見出し画像

芥川龍之介の『十円札』をどう読むか① 皆さん、お金は足りていますか?

 ある曇った初夏の朝、堀川保吉は悄然とプラットフォオムの石段を登って行った。と云っても格別大したことではない。彼はただズボンのポケットの底に六十何銭しか金のないことを不愉快に思っていたのである。
 当時の堀川保吉はいつも金に困っていた。英吉利語を教える報酬は僅かに月額六十円である。片手間に書いている小説は「中央公論」に載った時さえ、九十銭以上になったことはない。もっとも一月五円の間代に一食五十銭の食料の払いはそれだけでも確かに間に合って行った。のみならず彼の洒落るよりもむしろ己惚れるのを愛していたことは、――少くともその経済的意味を重んじていたことは事実である。しかし本を読まなければならぬ。埃及の煙草も吸わなければならぬ。音楽会の椅子にも坐らなければならぬ。友だちの顔も見なければならぬ。友だち以外の女人の顔も、――とにかく一週に一度ずつは必ず東京へ行かなければならぬ。こう云う生活欲に駆られていた彼は勿論原稿料の前借をしたり、父母兄弟に世話を焼かせたりした。それでもまだ金の足りない時には赤い色硝子の軒燈を出した、人出入の少い土蔵造りの家へ大きい画集などを預けることにした。が、前借の見込みも絶え、父母兄弟とも喧嘩をした今は、――いや、今はそれどころではない。この紀元節に新調した十八円五十銭のシルク・ハットさえとうにもう彼の手を離れている。………

(芥川龍之介『十円札』)

皆さんお金は足りていますか?

 

 小説は人ぞれぞれ経験や立場の違いから異なる読み方がされるものだ、というようなことは、これまであまり書いてきませんでした。
 ところで皆さん、お金は足りていますか?
 貧乏ですか?
 生活が苦しいですか?
 それともお金が余っていますか?
 お金が欲しいですか?
 お金以上に価値を見出せるものがありますか?
 何のために生きています?
 私は今、昨日書いたように、自分自身に関しては「熱烈に意志しないものは罪人よりも卑しい」として日々、生きています。
 しかしどうも人はお金が必要なようです。相続財産でもない限り高等遊民にはなれそうもありません。この『十円札』もお金がない話から始まります。何とも情けない話です。何が情けないか。

 本を読まなければならぬ。埃及の煙草も吸わなければならぬ。音楽会の椅子にも坐らなければならぬ。友だちの顔も見なければならぬ。友だち以外の女人の顔も、――とにかく一週に一度ずつは必ず東京へ行かなければならぬ。

(芥川龍之介『十円札』)

 この生活欲がみっともないわけです。金がないなら本は別にして煙草や女は止めればいい。吸わなければならぬなんてことはないわけです。そこはそれ、稲垣足穂は赤貧生活でした。それ自体はみっともないことではないわけです。生活欲がみっともないわけです。金がないなら丸亀製麺で釜揚げうどんを食べればいいのに、鰻屋の前で涎を垂らしていたらみっともないですよね。
 この『十円札』はその「お金のなさ」、みっともないところから話が始まります。これはまさに身辺雑記的私小説のようです。ここはさすがにその人の経済状況によって受け止め方が変わってくるだろうと思います。身につまされる人、哀れに思う人、色々でしょう。

 保吉は人のこみ合ったプラットフォオムを歩きながら、光沢の美しいシルク・ハットをありありと目の前に髣髴した。シルク・ハットは円筒の胴に土蔵の窓明りを仄めかせている。そのまた胴は窓の外そとに咲いた泰山木の花を映している。……しかしふと指に触れたズボンの底の六十何銭かはたちまちその夢を打ち壊こわした。今日はまだやっと十何日かである。二十八日の月給日に堀川教官殿と書いた西洋封筒を受け取るのにはかれこれ二週間も待たなければならぬ。が、彼の楽しみにしていた東京へ出かける日曜日はもうあしたに迫っている。彼はあしたは長谷や大友と晩飯を共にするつもりだった。こちらにないスコットの油画具やカンヴァスも仕入れるつもりだった。フロイライン・メルレンドルフの演奏会へも顔を出すつもりだった。けれども六十何銭かの前には東京行きそれ自身さえあきらめなければならぬ。
「明日よ、ではさようなら」である。

