平野啓一郎の『金閣寺』論について
三島由紀夫と『金閣寺』
平野啓一郎の「100分de名著」──三島由紀夫『金閣寺』を読んだ。その作品に関する分析と解説は精緻、今後の作品読解の原点(源典)ともなりうべき完成度であり、一つの到達点と言って良いだろう。
しかし三島由紀夫全集に収載されていない掌編小説『恋文』を読んでいない人が存在するのが明らかなように、平野啓一郎にも読んでいない本があり、そのことから三島由紀夫の死に作品を引き寄せる場合にはやはりちょっとした綻びができてしまっているように見える。
三島由紀夫の死について語るのならば、極論を言えば、決行当日、何故村田英雄に電話を架けたのか、何故中古のコロナで楯の会の隊員たちと『唐獅子牡丹』を謳ったのか、というところまできちんと説明しなくてはならないと私は考えている。何故村田英雄と高倉健なのか。私はそこに正確な結論を持たない。(※末尾に追記あり)
それでもそこに敢えて文学的レトリックを見れば「鶴田浩二ではないこと」という書かれていない意味が幻出する。これは病である。この三人、村田英雄と高倉健、鶴田浩二は『日本侠客伝』、『人生劇場 飛車角』などで共演した東映の任侠映画のスターである。無論トップは鶴田浩二である。三島由紀夫は『英霊の声』を書きながら、何故か磯部浅一、いそべ あさいち、1905年(明治38年)4月1日 - 1937年(昭和12年)8月19日、の憑依を演じる。あからさまに演じ、多くの人にその記憶を残す。今でもユーチューブで美輪明宏の件の証言を見ることが出来るだろう。『日本暗殺秘録』(にほんあんさつひろく1969年)で磯部浅一を演じるのが鶴田浩二だ。
鶴田 昭和維新ですね、今は。
三島 うん。昭和維新。いざというときは、オレはやるよ。
鶴田 三島さん、そのときは電話一本かけてくださいよ。軍刀もって、ぼくもかけつけるから。
三島 ワッハツハッハッ、きみはやっぱり、オレの思ったとおりの男だったな。
鶴田浩二とは対談でこんな約束していた。無論バルコニーから怒鳴られて腹を切る自衛官がいないのと同じ理屈で、鶴田浩二も当日に電話を受けても何もできなかっただろうが、ここにはやはり「鶴田浩二ではなかった」という「ない」事実があるのだ。
これを「考えすぎだ」という人にはおそらく三島由紀夫が読めていない。三島由紀夫は考えすぎるほど考える人で、自分の作品より自分の行動の方が理解されないことに自信を持っていた。ちなみに『金閣寺』では、主人公が菓子パンを買う。
いずれ菓子パンは、私の犯罪を人々が無理にも理解しようと試みるとき、恰好な手がかりを提供するだろう。人々は言うだろう。
「あいつは腹が減っていたのだ。何と人間的なことだろう!」
神風連の取材の際には肉食を断ち、身を清めてから現地に入ったのに対して、決起の前日三島らは鳥鍋をつついている。そして決行の日の朝、村田英雄に紅白歌合戦出場のお祝いの電話をかける。そこまではいいとして公演のため不在と知ると宿泊先の宿を尋ね、その宿にも電話、そして不在の為伝言を依頼してなんとしても記録に残そうとしている。ちなみにその年村田英雄が紅白歌合戦出場するのは初めてではない。十回目の出場で歌は『闘魂』。これが三島由紀夫の菓子パンと最中でなくてなんであろうか。
三島由紀夫は『金閣寺』において最中と一緒に菓子パンを買うことで、菓子パンがあんぱんでないことをそれとなく仄めかし、ではなんなのかというところをわざと曖昧にしている。三島由紀夫という作家はそういうことをしてくる人なのだ。考えて考えて観念が空中戦でどこかへ飛んでいく人なのだ。
