石原千秋の『反転する漱石』をどう読むか48 むちゃくちゃしよるな
久々に栗本慎一郎という名前を見た気がする。
今村仁司、栗本慎一郎、浅田彰などによる、あの80年代の独特な経済人類学的なものって、今ではすっかり見なくなりましたが(個人的にそう見えているだけかもしれません)、あのあたりに今の自分の関心事がありそうな気が、今更してきました。
— 小林卓也@ソトのガクエン (@dehors_org) November 22, 2024
栗本氏によれば、交換の原型は一方的贈与だが、贈与は本来、物を与える事を目的としておらず、受け手を「圧倒」しさえすればよいとされている。そこで受け手は「圧倒」されるだけでは社会的安定を喪失するので、そうしないために返礼をぜひ必要とする。その返礼が一般的支払い手段(例えば貨幣がそれである)として確立しない物品によってなされた場合が交換なのである。
栗本慎一郎という人は(かなり面白いには面白いが)行くところまで行ってしまった人である。私自身は「パンサル」から読んでいる。しかし最後の方はついて行けていない。
だからその人の言っていることが全部間違いだったという理屈にはならないが、これが人類史の正確な記録とはとても思えない。どの地域のどの民族も歴史的にそうだったと言っているのか、それとも現在でも贈与はこういう形で始まると言っているのかよくわからない。栗本自身の論もフィールドワークの結果なのか懐手の推論なのか、翻訳なのか折衷なのか、何なのかよくわからないものだ。終いには哲学と言い始めた。そうなると経済人類学って何なのという話になる。
しかし石原君の懐手の文学と社会学を折衷したようなやり方には経済人類学はよくマッチするかもしれない。
ただし石原のこのロジックの応用の仕方が少し不味い。
島田夫婦の幼い健三への〈贈与〉は、明らかに相手を「圧倒」することを意識している。
もし栗本慎一郎のロジックが普遍的なものであると見做して明治の日本の家庭内に贈与の原理を持ち込むのならば、全ての夫婦の幼い養子への〈贈与〉は、明らかに相手を「圧倒」することを意識している、とでも書いて島田夫婦の独自性を消さねばならないだろう。そうでなければ栗本慎一郎の書いたのは『島田夫妻の幻想としての経済』という本でなくてはならないことになる。
つまり石原は栗本慎一郎の『幻想としての経済』を上手く利用して島田夫妻のふるまいを説明しようと企んだにもかかわらず、その企みによってかえって『幻想としての経済』における贈与の考え方の歪さを無意識に言い当ててしまったことになる。
しかもその事実に気が付いていない。
大抵の子供は親に何かして貰っても返すものがない。従ってほとんど使われることもない「肩たたき券」などをプレゼントするしかないのだが、これは「社会的安定を喪失する」からでもなんでもなく、たいていの場合は単なる「好意」から来るものであろう。
彼は「他を訪問する時に殆ど土産を持参した例のない」男であり、
これは良いところに目を付けた。
健三が行うのは彼らに金銭を与えることだけである。
ここは良い指摘だ。というよりむしろ「土産」に気が付いたことが素晴らしい。
実は村上春樹さんの『1Q84』でも川奈天吾が同僚の講師に代講を頼んで休暇を取ってお土産を買って帰らないという問題がある。これは単に村上春樹さんにサラリーマン経験がなく常識がないだけの話かもしれないが、実はそれ以外にも青豆雅美などに常識がなく、人間関係のバランスがおかしいところがあり、「土産」というのは本当に大切なものではないかと考えたことがある。
しかしやはりそうした〈贈与〉をしない人はいるわけである。別に相手に喜んでもらいたいとも圧倒したいとも、あるいは何が善で何が悪とも考えない人は存在するわけである。

友人から借金することに、健三は何のためらいも示さない(七十四)。
これもまた面白い指摘である。
「金を貸してくれないかね」
彼は藪から棒に質問を掛けた。金などを有っていない友達は驚ろいた顔をして彼を見た。彼は火鉢に手を翳かざしながら友達の前に逐一事情を話した。
「どうだろう」
三年間支那のある学堂で教鞭を取っていた頃に蓄えた友達の金は、みんな電鉄か何かの株に変形していた。
「じゃ清水に頼んで見てくれないか」
友達の妹婿に当る清水は、下町のかなり繁華な場所で、病院を開いていた。
「さあどうかなあ。あいつもその位な金はあるだろうが、動かせるようになっているかしら。まあ訊いて見てやろう」
友達の好意は幸い徒労にならずに済んだ。健三の借り受けた四百円の金が、細君の父の手に入ったのは、それから四、五日経って後の事であった。
ここは確かになかなかおかしいところで、「友達の妹婿に当る清水」がまた健三自身の友達でないとしたら、かなり無茶な借金の申し込みなのではないか。それでも金が借りられたのはよほど信用があるからだとして、普通は「友達の妹婿に当る清水」から金を借りようなどとは思わないものだ。
これは健三の金銭への関わり方の特性を示していると考えられる。
金銭だけの問題でもないように思う。
健三は金銭の〈交換〉に対しては共同性を持たないのである。
ここは「共同性」の意味が解らない。
アンフェアという意味なのか?
すなわち、本来〈交換〉の一手段であるべき金銭の贈与が、健三においては〈交換〉としての意味が剝奪され、自己完結した行為として意味付けされている。
そういう意味になるかな?
それに「すなわち、本来〈交換〉の一手段であるべき金銭の贈与」って「交換の原型は一方的贈与だが」という前言と矛盾していないかな。そもそも贈与は交換ではないという話だったよね。逆に言えば健三のやり方、お金はやるし、借金も平気でするという人との関わり方は自己完結した行為ではなくて、健三が置かれた環境下における健三のおかしな振る舞いであって、そこに意味づけなんてものはまだされていないんじゃないかな。
健三は金銭を与えることで最小限の関係を保ちつつ(接近)、金銭贈与から〈交換〉の意味を脱落させることで、他者との関係を〈拒否〉しているのである。
ここで言われている「金銭贈与」って友達の妹婿からの借金のことだよね。つまり他者との関係を〈拒否〉って借金を返さないつもりであるという意味なのかな?
さすがにそれはないのでは?
せっかく面白いところに目をつけながら、ロジックがガタガタだよね。
もう少し丁寧にやろうよ。
[余談]
カブアンド
チャットが人間

これじゃ無理だよ。
