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川上未映子の『すべて真夜中の恋人たち』をどう読むか⑯ 年金はまだもらえない

 最後はどうなったのか、ということは書こうか書くまいか迷ったが、十二年も前の作品だし、落ちありきの作品でもないので書いてしまうことにする。

 まだ読んでいない人はこの先は読まないで。

 二年前の誕生日の真夜中に、三束さんは来なかった。
 待ち合わせをした喫茶店のまえでわたしは明けがたまで三束さんを待ったけれど、三束さんは来なかった。なかなか明るくならない、紺色の冬の朝のなかを駅まで歩きながら、わたしはなぜだかとてもしずかな気持ちだった。

(川上未映子『すべて真夜中の恋人たち』講談社、2011年)

 三束さんは一つの選択をした。

 結果として、つまり三束と冬子がセックスをしないことによって、入江冬子は二十年間、いや今後三十年も四十年も、つまり死ぬまでセックスをしないだろうと推察される。

 三束さんが高校の物理の先生というのは嘘で、食品工場をリストラされた無職のおっさんだった。

 つまらない嘘をつくものだ。

 男と言うのはプライドの生き物である。少しでも自分を大きく高く見せたい。それなりの地位にいた人は、介護施設でリハビリのお遊戯が出来ない。川上未映子は敢えてそこを陰画で捉えてはいまいか。

 無職の五十八歳はその二年後にはもう還暦になる。仮に2011年に60歳であるとして、その生年は1951年、つまり昭和二十六年生まれだとすると年金の支給開始年齢は65歳。年金も貰えない無職の還暦ということになる。

https://www.mhlw.go.jp/shingi/2007/04/dl/s0426-7f-07.pdf

 どうもオリーブのところでおかしいと思っていた。いやその前に「光」を研究する学問分野が数学というところからおかしいと思っていた。

 冬子は三束が来なかった理由、去った理由を穿鑿しない。

 職業を偽っていた。嘘に嘘を重ねていた。それだけで十分ということなのか。「五十八歳無職です」とは流石に言えないでしょうと察したのか。

 しかしむしろ問題はもっと別のところにあったような気がしないでもない。告白されると逃げたくなるとか。

 でもけっきょく傷つくのがこわいのか何なのか知らないけど、安全なところからはでないでおいて相手に気持ちを汲んでもらって、それで小学生みたいなセンチメンタルにどっぷりひたって自分の欲望を美化して気持ちよくなってるのがはたからみていて、すごくいやなんだよね。

(川上未映子『すべて真夜中の恋人たち』講談社、2011年)

 よくよく考えてみれば高校の物理の教師が新宿のカルチャーセンターにいるというのも妙な話だ。仕事を失い、家族もいない五十八歳が買い物以外で世界と接するために選んだのがカルチャーセンターだったのではないか。

 冬子も似たようなものではなかったか。

 社会性を喪失した孤独な暇人が知識よりも軽い、緩い、その場限りの出会いを求めて集うのがカルチャーセンターなのではないか。そうでなければ「いりません」「ペイペイで」「どうも」以外の言葉を口にすることのない生活を続けていれば、誰でもいいから誰かと話をしたいと思うようになるのではないか。

 料理教室に通ってモテようとする男子がいたんですよとクールポコに揶揄われても構わない。どうせ本気で付き合おうとまでは考えていないのだから。茶飲み友達くらいできたらいいかなと、仕事を失い、家族もいない五十八歳が考えていたのはその程度のことではなかったか。

 やる気満々の男なら、当時もう出会い系のサイトが選べたはずだ。

 そもそも二人はすれ違うべくしてすれ違ったのではないか。三束は冬子に住所を教えていない。なじみの喫茶店を一件捨てればいつでも逃げることはできたのだ。

 石川聖は妊娠していて、一人で育てる覚悟でいた。なんだかハッピーのようだ。冬子はノートに「すべて真夜中の恋人たち」と書く。目的もない、何のためでもない言葉だ。

 この言葉は入江冬子の物語を総括しない。どこにも辿り着かないし、何にも接しない。入江冬子の現実がある世界とは全く異なるところにある、ただ詞だ。ただ、

つらからぬ-ひとをもひとは-わするめり-うきはなにゆゑ-ととこほるらむ

 その向う側には還暦を迎えて一人ぼっちの嘘つきがいる。

 彼の孤独は誰も救えない。

 ただ三十代の冬子と言うまぶしいような存在と恋人であれたという幻想だけを頼りに、あと何十年かを生きることになる。

 キスして片乳をもむのは早いほどいい。


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