しかし「100分de名著」──三島由紀夫『金閣寺』に村田英雄の件が書かれていないことに文句を言うのではない。「100分de名著」──三島由紀夫『金閣寺』の問題点としては、
① 蓮田善明と保田輿重郎の影響を戦前に留めること
② 四十代になって急に右傾化したとみること
③ 死のきっかけに『鏡子の家』の失敗をみること
…であろうか。
私と酒鬼薔薇君の意見が一致している筈のところから指摘すれば、有為子の役割についての解釈も少しずれがあるように思う。『絶歌』には有為子が書かれなかった。大きな嘘で小さな嘘を隠すという三島由紀夫のレトリックに、酒鬼薔薇君は気が付いていたのだ。さすがは昭和天皇と三島由紀夫と同じ身長(163センチ)なだけのことはある。酒鬼薔薇君は『金閣寺』を自分自身の物語、バイブルだと書いている。そうであればやはり一連の事件の前に起きたあの事件が全てのきっかけだったのだろう。
突然の呼び捨て
おそらく平野啓一郎も、三島由紀夫の死の一週間前の対談のテープは聞いただろう。そしてそのまま三島の言葉を受け取り、蓮田善明と保田輿重郎との関係は『文藝文化』を通したもので限定的なもの、戦前の関係とみなしたものと思われるが、三島由紀夫がそんなに単純な訳はない。
三島由紀夫は頭の良い嘘つきなのだ。その対談では不意に鴨長明※1を持ち出して、蓮田善明の『鴨長明』を今でも強く記憶に留めていることをばらしてしまう。無論書簡や記録を見ても、蓮田善明と保田輿重郎の影響はむしろ死の直前まで続いていたことは明らかである。その生き方、そして死に方は三島由紀夫に最後まで無視できるものにはならなかった。
三島は戦後も人に会うと保田先生の思想は立派だと言っており、小高根二郎の『蓮田善明とその死』(筑摩書房、1970年3月)の序文を書いた。またこの本を読んで号泣している。
しかし何故か最後の対談ではもじゃもじゃ(清水文雄)には先生をつけ、蓮田善明と保田輿重郎は呼び捨てにしている。このレトリックに平野啓一郎は気が付かなかった。蓮田善明でも保田輿重郎でもない行動を示さねばならないと決意したからだ、と私は考えている。そうでなければわざわざここで二人を持ち出し、呼び捨てにする意味はない。
右傾化の意味
このことが一番わかりにくいが、三島由紀夫の右傾化は『憂国』と同時掲載される予定であった『風流夢譚』が起こした筆禍事件のほとぼりが冷めた翌年二月二十四日に始まる。それは仮装パーティのために着られた軍服として世間に示される。これはまさに仮装、仮面である。この後、この仮装は楯の会の制服へと連なり、作品としては『英霊の声』『奔馬』でピークに達する。
平野啓一郎は三島由紀夫の作品の中で『金閣寺』と『仮面の告白』に三島由紀夫自身の本当の声が現れていると見做すが、これはさすがに慧眼である。三島自身は「どれか一冊をもって三島とは何ぞやと問われれば『憂国』とする」というようなことを言っているが、これもまた三島由紀夫のレトリックである。
最後の対談でも三島由紀夫はウルトラナショナリスト呼ばわりされた。「あなたの行動が再軍備徴兵制に利用されないか」という質問に対して、三島は「そんなことには絶対になりません。今に見ていてください」と今にも仮面を外そうとしている。
