりもインテレクテュアルな悟であるといふ意味のことをいはれた。自分は其に對して少しく抗辯したけれども、何だか先生の氣分の平かでないことが感ぜられたので、いつものやうにあくまでも主張することを止めた。その時先生は先年の旅行に京都の寺で先生の經驗せられた話をせられたけれども、話の內にも少しく興奮して居られたやうに見えた。

 その話も全く關係のないことでないから、序にいへば、先生が京都の或る寺へ車で見物に行かれた時、車屋が玄關へ横附にしたので、先生は直ぐ靴を脫いで上られた。そこへ納所坊主が出て來て「何だ、斷りもいはずに上つて來て」といふ樣な意味のことをいふと、直にそのまま引つ込んだ。それで先生は「さうか」といつて又車に乘られた。その時先生は坊主が一言してそのまま直に引込んだ態度を感心せられた。すると以前の坊主が窓の所から「上出來、上出來」と怒鳴つた。それで先生は「ああ、あいつ駄目だ」と思はれたといふのである。この話も現前に應酬して執著澁滯のない態度に關するものであることはいふまでもない。

 先生は更に又トルストイ、ドストエフスキーの藝術に私あることを難じ、オースティンは作家として前二者より小であつても、私のない點に於いて高貴なる藝術家であるといはれた。

 私はその夜先生の議論にはまだ不服が多かつた。これは今から考へて見れば、先生の所說を十分に解し得なかつた所からも來て居た。それと同時に自分が先生に對して如何なる態度を以て反對したかを反省したり、又先生の健康や氣分がどうであつたか、先生のその語が如何なる體驗と思索とを背景とせるものであるかを熟慮したりするよりも先づ、自分の方では、先生が自分の反對を不快に思はれたらしいその態度を不快に思つたのであつた。
そしてその不平を歸の途でも友達に洩したりした。それからつまり自分のかかる反對は先生に對する敬意と一向矛盾しないものであるといふことを手紙で先生に書かうと思つた。しかし筆無精な自分はその手紙を遂に書かなかつた。さうしてそれから二三週間經つて又漱石山房を訪うた。


               三

 それは十一月の十六日であつたらうと思ふ。最後の木曜會であつたことは確である。その日は先生は平常の通りに穩かになつて居られたので、此間抱いて居た自分の不平も、先生の溫容の前にはいつしか消えてしまつた。

 その時も、話は先生のモットーであつた則天去私といふことに移つて行つた。先生は其夜もトルストイやドストエフスキーの作者としての私を難ぜられた。序に自分は此點に關しても其時先生に同ずるわけには行かなかつた。そしてその當時新聞に出て居た『明暗』を讀んでは、トルストイやドストエフスキーよりも遙に先生の作に小さな私が多いと信じて居た。この印象が改められるか否かは『明暗』を今一度通讀して見なければ分らない。

 十時過に外の人々が歸つて、後に二三人ばかりが居殘つた時に、自分は、現在の社會はアリストクラシーが可成り樂易に肯定せられて、一人の贅澤なイゴイズムを遂げしめる爲に、他の多くが苦まなければならないやうな狀態が非常に多い、樂に暮して居る人、若しくはどうにか暮して居る人の樂みを更に增さうとするやうな事が非常な大事となつて居るが、そんなことには同情しなくともよい、それよりも生きるだけが六ケしい人間を生かしてやることが第一の急務ではあるまいかといふやうなこと――自分が其時いつた詞は恐らくこれよりも粗略であつたらう-をいつた末、然らば自分の生活をどうするか、自分のイゴイズムをどれだけ肯定するかといふ段になると又惑ひが起る、例へば自分は現在可成り自分の生活に追れて營々として居る者であるけれども、自分の生活には餘裕がないとはいへない。例へば可成り金持の友人が細君をもらつたとする、自分がその披露に招待せらるれば又その返報に祝の品を送る。かくの如きはどうしてもしなければならないことではない、しかし自分は一方にそれをしながら、他方には生きるだけのことが出來ない者を顧みずに居る、それかといつてそんな切實な必要ばかりを考へて居ると、人生は暗くつまらなくなつて來るといふやうなことを言つた。先生はそれに對して自分はそんなことは苦にしない、その時やりたければやる、その時やりたくなければやらないまでだ、それを執著して苦しんだりするのがいけないといふ風な意味のことを言はれた末、今自分の前に急に自分の娘が一ツ目小僧になつて顯れて來ても、驚かないやうな心境になりたいといふことを力說せられた。

                四

 先生の其時いはれたことはそれには盡きなかつたが、自分の心に强く印ぜられて居ることは、大方上の如きことであつた。自分はその後も時々その夜のことから前の晩の大愚良寛のことを考へる。この二つは固より一つの問題である。第一に先生のこの私を去つて天に則り、現前の事々物々に我執なく圓轉滑脫に應酬したいといふ要求は、先生にとつて極めて根の深い年久しいものであることを、自分は考へざるを得ない。それを示すのは先生が非常に自分のイゴイズムに苦まれた人であるといふ事實である。先生の作中には樣々な形でこのイゴイズムの問題が取扱はれて居るが。晩年の作品になる程次第次第にそれに深入して來られた跡が著しい。そしてその意味に於いて次第に先生の作品に宗教的色彩を添へて來たことも亦認められる。殊に『明暗』の前の『道草』は先生の作中他に類のない事實的な作品であるが、そのテーマとなつて居るものは、やつぱり人間のイゴイズムである。あの作の主人公はイゴイズムを否定したり肯定したりした末に、自己の問題はいつまでも自己に歸つて終る處を知らないといふ歎きを洩して居るが、この苦みこの歎きはやがて、イゴイズムより解脫を要求する前提であると見られる。自分は先生のなくなられて間もない頃『道草』を讀んで、上の如き感じを一層切にした。先生の私を去つて天に則らんとする要求は、單に藝術上の描寫の問題ばかりでなく、先生の實生活上の問題であつたことを自分は疑はない。

