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谷崎潤一郎のどこが近代文学なのか⑬ ちりめんじゃこから始めよう

 話は違ふが、人間は何かしら自分の好愛する物を拵へなければ承知しないんだと見えるね。どんなに自分の身の周りが貧弱であり、どんなに空疎な境遇にゐても、矢張何かしらその中に好きな物が出来てくる。眼に觸れるものに一つとして美に値する對象がなくなつてしまつても、それでも無理にでも見附け出す。見附け出さずには生きてゐられない。それは孤獨であればあるほど、淋しければ淋しいほど、猶さうなる。(谷崎潤一郎『アエ゛・マリア』)

 このえこひいきのロジックはドミナの本質的な非在を言い当てている。谷崎が沼正三のように実在のドミナを認めることなどないのだ。幇間と奴隷と老いぼれ犬によって捏造されるドミナと、そのようにしてドミナを捏造せねばならぬ孤独と淋しさを谷崎は裏返しで述べていると見てよいだろう。

 こんばんは。小林十之助です。夏目漱石論を書いています。いや今は谷崎について書いています。

 この谷崎潤一郎の『アエ゛・マリア』はこれまでの谷崎の信用できなさの集大成のような作品で、華麗な描写があり、漱石批判があり、三島ばりの観念の空中戦があり、そしてドミナ捏造説がより明確に言語化された作品でもある。『誕生』以来国母を恨むような作品をいくつも書いてきた谷崎が改めて『アエ゛・マリア』でドミナ捏造説を強調したことは、本来近代文学1.0レベルの世界でもきちんと議論されているべき事柄なのに、案外無視されているのは何故なのだろうか。

 確かにドミナ捏造説は本物のマゾヒストの「言ってはならないこと」だ。SMの女王様が、「あれ、八百屋さんのおかみさんだよね」と指摘されるのは致命的なことなのだ。それはルールとして許されない。解ってても言わない。それがマゾヒストなのだ。つまり谷崎潤一郎は、スーパーストロングマシン一号に対して、「お前平田だろう」と言ってしまっているのだ。藤波辰爾なのだ。

 気持ちは分からないでもない。

 銃剣の代わりに其形したる木製の棒を與へられてはたまらない。しかし妄想は無意味ではない。現実とはなんなのかといえば、

大袈裟に云ふと、全體宇宙といふものが、此の世の中の凡ての現象が、みんなフィルムのやうなもので、刹那々々に變化はして行くが、過去は何處かに巻き収められて殘つてゐるんぢゃないだらうか? だから此處にゐる己たちは直に跡方もなく消えてしまふ影に過ぎないが、本物の方はちゃんと宇宙のフィルムの中に生きてゐるんぢゃないだらうか? 己たちの見る夢だとか空想だとかいふものも、つまりそれらの過去のフィルムが頭の中へ光を投げるので、決して単なる幻ではないのだ。(谷崎潤一郎『肉塊』)

 こんな風に考えることも出来る。これは最新の映画技術に触れた谷崎の素直な考えなのだろう。

 ただこんな谷崎潤一郎の『肉塊』は現代では殆ど誰にも読まれないし、話題にもされない作品なのだ。それがハイポーという言葉を調べていて明らかになった。

 こうなるともう近代文学の終焉どころの話ではなくなる。解る解らないとか、誤読深読みの話でも無くなる。PVゼロという虚無空間の話になる。あの谷崎の作品ですら真面に読まれた形跡がないとなると、いくら近代文学2.0をやっていますと云っても、説得力が無くなる。

 それにしても谷崎潤一郎が読まれていないということになると、その他大勢は一体どうなるのだろう。

 確かに、谷崎にもその責任の一端はある。谷崎作品にはどうにもつまらないものがある。マンネリ感のあるものもある。どこをどう楽しめばよいのか分からないものもある。

 また谷崎にはわざと古い言葉を使う癖があり、そのことで現代人にはなじみにくい面があるのかもしれない。

 しかしずるずるスランプに陥ることはない。確かに近代的自我とか知識人の苦悩が出てこないので、近代文学1.0の人にとっては谷崎潤一郎作品を受け止めづらいのかもしれないが、その分しっかり明治政府批判はある。小気味いいロジックや絶妙な言葉のチョイスがある。

「石川淳さんは天皇制打倒で、どうして終戦後ひと思いに天皇を処刑しなかったかと云っている。石川達三のほうは天皇退位論なんだ。天皇に戦争責任があるから退位しろと云う。」 

 こうストレートに書いてしまうと文学にはならない。秘めて明かす、その作法、あるいは形式こそ文学なのではなかろうか。

「さう云へば此の頃、過激思想の取締りと云ふことが、大分政治家や學者の間でやかましいやうに存じますが、あれに就いて先生のお考へは?」
「う、…………う」(谷崎潤一郎『蘿洞先生』)

 こうして作法故、プロの作家でさえ谷崎作品がまるで読めないという恥ずかしい事態になった。

 こうして谷崎に関して何かを書くということは、少なくともただ眺めただけではなく、興味を持って読んだ、味わった筈ではあるのだが、驚くべきことに全然読めていない。それは誰であれ単純な他者と見做し

 あまりにも調べないからではないか。

 まずはちりめんじゃこから調べてみよう。近代文学2.0はそこからしか始まらない。







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