小宮豊隆「『三四郞』の材料」
『三四郞』の材料
『三四郞』の材料となつたもので、私の知つてゐる限りの事を、思ひ出し思ひ出し、此所に書きとめて置きたいと思ふ。『三四郞』の初めに、三四郞が九州から上京の途中、名古屋で、知らない女と一諸に、一つ宿屋に泊る所がある。あれは松根東洋城の友人で、當時高等學校の生徒だつた男が、實際に遭遇した事件である。
當時はそんな事があり得るのかと思つてゐたが、然し廣い世間にはそれほど珍らしい事でもないらしく、現にこの五月號の『アララギ』の『村里小筆』の中に、結城衰草果が丁度同じやうな事を書いてゐる。
もつとも、哀草果の書いた女は、よほどモダーンで、いろいろ男を誘ふ手續を踏んでゐる。三四郞の會つた女は、善惡の彼岸に住んで、默默として、アンコンシアス·ヒポクリツト原始人らしく動いてゐる。是は、美禰子を通して、「無意識な僞著者」としての女を書かうとしアンコンシアス·ヒボクリツト料材のてゐた漱石が、この女の中にも同じやうな「無意識な僞善者」を發見して、特に美禰子の對照としようとした爲めに、この女をさういふ風に書いたものかとも思はれる。
宿屋の宿帳に、三四郞は「福岡縣京都郡眞崎村小川三四郞二十三年學生」並に「同縣同郡同村同姓花二十三年」と書いた。然るに福岡縣京都郡には、眞崎村といふのはないと言つて、當時九州から漱石の所へ、注意の投書をよこした讀者があつた。
然し漱石から言へば、さういふ村の名前が、福岡縣京都郡にあるかないかなどといふ事は、問題ではなかつたのである。三四郞は熊本の高等學校を卒業して、東京の大學に這入つた。その三四郞の郷里として、其所にはたつた一人、三四郞の母親が住んでゐて、生活程度が低くて、邊鄙で、讀者の腦裏に、何か九州の片田舍らしい感じが出さへすれば、それが田川郡であつても築上郡であつても、乃至は眞崎村であつても糸崎村であつても、漱石にとつて、どうでも可い事だつたのである。
ただ、當時私は、大學を卒業して、夏休みに郷里に歸り、其所から〓里の狀況を、幾度も漱石の所に報告した。私の郷里は、福岡縣京都郡犀川村である。漱石は、私が漱石に宛てて書いた手紙を、多く、三四郞の母が三四郞に宛てて、郷里の狀況を報告する手紙として用ひた。同時に三四郞が、その手紙を見て、故郷の事を思浮かべる、思ひ出の内容として用ひた。
それだから漱石のリアリズムの精神は、是が、田川郡でも築上郡でもなく、京都郡である必要があると感じ、その京都郡だけは保存する事にしたのだらうとも思ふ。
― 第二章の、三四郞の所へ初めて來た母の手紙の中には、鮎を送つてやりたいが、東京へ送ると途中で腐るから、送らない― と、書いてある。第四章の母の手紙には、新藏が蜂蜜をくれたから、それに燒酎を混ぜて、每晩盃に一杯づつ飮んでゐると、書いてある。それに關聯して三四郞は、新藏と自分の家との關係や、新藏が蜜蜂を飼ひ出したいきさつや、その新藏が自分の歸省する度に蜂蜜を持つて來て上げる上げると言ひながら、つひぞ今まで持つて來たためしがなかつた事などを思ひ出す。その母の手紙には、なほ、平太郞が親爺の石塔を建てたから見に來て呉れろと賴みに來て、貴方のところの若旦那は大學校へ這入つてゐる位だから、石の善惡は屹度分る筈だから、序に聞いてみて吳れと言つた、とも書いてある。第七章の母の手紙には、興津の高さんは、學問が出來るにも拘はらず、檢定が通らないので、未だに月給が上がらずにゐる、是は高さんが度胸がないので、試驗を受けに行くたびに、身體が顫へて、答案がかけないせゐである、この前の時には友達の醫學士に賴んで、顫への留まる丸藥を拵へて貰つて、試驗前に飮んで出たが、やつばり顫へて駄目だつたのださうだ、と書いてある。第九章の母の手紙は、野々宮さんに宛てたもので、それには、三十圓の金があると、四人の家族が半年食つて行かれると、書いてある。それに關聯して三四郞が、自分の家で、村の者が宮籠をする際に、村全體に金を十圓寄附すると、六十料材の戶から一人づつ出て來て、その六十人が、仕事を体んで、村の御宮へ集つて、その十圓で、朝から晩まで、酒を飮み續けに飮み、御馳走を食ひつづけに食ふといふ話を、野々宮さんとよし子とにして聞かせる。