 第二に先生の從來の素質及び素養である。先生は基督教的な人格的の神を立する超神論ラ的な宗教には頗る緣遠い人であつた。先生の宗教は汎神論的であつた。私を去つて天に則るといふ境地はやつぱり先生の汎神論的悟得から來た救であつたらうと思ふ。先生が禪學に多少でも親しまれたり、又漢詩や文人畫等に高い境地を認められたことも、この心持を助けたり、又この心持に助けられたものであることを疑はない。先生は自分のイゴイズム、小我の差別的執著に苦まれて、無差別平等の世界を求められた。動の世界でなく靜の世界、二元の世界でなく一元の世界を求められた。しかしこの執著より無我へ、私より天へ、差別より平等へ、動より靜へ、二元より一元への跳躍は、如何にして可能であつたか。このことを自分は考へずには居られない。

 先生の「やりたければやる、やりたくなければやらない」といはれた境地は、たしかに繫縛を脫した自由の天地である。先生は固より完全にこの天地に入つたとは考へて居られなかつた。しかしこの天地に對する强き憧憬と、又これに達し得る賴もしき希望とを、特に臨終前に持つて居られたことは疑はない。しかし自分からしてこれを見れば、自分には先生のこの結論をおぼろに感じてそれに同じ得るとしても、先生のそれに赴かれる過程を共にし得ないといふ氣がどうしてもする。自分にはまだ中々この二元的矛盾をミツシリと身に受けて、更に之を凌いだ末でなければ、この境地は望まれないといふ氣がする。從つて自分は先生に比してこの二元的の矛盾相刻の境に一層の價値を認め、執著を有することが深いやうに思ふ。これは自分の素質や教養と先生の素質や〓養との差別に基づくものであると信じながらも、やつぱり自分が先生に對して物足らなさを感ぜざるを得ない點の一つである。

 自分は上の如き點から先生の解脫がインテレクテュアルであつて、プラクティカル-深い意味の――といふ點に於いて薄いといふ感じを掩ひ得ない。しかし固より自分は先生の超脫の要求がどの位先生の生活の血の出るやうな苦から來て居るかといふことを否定するのでない。而もこれを認めながらやつぱり上の遺憾を掩ひ得ぬことも亦事實である。更に先生がかかる解脫の道を取られたことが、先生の素養の外に先生の素質に基づけることを自分に思はせることは、先生が一方に於いて自己のイゴイズムを痛切に意識する人であつたと同時に、無意識的には頗る自由と洒脫との素質を惠まれた人であつたことである。先生はイゴイズムの陋室の中にむせぶと共に、又心機一轉して可成り戶外の開豁なる空氣を呼吸し得る人であつた。そして先生のこの素質が、先生の超脫の方向を規定するに與かつて力があつたことが考へられると同時に、先生にとつて、かかる道を取られることの自然なるは、我等の同感の容易に追隨し得ざる程度であつたらうとも思はれる。

 先生が一方に於いて非常に道德感の强烈な人であつたことは、先生の日常を知る人も、先生の作物を見る人も明かに感ずる所である。併し先生は二元的對峙の間に努力奮迅する意志的なプラクティカルの人といふよりは、事物をあるがままに見て、靜かにこれを觀照するといふ觀察的(betrachtend)或は藝術的、美的態度に於いて、より多くそのエレメントに居る人ではなかつたらうか。先生は恐らく「やりたい時にやり、やりたくない時にやらない」といふ境地にいつまでも達し得なかつたトルストイの苦悶に、あまり同感せられなかつたらうと思ふ。よし同感はあつたにしてもこれを貴いとは思はれなかつたらう。むしろ苦しい、いやな境地と思はれたであらう。この點に於いて先生の藝術と宗教とは、トルストイの藝術と宗教との如く相矛盾し相戰ふものではなくして、むしろ相一致するものであつた。先生の宗教はこの意味に於いて一種の藝術的宗教であつた。

 先生の物に對する考方が、先生位の年輩の人々に大抵然るが如く、實證主議的であつたことも、先生の色々な言說から伺はれる。先生は奪ふ可からざる道德感の所有者ではあつたけれども、道德其者に對する先生の解釋は、むしろ自然主義的であつたといつても大過なからうと思ふ。先生の事物に、對する見方は、どちらかといへば寧ろ常に相對的比較的なるものであつた。先生は形而上學的思辨の人でなかつた。自分は先生の解脫は、知識的にはこの相對的、實證的の境地を守らんとしてこれを守り得ず、更にこれを否定せんとする方向より開かれたものではなかつたかと思ふ。この否定と共に現前せんとするものは卽ち先生の所謂天でなかつたらうか。先生の思想上の實證主義的、自然主義的傾向は、先生の汎神論的解脫の道を平かにする點に於いて、先生の觀照的藝術的態度と相協同したのではあるまいか。

 而も亦先生を自然主義的境地より移して汎神論的境地に行かざるを得ざらしめた動力は、先生が主として自己のイゴイズムに堪へ得ざる道義的要求に存したといふことを觀過し難い。以上は先生の最後の談話より先生の晩年の思想に對する可能なる觀察點の二三を擧げたまでである。その細說は更に後日に讓りたい。



                        (大正六年五月)


[出典]  安倍能成選集 第3巻


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