芥川龍之介の『続野人生計事』をどう読むか?
以前、この記事で、
寧ろ擬人化された生き物は自らの言葉で貶められる。方向性が真逆だ。毛虫が薔薇の枝にいるだけで一体何が「模倣」されているのかがさっぱりわからない。
として、Jules Renardの『HISTOIRES NATURELLES』の模倣を否定した。これは、
桜 さつぱりした雨上りです。尤も花の萼は赤いなりについてゐますが。
椎 わたしもそろそろ芽をほごしませう。このちよいと鼠がかつた芽をね。
竹 わたしは未だに黄疸ですよ。……
芭蕉 おつと、この緑のランプの火屋を風に吹き折られる所だつた。
梅 何だか寒気がすると思つたら、もう毛虫がたかつてゐるんだよ。
八手 痒いなあ、この茶色の産毛のあるうちは。
百日紅 何、まだ早うござんさあね。わたしなどは御覧の通り枯枝ばかりさ。
霧島躑躅 常――常談云つちやいけない。わたしなどはあまり忙しいものだから、今年だけはつい何時にもない薄紫に咲いてしまつた。
覇王樹 どうでも勝手にするが好いや。おれの知つたことぢやなし。
石榴 ちよいと枝一面に蚤のたかつたやうでせう。
苔 起きないこと?
石 うんもう少し。
楓 「若楓茶色になるも一盛り」――ほんたうにひと盛りですね。もう今は世間並みに唯水水しい鶸色です。おや、障子に灯がともりました。
この「新緑の庭」のヴァリエーションではないだろうか。そこにJules Renardの『HISTOIRES NATURELLES』の影響が全然ないとはいわないが。
この『続野人生計事』は放屁の話から始まるエッセイとも小噺とも判別のつかないものだ。
「つまり馬に乗つた時と同じなのさ。」
「カントの論文に崇られたんだね。」
後ろからさつさと通りぬける制服制帽の大学生が二人。ちよいと聞いた他人の会話と云ふものは気違ひの会話に似てゐるなあ。この辺そろそろ上り坂。もうあの家の椿などは落ちて茶色に変つてゐる。尤もつとも崖側の竹藪は不相変らず黄ばんだままなのだが……おつと向うから馬が来たぞ。馬の目玉は大きいなあ。竹藪も椿も己の顔もみんな目玉の中に映つてゐる。馬のあとからはモンシロ蝶。
「生ミタテ玉子アリマス。」
アア、サウデスカ? ワタシハ玉子ハ入イリマセン。――春の日のさした往来をぶらぶら一人歩いてゐる。
保吉ものにも通じるふわふわしたものがここにも表れている。それは確かに、
アンドレエフに百姓が鼻糞をほじる描写がある。フランスに婆さんが小便をする描写がある。しかし屁をする描写のある小説にはまだ一度も出あつたことはない。
屁のエッセイかのように始まった話なのだ。それは本当は屁のエッセイではなく、Essai sur les、……に関する試論、つまり人生に関する試論なのではなかったのだろうか。