― これらのものは凡て、明治四十一年の七月から八月までのうちに、私が私の郷里から漱石に宛てて書いた手紙を、ほとんどそのまま、種に使つたものである。ただそれを使ふに際して、漱石が如何に巧妙にモンタージュを試みてゐるかは、これだけの事實を知つた上で、それがどういふ場合に使はれ、且つそれが全體とどう關係させられてゐるかを、『三四郞』に就いてあたつて見る人には、容易く會得される事ではないかと思ふ。
ただ、三四郎の母から野々宮さんの所へ「赤い魚の粕漬」が屆く所が、第三章にあるが、是は野上臼川が漱石の所へ屢贈つてゐたもので、大分縣白杵か何所かの名產、ひめいちの粕漬である。
私の記憶にして誤がないならば、是は「粕共燒いて、いざ皿へ轉すと云ふ時に、粕を取らないと味が拔ける」と言つて、漱石に教へたのは、野上彌生であつた筈である。
「三尺位の花崗石の臺の上に、福神漬の罐程な複雜な器械が乘せて」あつて、その「罐の橫つ腹に開いてゐる二つの穴」が「蟒蛇の眼玉の樣に光つてゐる」といふ、光線の壓力を試驗する機械と、その試驗の方法とを、漱石に見せたり說明したりした者は、無論寺田寅彥である。「靑い空の靜まり返つた、上皮に、····刷毛先で搔き拂つた痕の樣に、筋違に長く浮いてゐる」白い薄雲が、みんな雪の粉で、下から見ると、ちつとも動いてゐないやうに見えるが、「あれで地上に起る颶風以上の速力で動いてゐるんですよ。」と教へるのも、亦寺田寅彥である。
―かういふ所へ來ると、寺田寅彥は野々宮さんになつて居り、夏目漱石は三四郞になつてゐる。
然るに第九章の精養軒の會合で、野々宮さんが光線の壓力をどうして試驗するかの、精しい手續を話すと、今度は夏目漱石は廣田先生になり、野々宮さんになり、「筋向うの博士」になり、「縞の羽織の批評家」になつて、物理學者と自然派·浪漫派の文學者との比較、特に物理學者とイブセンどの比較を試みるのである。
さういふ際には、三四郞は與次郞とともに、テーブルの片隅に小さくなつて坐つてゐる。
第三章で、三四郞が初めて大學の講義を聽いた時の印象が、簡單に描かれる。その中に或教授が演說口調で「砲聲一發浦賀の夢を破つて」と講義を始める所が書いてある。是は井上巽軒の講義で、たしか鈴木三重吉が直接か間接かに聽いて來て、漱石の所で報告したものである。我我の間では、一時「砲聲一發」といふ言葉が、井上異軒の代名詞のやうなものになつてゐた。
同じ第三章に、大學の講義に失望した三四郞が、圖書館に這入つて見る所が書いてある。どんな本を借り出して見ても、屹度誰かが讀んでゐるので、三四郞はびつくりする。そのうち三四郞の借り出した本の見返しに、鉛筆で亂暴に、何か一杯に書いてあるのが眼に著いた。「へーゲルの伯林大學に哲學を講じたる時、ヘーゲルに毫も哲學を賣るの意なし。彼の講義は眞を說くの講義にあらず、眞を體せる人の講義なり。舌の講義にあらず、心の講義なり。······」といふのが、それである。
然るに漱石は、明治四十年三月二十三日野上豊一郞に宛てて、「小生は頃日ヘーゲルが伯林大學で開講せし當時の情況を讀んで大に感心致し候。彼の眼中は眞理あるのみにて聽講者も亦眞理を目的にして參り候。月給をあてにしたり權門からよめを貰ふ樣な考で聽講せるものはなき樣子に候。」と書いてゐる。
この見返しの樂書は、誰か知らない學生の樂書ではない。漱石によつて創造された、漱石自身の樂書である。
第四章で、廣田先生は與次郞を連れて貸家搜しをする。途中で三四郞に出會ひ、三四郞の注意で、三人が「大きな石の門の立つてゐる」家を見に行く。この石の門の立つてゐる家を發見し、それを見に漱石を連れ出したのは、森田草平なのださうである。
さう言へば、明治四十年九月二十三日、漱石が森田草平に宛てた手紙には、今日千駄ヶ谷を探索して、君のいふ石の門の家を見ようとしたが、千駄ヶ谷も隨分廣い所だから、何所にあるのか到頭分からなかつた、それでもその「石門館」をもう一遍見たいから、明日其所へ案內してくれないかと、書いてある。廣田先生が越して行つた、西片町十番地へノ三號の家といふのは、漱石が、明治三十九年十二月二十七日に千駄木から越して行き、明治四十年九月二十九日早稻田へ移つた、西片町十番地ろノ七號の家が、モデルにとられてゐるやうである。
勿論この時、多くの弟子たちが手傅ひに集つたが、美禰子のやうな女性のお弟子は、一人も集まらなかつた。美禰子は漱石の、純然たる創造なのだから、集まりたくても集まれない譯である。