ナチス主義者の父が三島の葬式で「あんたがあんなもの(サイボーグ009のような楯の会の制服)を作ったからこんなことになった」と西武百貨店の堤清二に文句を言ったのも無理はない。三島は学習院時代のぼせ上って演説する右翼学生に対して「あの白痴ども」と言っており、死の直前にも「右翼どもに目にもの見せてやる」と息巻いていた。普通はそういう人を右翼とは言わない。愛国者と言う呼び方も嫌っていた。忠義でいいという。しかし三島由紀夫の忠義は幻の南朝に捧げられており、昭和天皇に対しては「あんな年寄りのために腹は切れない」と言っているので、いくら天皇陛下万歳と叫んでもその忠義(ロイヤルティ)は天皇個人ではなくイン・パーソナルな「天皇」に向けられたものなのだ。その点で英国のロイヤルファミリーを真似た人間としての天皇までを歓迎する右翼とは全く立場を異にする。
さらに言えば、縦の会の隊員たちを含め、三島由紀夫の天皇観、思想は誰とも共有されなかった。永井均の比類なき〈私〉のようなもので、三島由紀夫の行動・思想は比類ない。比類ないが、ここまで書いたことは本当だ。三島由紀夫の思想は『奔馬』のままではない。それによく読めばあれは思想を疑われかねないところをごまかすための焼けバチの死だ。『憂国』のままでもない。それでは富士の見える場所に銅像を建てよという遺言と平仄が合わない。
『鏡子の家』の失敗
平野啓一郎が指摘するように三十代後半から死にかけて、三島由紀夫の人生は災難続きであった。中でも『鏡子の家』の失敗は痛かった。何もないところから戦後を描こうとして、ぼんやりしたものが出来上がり、大変不評だった。だがよく言われるようにここから完全に下り坂、という意見には三島由紀夫自身が反対する。
石原慎太郎や野坂昭如らが酷評し「スカスカ、読んで涙が出た」とまで言われた『豊饒の海』に関しても、三島自身はかなりの期待を持っていて、ドナルド・キーンに英訳を頼んでいる。その手紙を見る限り、かなり自信ありげなのだ。私自身も『豊饒の海』を傑作だと考えており、『春の雪』で見せた皇后謁見の場面の筆致など「太宰とは違うのだよ、太宰とは」と言わんばかりに筆が乗っている感じがあるのである。私も読み直す度、「これだよ、これ、これが三島だよ」と思う。この三島由紀夫の華麗さがなければ、日本文学はいかに痩せたものになってしまっていただろうかとぞっとする。
そして死の半年前のインタビュー『告白』を確認すれば、『鏡子の家』の失敗がダメージの蓄積の一部ではあったにせよ、死のきっかけとまでは言えないものであるということが解る。その他、澁澤龍彦ら近親者の記録から、三島由紀夫には「いつか定家卿について書きたい」というライフワークの計画があり、直前では『天人五衰』の次回作、開高健に教わった外国のなんとかという女の話を書く計画もあったことが解る。
死の一週間前には「もう何もない、くたびれちゃった」と言っているが、半年前まではその先があったのだ。つまり『豊饒の海』五部作の予定が半年以上計画が早まり、『天人五衰』はかなり内容が変更されたことが資料から明らかなので、〈転生と同時存在と二重人格とドッペルゲンゲルの物語――人類の普遍的相、人間性の相対主義、人間性の仮装舞踏会〉の五部作の後に次回作が予定されたとすると、三島の死はあと二年は先だった可能性もあったのだ。
少年時代の詩集の出版について「死んでからだったらね」と電話で答えていて、その時期に死を覚悟していたと思われるが、それが何時なのかは私のキンドル本で確認してもらいたい。
近代文学2.0を始めよう
大きな本屋に行ったら三島由紀夫作品が文庫本の棚を二段も占めていて『金閣寺』は売り切れだった。多分午前中で五冊くらいは売れたのだろう。さすがに平野啓一郎の影響は凄い。これは良いことだ。まず読まなければ文学は始まらない。ただ自由に好き勝手に読むのではなく、三島由紀夫のレトリックを存分に味わいながら、三島由紀夫の訳の分からないところに振り回されながら、近代文学2.0を始めよう。
あれ、三島由紀夫も近代文学2.0?
