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『三四郎』の謎について44  鼻緒の色は何故違うのか?

 徹底的に調べ尽くすというような読み方に堪える作家は限られるというような話を昨日書きましたが、これは案外重要なことだと改めて思うんです。要するに「引っかかる」所を作って、明示的でないところを読んで貰うというのが漱石の作法で、「ふり」と「おち」が比較的ふんだんににあるというのも漱石作品の特徴です。これが村上春樹作品になると少し様子が変わって、調べ尽くすこと自体にはあまり意味はないんですね。

 例えば「ヤクルト・スワローズ詩集」なんてオールド・ファンにしてみればすぐ糸井重彦と共著、いや競著?の『夢で会いましょう』を思い出してしまうわけですが、別に比較しなくてもそれはそれで面白い、比較しても「おっ」と声が出るほどの落ちは見つからないのです。「チャーリー・パーカー・プレイズ・ボサノヴァ」にしても村上春樹さんの映画批評家としてのデビュー作、つまり蓮實重彦と同期である証の『問題はひとつ。コミュニケーションがないんだ』を読んでいなくてもそれなりに楽しむことが出来ます。チャーリー・パーカーは夢の中で「僕」に、自分は三十四歳で死んだ。三十四歳で死ぬってことがどういうことか解るかいと問いますが、この三十四という数字が緩い意味で別の作品と結びつきます。緩いです。

 ある意味村上春樹作品あるいは村上サーガというものはその緩さをポエジーとして楽しめばいいと思うんですね。リトルピープルの正体とは何か、なんて調べ上げなくても。調べても大したものは出てきませんし、それは結局「悪い小人たち」(イビルエルブス)みたいに変容していくわけです。

 しかし漱石の場合ロジックですね。ロジックの組み合わせなんです。勿論これまで見てきたように本当に訳の分からない、何とも解釈しようのない謎というものはあって、しかし解けば解ける謎もあるわけです。徹底的に調べ尽くすというような読み方は漱石作品に関してはある程度意味があることだと思うんですね。

 例えばよし子が見舞いに持って来た蜜柑は温州蜜柑か紀州蜜柑かなんてこともちらっと調べて見ても良いかもしれません。明治の蜜柑の糖度がどのくらいかとか。調べても何もでてこなかったですけどね。でも、その調べている時間の間に、

「蜜柑をむいてあげましょうか」
 女は青い葉の間から、果物を取り出した。渇いた人は、香にほとばしる甘い露を、したたかに飲んだ
「おいしいでしょう。美禰子さんのお見舞よ」
「もうたくさん」
 女は袂から白いハンケチを出して手をふいた。(夏目漱石『三四郎』)

 あれ、よし子は三四郎に蜜柑を吸わせていないか、と気が付く訳です。私なんか白いけばごと丸呑みしますが、昔の人ほど蜜柑を吸いますよね。

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 あれ、よし子は三四郎に指をしゃぶらせたんじゃないかと思ってみると、またこの場面の味わいというのが変わってくるわけです。これはほんの一例ですが、夏目漱石作品はそれだけ時間をかけてじっくり読むのに耐えられるという話です。

 そして本題です。

 鼻緒の色は何故違うのか?

 これ考えたことありますか?

 実に不思議です。

 皆さん青空文庫で『三四郎』のHTMLファイルを開いてコントロール+Fで検索窓開けて貰っていいですか。

 そうしたら窓に「鼻緒」って打ってください。3個ヒットしますね。はい、

 ふと目を上げると、左手の丘の上に女が二人立っている。女のすぐ下が池で、向こう側が高い崖の木立で、その後がはでな赤煉瓦のゴシック風の建築である。そうして落ちかかった日が、すべての向こうから横に光をとおしてくる。女はこの夕日に向いて立っていた。三四郎のしゃがんでいる低い陰から見ると丘の上はたいへん明るい。女の一人はまぼしいとみえて、団扇を額のところにかざしている。顔はよくわからない。けれども着物の色、帯の色はあざやかにわかった。白い足袋の色も目についた。鼻緒の色はとにかく草履をはいていることもわかった。もう一人はまっしろである。これは団扇もなにも持っていない。(夏目漱石『三四郎』)

 この着物の色は田舎者の三四郎にも一見して贅沢なものと解ったらしく、たちまち美禰子は第三の世界、シャンパンの泡立つ金持ちの世界に区分されてしまいます。この時美禰子が履いていたのは草履です。問題は次です。漱石がロジックを仕掛けます。

 三四郎は風呂敷包みを解いて、中にあるものを、二人の間に広げた。
「柿を買って来ました」
 広田先生は書斎へ行って、ナイフを取って来る。三四郎は台所から包丁を持って来た。三人で柿を食いだした。食いながら、先生と知らぬ男はしきりに地方の中学の話を始めた。生活難の事、紛擾の事、一つ所に長くとまっていられぬ事、学科以外に柔術の教師をした事、ある教師は、下駄の台を買って、鼻緒は古いのを、すげかえて、用いられるだけ用いるぐらいにしている事、今度辞職した以上は、容易に口が見つかりそうもない事、やむをえず、それまで妻を国元へ預けた事――なかなか尽きそうもない。(夏目漱石『三四郎』)

 このロジックにはなかなか気が付きませんよね。しかし一旦気が付いてみるとあれッと思うはずです。このロジック、決して緩くはないです。

 玄関には美禰子の下駄がそろえてあった。鼻緒の二本が右左で色が違う。それでよく覚えている。今仕事中だが、よければ上がれと言う小女の取次ぎについて、画室へはいった。(夏目漱石『三四郎』)

 これは一体どうしたことでしょう。「鼻緒の二本が右左で色が違う。」これは果してお洒落なんですか、倹約なんですか?

 理屈の上ではどうも美禰子はお金持ちです。中学教師とは違います。しかし「鼻緒の二本が右左で色が違う。」とは……。

 漱石は明らかに「下駄の台を買って、鼻緒は古いのを、すげかえて、用いられるだけ用いるぐらいにしている事」を貧乏の事例として挙げています。これはわざとです。ということはどうでしょう。

①美禰子は実は金に余裕があるわけではなく、それでも三四郎には三十円を渡した。

②美禰子は金持ちだが案外倹約家で、それでも三四郎には三十円を渡した。

 このいずれかということになりませんか。

 どうやら金のあるなしの問題ではなく、三四郎が美禰子にとって特別な存在だったからこそ三十円を渡したのであって、そのことに三四郎は気が付いていなかったわけです。

 すると俄然、三四郎お前何やってるんだ、よし子の指をしゃぶっている場合じゃないぞ、という気持ちになりませんか。

 前回わざと美禰子を悪い女のように書きましたけど、ヘリオトロープは美禰子の未練だったとしたら、どうですか。もう、三四郎の馬鹿、馬鹿、と思いませんか。ま、こういうのが青春なんでしょうが、金字塔の人は解っていたのかな?


[余談]

44か、とおもつちゃいました。

まだ44かと。

後幾つ書こうかな。





















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