もつとも漱石は、美禰子を書く時に、一人の女性を、頭の中に持つてゐた。それは、森田草平の『煤烟』事件の相手方、卽ち『煤烟』の女主人公朋子である。
『三四郞』が書かれる時に、『煤烟』が發表されてゐなかつた事は言ふまでもない。然し『煤烟』の事件は、『三四郞』が書き出される四五ヶ月前に一段落を告げて居り、明治四十一年三月末から四月十日までの間、草平は漱石の所に厄介になつてゐたのだから、漱石は恐らく草平自身の口からも、又その事に關して斡旋してゐた生田長江の口からも、相當相手方の話を、精しく聽いてゐたものに違ひない。
『日記及斷片』の中の「明治四十年、四十一年頃」の部の「〇Newspaper backデwhisper」で始まつてゐる一群のスケッチは、多分その聞き書だらうと想像される。漱石は、さういふ話をきいて、まだその人に會つた事はないに拘はらず、自分の頭の中に、その人を、具體的に纏め上げてしまふのである。
さうしてその「姿」を賴りに、『三四郞』の美禰子を書いて行くのである。― 朋子といふのはああいふ女ではないかと思ひながら、僕は美禰子を書いて行つたと、漱石は後に私に話して聽かせた。
第七章では、美禰子の肖像畫をかくといふ原口さんが、一中節の稽古をしてゐると言つて、いろいろその話をする。是は、松根東洋城から出た種である。當時東洋城は一中節の稽古に凝つて向島のお師匠さんか何かの許へ通ひ、漱石の所に來ては、頻にその話をしてゐた。此所の原口さんの臺詞は、恐らく、東洋城の言つた事が、そつくりそのまま使はれてゐるのだと思ふ。
勿論原口さんの畫室に這入つた時の感じは、正に橋口五葉の畫室に這入つた時の感じと、そつくりそのままの感じである。東洋城とは何の關係もない。その原口さんの畫室で、原口さんが三四郞に、「僕の知つた男にね、細君が厭になつて離緣を請求したものがある。」と言つて話して聽かせる話は、事實は漱石自身の話である。
明治四十一年七月以降、『三四郞』執筆以前と推定される、漱石の『日記及斷片』の中に、漱石は「〇己ハ婿ニ行くから入夫をしろ」といふ言葉だけを、記錄してゐる。
第十二章で與次郞が、あんな女の爲に風邪なんか引いて熱を出したつて始まらない、日本ぢや今女の方が餘つてゐるんだから、などと言つて、三四郞を慰めようとする。その序に與次郞が、自分にも色色あるが、うるさいから、御用で長崎に出張すると言つて、女を放り出したといふ話をする。與次郞は醫科の學生だといふ觸れ込みで、その女に會つてゐたが、ある時その女から病氣だから診察してくれと賴まれて閉口した。然しその時はともかく、舌を見て、胸を叩いて、好い加減に胡魔化した。それが、長崎へ出張するから當分來ないといふと、女は林檎を持つてステーションまで送りに行くと言ひ出したので、尠なからず弱つたといふのである。
是もたしか鈴木三重吉の、直接か間接かの經驗で、三重吉自身漱石に話して聽かせた所のものである。それを漱石は『三四郞』で、思ひ餘つて病氣になつた三四郞の枕元で、與次郞に話させて、三四郞の心持に寛ろぎをつける方便とした。
― その外、もつと考へて見たら、まだまだ幾つでも、種は出て來さうな氣がする。特に松根東洋城、鈴木三重吉、森田草平、野上臼川など、當時特に繁繁と漱石の門に出入してゐた、外の弟子たちに聽いて見たら、もつと色んな事が出て來るに違ひない。然し今私がざつと思ひ出し得る所は、是だけである。
[出典]『漱石・寅彦・三重吉』小宮豊隆著、岩波書店、昭和十七年
[付記]
単独モデル説がつまらないというのと同じ意味で、エピソードがあちこちから借用され作品が出来上がるという種明かしよりも、結果として練り上げられた作品の、接着剤と云うかつなぎもさることながら、取捨選択、チョイスとリミックスの妙に改めて感心する。
こういう種明かしは人によって不要とも有用とも考えが分かれる所だろうが、ある程度作品を作品として読み込んで、それでも行き詰ったところで読み返してみると何かが拾えることもあるような気がする。勝手な深読みを押しとどめることにもなろうし、チョイスとリミックスにこそ意味や意図を汲むべきところが見つかるかもしれない。無論、種明かしに頼りすぎるのも毒だろう。
誰かが何の気なしに話したエピソードの中に「意味」を見つけるのは漱石自身だからである。素材そのものの味わいは刺身に感じるものだ。