勿論、万葉集から笠井与作までが近代文学である。
三島由紀夫に『中世に於ける一殺人常習者の遺せる哲學的日記の抜萃』という小説がある。実は太宰治も織田作之助も西鶴を熱心に読んでおり、近代以前と強く結びつく。三島も太宰も森鴎外に感心しており、近代文学とも繋がるのだが、深沢七郎も万葉歌を多く諳んじ、古事記も読んでいた。近代文学を戦前で区切ることはほとんど意味がない。
『中世に於ける一殺人常習者の遺せる哲學的日記の抜萃』はまるで、自分の中のデモーニッシュなものをそのままさらけ出した散文詩に見える。無論ある仮定を措くことで、そのロジックを整理することはできる。
□月□日
室町幕府廿五代将軍足利義鳥を殺害。百合や牡丹をゑがいた裲襠を着た女たちを大ぜいならべた上に将軍は豪然と横になつて朱塗の煙管で阿片をふかしてゐる。彼は睡さうに南蛮渡来の五色の玻璃でできた大鈴を鳴らす。彼は殺人者を豫感しない。将軍は殺人者を却って将軍ではないかと疑ふ。殺された彼の血が辰砂のやうに乾いて華麗な繧繝縁をだんだらにする。
殺人者は知るのである。殺されることによってしか殺人者は完成されぬ、と。そしてこの将軍は決して殺人者の餘裔ではない。 (『中世に於ける一殺人常習者の遺せる哲學的日記の抜萃』)
なるほど一見変な書き出しではあるが、「殺人者」を「作家」に置き換えると、これは分からない話ではない。
殺人者は理解されぬとき死ぬものだと傳へられる。理解されない密林の奥處でも、小鳥はうたひ花は咲くではないか。使命、すでにそれがひとつの弱點である。意識、それが既にひとつの弱點なのだ。こよなくたをやかなるものとなるために、殺人者は自づからこよなくさげすんでゐるこれらの弱點に、奇妙な祈りをさゝげるべき朝をもつであらう。
(『中世に於ける一殺人常習者の遺せる哲學的日記の抜萃』)
結末は一層ぴったりくる。
廿五代将軍はもう中世の人ではない。室町幕府は十五代で幕を引く。これは入鹿じみた心持でいる三四郎の感覚か。
明後日の方向に向けられた三島由紀夫の祈りは、奇妙で理解できないものなのだ。
[追記2024.8.12]
中川右介『昭和45年11月25日 三島由紀夫自決、日本が受けた衝撃』(幻冬新書 2010年)によれば村田は岐阜の酒井雲宅に向かっている最中であったようだ。二人の会ったのは二回きり。
この本は三島事件の当日の様々な人の様子を丹念に追っている。その中で新潮社の小島喜久枝がすっぽかされた件については、小賀正義の迎えについて三島が「早いな」と言って十時十五分に出発、小島が十時半の約束のところ十分遅れていることが確認できた。
出発のギリギリで原稿を渡す、あるいは中古のコロナで楯の会の会員たちと出発する姿を小島に見せようとしたのかもしれないとあれこれ考えられる。
亀山郁夫の昼飯は魚フライ定食、荒井由実(ユーミン)はたまたま市ヶ谷にいて三島由紀夫を目撃したらしい。テレビで見ていた丸山健二は三島の舌なめずりが気になった。野坂昭如はあちこちに電話をかけてうろたえ方を確かめてビールを十二本飲んだ。
小島がその日受け取った原稿は二十六章から三十章。
つまりこれらは最初から責任校了となる。
佐藤総理の日記には「気が狂ったとしか考えられぬ」とつづられた。
まだまだつづきはあるが、今日は暑いのでここまで。
[余談]
誰にも質問されないから答えようもない話、保田與重郎の本は池袋のジュンク堂に沢山あるよ。文庫本で。これが三島由紀夫をして、どれだけ立派かと思わせる文章で、まず品格がある。国学がしっかりしている感じがある。(本当にしっかりしているかどうかは私には解りません。)そして三島由紀夫は近代文学なんだよなと納得できます。
※1鎌倉前期の歌人。通称菊大夫。法名蓮胤(れんいん)。名を「ながあきら」とも読む。京都下鴨神社の禰宜(ねぎ)長継の子。和歌を源俊恵に学びその派の頭領となり、管弦の道にも通じる。後鳥羽院に召されて和歌所寄人(よりゅうど)となったが、のち出家して日野山の方丈の庵(いおり)に隠遁著述の生活を送った。主著に「方丈記」「発心集」「無名抄」、家集に「鴨長明集」がある。仁平三頃~建保四年(一一五三頃‐一二一六)