(芥川龍之介『十円札』)

 ここでさすがに収支の勘定が出来ないのがみっともないと大方の人が同意してくれるでしょう。さすがに職業柄本は仕方がないなというところからずいぶん贅沢な話になりました。これで身辺雑記的私小説だったらもう芥川龍之介なんて読まなくていいです。

 しかし、やってくれます。

 保吉は憂鬱を紛らせるために巻煙草を一本啣えようとした。が、手をやったポケットの中には生憎一本も残っていない。彼はいよいよ悪意のある運命の微笑を感じながら、待合室の外に足を止めた物売りの前へ歩み寄った。緑いろの鳥打帽をかぶった、薄い痘痕のある物売りはいつもただつまらなそうに、頸へ吊った箱の中の新聞だのキャラメルだのを眺めている。これは一介の商人ではない。我々の生命を阻害する否定的精神の象徴である。保吉はこの物売りの態度に、今日も――と言うよりもむしろ今日はじっとしてはいられぬ苛立たしさを感じた。
「朝日をくれ給え。」
「朝日?」
 物売りは不相変らず目を伏せたまま、非難するように問い返した。
「新聞ですか? 煙草ですか?」
 保吉は眉間の震えるのを感じた。
ビイル!
 物売りはさすがに驚いたように保吉の顔へ目を注そそいだ。
「朝日ビイルはありません。」
 保吉は溜飲を下げながら、物売りを後に歩き出した。しかしそこへ買いに来た朝日は、――朝日などはもう吸わずとも好いい。忌いましい物売りを一蹴したのはハヴァナを吸ったのよりも愉快である。彼はズボンのポケットの底の六十何銭かも忘れたまま、プラットフォオムの先へ歩いて行った。ちょうどワグラムの一戦に大勝を博したナポレオンのように。……

(芥川龍之介『十円札』)

 はい、これが天邪鬼・芥川龍之介です。「新聞ですか? 煙草ですか?」と訊かれて「ビイル!」ですからさすがです。今なら「朝日奈央」ですかね。もう古いですか。芥川は小銭拾いじゃないんです。自販機の釣銭受け取り口を抜かりなく観察しながら散歩しているお爺さんじゃないんです。

人物と事業 石尾信太郎 編大日本家業学会 1903年


日本の伊予人 武知勇記 著一大帝国社 1919年

 東京の恵比寿、麒麟に対して、大阪の吹田市で醸造するアサヒビールは関西では人気でしたが、もともとは東京ではさほど売られていなかったものです。それが1914年から1918年にかけての第一次世界大戦時に販路を世界に伸ばし、イラクにては日本國なるものを知るよりもアシァイ·ビールを知るという始末。1918年は大正七年です。いわば朝日ビールは戦争ビールなわけです。それでも恐らく大正十三年当時、東京でのシェアはそれほどなかったのではないかと思われます。その朝日を持ってくるのは芥川の頓智ですね。これで見事に「お金がない話」ではなくなっています。

 お金なんて「ないない」と言っていたらどこからか湧いてくるものでもないでしょうし、いくらあってもある分より使えばなくなりますし、なくなったらなくなったでどうにかなるものです。それに一億円しか持っていない人は人は二億円欲しがりますよね。十億円なんて豪邸建てたらなくなります。一体いくらあれば満足ですか?

 金はあの世には持っていけません。

 この話は「ワグラムの一戦に大勝を博したナポレオン」が味噌ですよね。ナポレオンも『歯車』では敗者として現れます。そのことが解らない人は自販機の釣銭受け取り口を抜かりなく観察しながら散歩しているお爺さんになりますよ。

 きっと。




いいなと思ったら応援しよう!