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超意訳 饗庭篁村「馬琴の俳諧」


馬琴の俳諧




 昔の作者は必らず狂歌を詠み狂文を綴るものであったというのは、「戯」の字を作者の冠とした呼び名から仕方のないことであっただろうか。その先達の蜀山人(太田南畝)であることが原因になっているのであろうか。

 狂歌狂文の外に変わった趣向があったのは柳亭種彥の川柳と曲亭馬琴の俳諧である。馬琴は戯作の筆を執るまえに、たしかに俳諧師たらんとしてその道を學んでいた。

 馬琴の性質は多角で、あたかも金米糖の角の如く天下萬般の學文藝術皆一身に究めんとしていた痕跡は多いのだけれど、まず最初に取掛ったのは俳諧である。

 俳諧に関する馬琴の著書は「板本俳諧歲時記」の外「俳諧古文庫」、「俳諧罔兩談」、「老鳥庵評批言之辨」、「俳諧雜記」、「五色辨」等がある。 これらは馬琴の自著自筆で、私が持っているもののみ。このほかにも俳諧に関する著書は二三作はあるのではないかと思われる。

 そのうち「俳諧罔兩談」は馬琴兄弟(長兄、興旨)が俳諧の師である越谷吾山の說を多く聞き書して、それに自説を加えたものである。

 その一節に曰く、

 ① 私が(馬琴)七歲の頃だったであろうか、庭前に鶯の啼くを聞いていて、

うぐひすの初音に眠る座頭かな

 と詠んでみたところ、そばにいた人が、けなげにも詠むものだなあと言って、「座頭の眠るというのがそのまま俳諧になっている」などとひたすら褒められて、幼心にただ嬉しいなあと思ったものだ。

 馬琴が天才だということはすでに七歲にしてこの句を詠んだことからわかるであろう。

 また其次の一節に、こうある。

②私が丫、あげまきの髪型の頃、家の向いに業田さんという家があって雅風を好み、松双庵戶外という空摩坊が俳友であった。この人が特に私をかわいがってくれて発句を読むと直してくれたりして沢山教えてもらった。その後二十年近くお世話になったのが今では夢のようだ。

※「空摩坊」については不肖ながら、この後でてくる雪中庵の第三世、大島蓼太通稱は蓼太郞が「空摩」と號したことから何か話がややこしい。大島蓼太は服部嵐雪の系譜にある俳人である。


 この「俳諧罔兩談」のあとがきには「この本は私がまだ二十三歳の秋、かりそめにに著作してみた文章であり、誤りも多く、破いてしまおうと思っていたが、亡兄、羅文居士の自筆の序があるのでそうもできない。いつか時間が出来たらその誤りを補うことにしよう。寬政十一己未(1799)年八月、馬琴」とあり、二十三歲の著書である。

 七、八歲よりこのように隣のおじさんの手引があってあり、なおかつ兄、東岡舍羅文(興旨)、己克亭鷄忠(興春)の二人はさきに俳諧を好み、奇才の譽があったので、この感化によって馬琴は十歲前後には早くも点取り俳諧で評判も取っていた。

 この時代は安永から天明にかけて、雪中庵蓼太が一世を風靡していた。

 また東都檀林の再興梅翁派と称して素外、素丸などが人気があった。

※このあたりの情報は皆無である。

 こういう様子を目の当たりに見ていたら、この中に入って有名になることはたやすいであろうと野心がむらむら湧いていたことであろう。何故なら蓼太は評判はいいが學識が深くない。素外に至っては「葉桜」を春の部として同輩に馬鹿にされる人、二十前後の馬琴の高慢心から見れば笑うべき事、嘲けるべき事が多かったであろう。

 兄、羅文は温厚の人で、馬琴が才にまかせて実績を積まないのを歎いて諭して、師、吾山のもとへ連れて行って教えを受けさせた。馬琴このとき十九歲、吾山は博學多識の隱者であった。

