芥川龍之介の『奇怪な再会』をどう読むか⑰ そんなチョンボがあるわけはない
うーん。解らない。
結局誰と誰の再会なのかが解らない。
あるいはどれも厳密には再会とは云えない。
つまり再会していないのだ。
ということは?
この『奇怪な再会』は誰も再会しない話なのではなかろうか?
これまでそんな事を書いた人がいただろうか?
しかし芥川龍之介ならやりかねない。
芥川龍之介は相当な皮肉屋さんなのだ。
もうこの『奇怪な再会』について書き始めてから十七日目ということになる。大体一日五キロ歩いたとして八十五キロは歩いた計算になる。それだけ歩いてなお、『奇怪な再会』というタイトルのやかましさ、牧野滝という変な名前の意味がまだ解らない。
こんなことや、
こんなことも含めて、そして雷水解の間違った解釈、あるいは
お蓮があまりにも日本語に堪能なことも含めて、全部賺しなのではないだろうか?
当たり前のことだが、芥川龍之介は話に齟齬が出来ないように小説を書けないような小説家ではない。
田山花袋を見下ろしていた青年は、夏目漱石の見立ての通り文壇で大成功し、大正九年にははや作家としての円熟期にあった。翌年の冬には重い神経衰弱になる。その手前の作『奇怪な再会』は、どうも真面ではない。
つまり失敗作に見える。
もう少し器用に書こうとすれば幾らでも器用にできたものを、わざとパズルがずらされている。わざとだ。かりに一等主計がミスだとして、わざわざ選んだ雷水解の卦に間違った解釈を与えるチョンボはあるまい。
しかしその意図が解らない。八十五キロも歩いたのに。
「これは雷水解と云う卦でな、諸事思うようにはならぬとあります。――」
小林十之助は怯ず怯ず三枚の銭から、老人の顔へ視線を移した。
「まずその『奇怪な再会』の狙いにも、辿り着けそうにはありませんな。」
玄象道人はこう云いながら、また穴銭を一枚ずつ、薄赤い絹に包み始めた。
「では『奇怪な再会』には意図などありませんのでしょうか?」
小林十之助は声が震えるのを感じた。「やはりそうか」と云う気もちが、「そんな筈はない」と云う気もちと一しょに、思わず声へ出たのだった。
「意図があるかないか、それはちと判じ悪いが、――とにかく辿り着けぬものと御思いなさい。」
「どうしても辿り着けぬものでございましょうか?」
小林十之助に駄目を押された道人は、金襴の袋の口をしめると、脂ぎった頬のあたりに、ちらりと皮肉らしい表情が浮んだ。
「滄桑の変と云う事もある。この東京が森や林にでもなったら、辿り着けぬ事もありますまい。――とまず、卦にはな、卦にはちゃんと出ています。」
いや、雷水解なら解決する筈だろう。
もう春なのに。
いやまてよ。
確かにそうだ。「二月にはいって間もない頃」「薬師の縁日が立っている」「それから一日か二日すると」……これは、この書き方はパズルを組む時の書き方だ。さりげなく確実に意味を拵えている。
事件の起きたのは二月に入ってまもなく、薬師の縁日は毎月八日、その二三日後として二月十一日……。
つまり、旧暦の正月、中国で言うところの春節、当時の日本で言えば紀元節、今で言うところの建国記念日じゃないか!
そんなたまたまもチョンボもないだろう。
しかしそんなことに八十五キロも歩いて気が付かないとは、私はなんという馬鹿者なのだろう。何が失敗作だ。それはとんでもない言いがかりだ。ただ読めていないだけじゃないか。
仕方がない。今日も歩こう。
