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『行人』を読む 5 三沢とは何をしていたのか?

 どうしても皆さんの関心が「塵労」に集中してしまい、「友達」を論じる人がみつからないので、この人の書いていることはここが間違っています、と書けないのが残念です。いや、意地悪がしたいわけではなく、争点を持って作品を考えるというやり方がわりと解りやすいんじゃないかということです。間違いが見つからないと、正しさには辿り着けないでしょう。

 それにしても一般の人もここには触れませんね。多くの人が「塵労」の一郎にだけ注目します。

 たった今、気が付いたのですが『こころ』のお尻の所だけ切り抜いたり、『彼岸過迄』の「須永の話」だけ切り抜いたり、『行人』の「塵労」だけ読むというのは、共通の問題で「読む気力」あるいは「興味力・関心力」のようなものが無くなってきているということなのではないでしょうか。

 一応読むのは読んだとして「塵労」までくると「友達」は忘れてしまうということであれば、脳の作業台から『行人』がはみ出している、収まり切れていないということになるのではないかと思います。覚えているけれど「どうでもいいとしか感じられない」のであれば、恐らく「読む気力」あるいは「興味力・関心力」のようなものが無くなってきているのです。

 漱石は「興味力・関心力」のようなものが持続しないと読んでも意味が解らないような書き方をしています。

 自分はこの居苦しくまた立苦しくなったように見える若い細君を、どうともして救わなければならなかった。それには是非共話頭を転ずる必要があった。自分はかねてからさほど重きを置いていなかった岡田のいわゆる「例の一件」をとうとう持ち出した。お兼さんはすぐ元の態度を回復した。けれども夫に責任の過半を譲るつもりか、けっして多くを語らなかった。自分もそう根掘り葉掘り聞きもしなかった。
        七
例の一件」が本式に岡田の口から持ち出されたのはその晩の事であった。自分は露に近い縁側を好んでそこに座を占めていた。岡田はそれまでお兼さんと向き合って座敷の中に坐っていたが、話が始まるや否や、すぐ立って縁側へ出て来た。
「どうも遠くじゃ話がし悪にくくっていけない」と云いながら、模様のついた座蒲団を自分の前に置いた。お兼さんだけは依然として元の席を動かなかった。(夏目漱石『行人』)

 この「例の一件」が「母の言いつけ」であり、二郎があまり重きを置いていない佐野の縁談であることは再読者には解りますが、初見ではここまでさっぱりわからない筈です。この後「写真」という言葉が出て来てようやく「ああ、縁談のことか」と気が付く仕掛けです。物語の仕組み上、次第に状況が明らかになるのは当然ながら、夏目漱石がそうした物語の仕組み上の原理原則以上に情報を小出しにして、解らないように、解らないように、逆に言えば、後になってようやく解るように書いていることは明らかです。

 これは『三四郎』では三四郎の下宿でもやりました。『それから』では新橋の停車場で代助が平岡夫婦を見送るところですかね。あそこで代助は三千代に一瞥もくれません。そんな筈もないんですがそのように書かれています。そのようなやり方で夏目漱石は三千代の存在そのものを隠ぺいしてしまいましたね。後から思えば、確かにその場に三千代はいたわけですし、無視するのは可笑しいのですが、漱石は完全に三千代を隠しています。

 この書き方は、読み手からすると、ずっと前に曖昧に書かれていたものを拾い集めて繋げていくような作業に堪えなくてはならないものになり、なかなか「興味力・関心力」の持続が大変です。さらに言えばこの「例の一件」はそもそも二郎の関心事ではないのです。それなのに読者は関心を持てというのは厳しい話で、読者はむしろ自然に、二郎は何がしたいのか、何をしようとしているのか、と考えてしまうわけです。そうすると二郎の無関心事というものは自然と隠されますね。ただ『行人』で隠されていることはむしろ『それから』で隠されていたことのような重要なことです。そのことを意識して読んでいくのは難しいけれどそうして読んで行かねばならないので、『行人』はなかなか読みごたえがある作品と言えます。

 そして冒頭からずっと二郎の関心事であり、小題でもある「友達」の三沢は一体何をしているのでしょうか。というよりこの『行人』における三沢の役割、位置づけはどんなものなのでしょうか。

 ずばり答えられる人はいますか?

 答えやすい質問に替えましょう。

 三沢と二郎は一体何をしていたんでしょう?

 これなら答えられるでしょう。

 そうです。三沢は入院していました。そこからの話の進展が妙な具合ではありませんか。山登りをするつもりが入院していてはかないません。何となくさえません。二郎はぐずぐずしていました。させられていました。

 その日も岡田の話はいつもの通りであった。けれども一番しまいに、「今から一週間内……と断定する訳には行かないが、とにかくもう少しすると、あなたをちょいと驚かせる事が出て来るかも知れませんよ」と妙な事を仄かした。自分は全く想像がつかないので、全体どんな話なんですかと二三度聞き返したが、岡田は笑いながら、「もう少しすれば解ります」というぎりなので、自分もとうとうその意味を聞かないで、三沢の室へ帰って来た。
「また例の男かい」と三沢が云った。
 自分は今の岡田の電話が気になって、すぐ大阪を立つ話を持ち出す心持になれなかった。すると思いがけない三沢の方から「君もう大阪は厭になったろう。僕のためにいて貰う必要はないから、どこかへ行くなら遠慮なく行ってくれ」と云い出した。彼はたとい病院を出る場合が来ても、むやみな山登りなどは当分慎まなければならないと覚ったと説明して聞かせた。
それじゃ僕の都合の好いようにしよう
 自分はこう答えてしばらく黙っていた。(夏目漱石『行人』)

 こう言いながらも二郎は友達一人を病院に残して去ることはできないのです。なんだかぐずぐずしています。このぐずぐず感というものは読者にも伝わります。このぐずぐず感が何のためのものか解らないから苛立つ人もいるようです。『坊っちゃん』や『三四郎』と比べれば、スピードがかなり遅いです。やがて関心事は「あの女」と美しい看護婦に移りますけど、大した進展はありません。「あの女」は死にかけていて、看護婦はまあ、看護婦ですから。

 ひとつ面白くもない話を三沢が始めます。精神に異常をきたした出戻り娘に三沢が惚れられるという逸話です。その娘さんは死にます。その娘さんの顔が「あの女」に似ているという話です。この時点では、どこにも引っかからない、なんとも反応しにくい話です。これで「友達」の章は終わります。

 正直捉えどころのない話です。

 佐野とお貞の縁談の件を簡単にすました割りには、後の時間が間延びして、勿体ない感じがします。旅行を楽しめていません。入院した友達の見舞いなんて旅行ですらないですしね。

 ではこの『行人』における三沢の役割、位置づけはどんなものなのでしょうか?

 はい。私の答えは「アンチ・トリックスター」です。あるいは「へたくそなトリックスター」です。見事に周囲を掻きまわす『三四郎』の佐々木与次郎と真逆な役割です。話を進ませません。これは適当に言っていることではありません。証拠は後で明かします。ただこの「アンチ・トリックスター」「へたくそなトリックスター」が後で効いてきます。実際ぐずぐずしているのは二郎ですけど、ぐずぐすさせたのは三沢だということを覚えておいてください。

 ここ試験に出ますよ。



[余談]

 いまさらmixiって。それとマイナポータルが狙われないのは、公報不足じゃないのかな。それとも利用者が少ないから?












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