 馬琴の傲慢さもこの年寄りには抑えられて、はじめて俳諧は好き勝手に気まま才能を見せびらかすものではなくて、口頭で何度も試してみるべきものであると知って、工夫は廻らしながらも時々馬鹿を嚇かすような難しい句を持ち出すので、吾山は邪路に入るのを戒め、兄羅文もその逸走する轡頰を取って引きかえらせることも多かった。。

 その苦心の様子をもう一例挙げると、

③吾山先生が「露」の句は古今すくなきものである。梅翁が「白露や無分別なる置所」と詠んだのは「露」の句であろう。練習のために「露」の句を一二句案じてみよ、とおっしゃられるので、私は二三句出してみた。
 先生は「言葉をあれこれつるさず、ただひだすらに露だけを詠んでみよ」と言われた。この時はじめて開眼したような気がして、

二つ三つひとつになるや露の玉   馬琴

 はじめ「わかれては」と詠んでみたところ、「ふたつみつ」と加筆いただいて、はじめて發句は「てをには」による事を知ったのだった。
 一一またある日先生に、発句の案じ方を問うてみた。
 先生のおっしゃるところによると、発句はうまい具合に話をするようにと心得たらよいだろうということだった。
 例えば話の上手いものは話しの落ちを知らない。知らないけれどもなお面白い。話の下手なものは、先に落ちを知っていてそこに話を落とし込もうとするから面白くない。
 題を探って句を案ずる同じことだ。

山里は萬歲おそし梅の花    はせを
名月や柳の枝を空ヘ吹く    嵐雪 
木母寺に歌の會あり今日の月  其角

 これら上手の咄なり、山里は萬歲おそしと、いってみて梅の花と落す。これは本当に面白ろい。
 梅の花は動貸してはいけない。私はこのことをこの時知った。
 又下手の話というのは、稟議書のようなものだ。

 南山にくらべものあり菊の酒

 これ「把菊東籬下悠然見南山」という陶淵明が詩からできたものだ。
 南山にくらべものありといえば今日の菊か菊の酒とは中学生でも知っていること。
 南山と云っているのは先に落ちを云っているようなものだ。
 私は先生に柳の句についてきいてみた。

 𥶡かけの上にしだるゝ柳かな

 先生は「これは下手のはなしだ。都で上にしたるゝとか風に匂ふなどとたった十七文字の間に話の落口を詠んでしまってはあとは柳か、梅か、と、わかりきったことだ。下手な相撲の毎度足を出して投られるようなものだ」と笑っておられる。
 このころの馬琴の発句はよく先生の雰囲気を得て、なだらかにイメージされていた。

 借馬牽乘てかへるや秋の風
 しら桃の雫落ちてや蟹の穴
 三日月の目も入る方や鯨舟

 これらいずれも咄嗟の作ではなくて、鍛煉工夫木賊磨きをなしたるものである。

 しかし馬琴の天才にとっては、この鍛煉工夫ということがまだらっこしくて、吾山先生が死んだあとは、さっそく本性を現して、「俗おびやかし」のスタイルとなる。

 吾山は馬琴の才を愛し、教えることは懇切であった。教える度に、俳諧は俗談平話だといって聞いたままの片言を並べるべきではなく、學問は最も肝要であると云っていた。俳才あれどインテリジェンスなしと云われる雪中庵蓼太ですら、門弟子を誠めて人の句を添削しているものだ。せめては「文選」の素読くらいはしておくべきだと教えたと聞いている。

 お前は記臆力に優れていて根性がある。これから俳諧を学べば六七年で当代の俳家の博識と言われるようになるだろう、とも吾山は言った。この時馬琴十九歲。吾山は兄の家に寄食するか、または行儀見習い奉公を勤めた。

 馬琴は住所を定めず、奔走してなんとか衣食し、吾山の言に深く感激してはいたけれど、学問に専念することはできず、古本屋の軒先に並べてある破本の史記、文選を素見読し、暇があるときは兄羅文より借りた俳書を懷から出して熟読した。

 (羅文が持っていた俳書目錄は馬琴翁自筆で記錄して、自分の為に当時秘密のメモ帳のように持っていたものである。それらの本の半分以上が私の家にあるけれど珍書とすべきものはわずかに二三部に止まる。版刻の書といっても羅文、鷄忠、馬琴、兄弟三人自筆にて写したものが多い。三人のいかに学問に熱心だったかと、また家計にとっても大助かりだということを知るべきであろう。但し是は俳書のみの話だ。)

 天明六(1786)年の春、羅文と馬琴兄弟で「夜話の歌仙二卷」に名前をつけて「花ふたつ」とし、一つは羅文が發句して

岩陰の花に蝶散る春日かな

 馬琴が脇に

霞がくれの多門二の丸

 とつけて、一つは馬琴が

花花て古巢へかへる人もかな

 と發句して

振れば火繩も夜の陽炎

 と羅文が脇につけた。そしてこれを師の吾山に採点してもらった。

 吾山はそのころ病気で床に臥せっていて、他の採点はすべて断っていたけれども、この兄弟のは特別だと云って、快よく病床に居直り、兄は稽古鍛鍊あり、弟は靑年なれど才思に富みたり、両方面白いと、笑いながら採点した。

 「この雨も十方暮に長引て」と詠んだ前句に「夏を寒がる紫陽の花」とあるのを、「夏を寒がる」はよくこなれていると、近くに控えていた調布庵鐵矣(後に五川と云う※この人の情報も外に無し。)を呼んで、再び吟じ返して聞かせたところ、その付句に

寵さめて昔を忍ぶ我が淚

 とあるのを見てため息をついて、これは必らず馬琴の付句であろう。前句を我物にして、うまくできているけれども拵え過ぎている、もう少し執着をはなれて滑脫のところに至らねば俳諧とは言えないだろう。小ざかしきかな、と云ながら次の付句

狆の嚏をふるふ袖の香

 を見てにんまりとし、俳諧はもともと天才によるものだとはいっても、成功の半分は工夫鍛鍊によるものだ。これは羅文の付け句に違いない。凄き恋を面白くも受たものだと言ったとか。

 この年吾山は死に、馬琴はまた四方に奔走して俳諧の師につかず、才にまかせて、「人を驚かすの句躰」となる。

咲滿ちて山一輪の櫻かな

梅咲てむべや藪にも香の物

 言葉のたくみならほどだいく賴まんともおもはざれば

かげろふや地にも霞のかんな屑

帆柱や青葉の裏の冬木立

時鳥聲かけわたせ錦川

種獨活の靑葉がくれや鳴雲雀

 このほか古事を取り古語を入れた難しい句は沢山あり、附合に至つては尤も甚だしく、全く小說の趣向となる。
 吾山が死んだ後に、維文、馬琴が採点を乞うたのは、雪中庵完來(大島完來)、老鶯巢宜麥(ろうおうそうぎばく)が多かった。つねに羅文は完來では勝ち、馬琴は宜麥では勝っていたけれども、それはそれぞれの風趣の好むところによる結果である。

 今馬琴の付句のうち二三を挙げれば、

其昔兵額焚きし筋兜   といふ狐遊の前句に

 古木の精も神にして置く

心の反古の中に入墨   といふ羅文の前句に

 たつか弓氣づよき袖をひき兼て

山住の富みし焚火とひで明り     狐遊

 狐遊萱が軒端にさぼす熊の膽

鸚鵡に習ふうない子の唄       狐遊

 人質を鬼もあはれと慰めて

 朱鞘にうつる貌のほろ醉      羅文

振放す袖に禿の秦舞陽 

 心して井戶の車も遷化泣      羅文

豆腐の舟もゑほのさしや

 うすくふて見する三尺の鯉     蘇山

幻術に誇る仙家の古狸     

 まぶしさす山のあなたの猿の聲   羅文

あの道問へと老女めさるゝ

 致仕の其日に切りし鬣       蘇山

葉柳の亂れたる世を散りかねて

 すヾしめの巫が皷も翁さび     蘇山

死靈はなれて元の戀病

 面に似合はぬ堂守の仁       狐遊

霖雨の穴に狐の子泣くらん

 雨乞のゑるしを見せる山かつら   蘇山

贅に身を賣る妹あぢきなし

 波除の施朶も芽を出す秋の雨    狐遊

雁おちかへる蚪斗の碑

 八重霞鋸山に引きわけて      鐵矣

里見の城の殘る礎

 ますら夫が自讃の弓勢日覺しき   羅文

波やり分くる伊豆の島山

 山庄屋が許へ行もどる人      詩舫

 わきまへぬ弟は手負の乳に泣く

 ……など皆寬政二(1970)年より十年までに詠んだものである。

 後九年にして「椿説弓張月」の前編が出で、十七年にして「南総里見八犬傳」の初集が出る。「伊豆の島山」、「里見の礎」など、思ひ合してみればその兆がみられるような付けあいもあるようだ。

※「椿説弓張月」の主人公為朝は実際には伊豆へ流された。

 この他「仙家(仙人のすみか、又は狐の精)とも知らで五慾の大凡夫」、「御無用と妻が顰めし西施乳(フグの異名)」、「車さへ歸さぬ轄(くさび)井に入れて」「子母錢(銭、または元金)に淮南王のまさなごと」など西施の顰を妻にとりなしたるはよけれど投轄(客を引き止めること)の故事豆腐の來歷あまり人嚇しにて興ざめである。しかしながらたまには「萬歲も古巢へ歸る鶴の袖」「山おろし鷹の橫面吹なぐり」など云すてたるようで面白いものもある。

 中にも、

母の讓のむかし帷子  といふ前句に

奉公の憂を厠ヘ泣に行く

 と付けたのを採点者が三点だけしかつけなかったのを恨んで、この採点者は人情が解らないと添書したものがあった。

 馬琴にはさぞや鬱憤があったことだろう。「時鳥耳なし山の婢ども」といふ前句に「淨衣に耻て云よらぬ戀」と付けたのを、完來が十点にしたのを愛て、この人はさすが雪中庵の後継者だとたたえたのも、エゴイストの例の負けん気の表れであろうか。

 そのうちに「俳諧歲時記」の稿を起して専ら俳學をなしたるが兄、羅文が「寬政十年に死に、ともに俳諧を語る樂しみもなく、又學問と共に識見も高くなり、當時の點者の幇間同然であることに慨歎し、身を其中に投ずるに堪ずとし、戯作を俳諧にかわる樂しみとした。

 寬政十一(1799)年、山東京伝の世話で小説家デビューして人気作品を書き続けるようになってからは、小說を專業とし、羅文居士三週忌の法會に俳諧十百韻を催した後は、俳諧に工夫を凝らすことはなかった。そういうことになると馬琴の俳諧は十九より三十二歲まで十三年間の修業にして、成功しないまま捨ててしまったものというべきであろうか。狐逆鐵矣羅文詩舫

 いや、この十三年間の修業は徒勞ではない。

 馬琴は八十二歲まで終身俳諧を續けて成功した。小說作ることが多くなってからは、特に俳句として一句と言いう形では詠まなかったけれども、その著述中、景致風趣を叙するごとに、徒勞だった十三年間の修業が効をあらはして、春の山夏の川、その時々に合せて、我が庭園を見るがごとく自由自在に綴ることができたのは、沢山の鳥獸草木の名前を知っていたからできたことではない。

 馬琴の俳諧は俳句に於ては成功しなかったけれど、小說に於て成功したのだというべきであろう。


[附記]

 饗庭篁村の「馬琴の俳諧」は『雀躍』の一部を意訳したもので正確なものではない。ほかに現れない名前もあり、資料として貴重なものではあるが、いかんせん現代人には読みにくい。「白痴嚇かしのむつかしい句」などの面白い表現もあり、原文そのものが魅力的であるのは間違いないが、芥川の『戯作三昧』を読み解くために最低限抑えたいポイントが説明できる程度に表現を調整した。


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