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芥川龍之介の『一夕話』をどう読むか③  崩れかける寸前

レボーター「敗因はどこにあるんでしょう?」
解説者「何と言っても失点したことですね」

 そんな小泉進次郎botのような話に聞こえるかもしれないが、『一夕話』はまず、

 医者と弁護士が メリイ・ゴオ・ラウンドに乗る話

 ……だと捉えて良いだろう。

レポーター「誤読の原因はどこにあるんでしょう?」
解説者「何と言っても読み誤ることですね」

 そんなことを繰り返し指摘してきたが、実際にそのままなので仕方ない。

 この『一夕話』に限って言えば、前回指摘したようにこれがその夜だけの話ではないだろうという皮肉を読み取らなければ、ほぼ誤読である。タイトルの皮肉に気が付かなければ、それはセンターフォワードの選手が、目の前に急にボールが来たからシュートできなかったと言っているようなものだ。だったら何でこんなタイトルにする? そこが読めないのは誤読だ。いや失読というのか、逸読というのか、なんでもいいが兎に角「読めていない」ことになる。そこが認めらないと、その先はない。しかし現に、

 こうした厳しい指摘を受容できる人はまだ一人として現れない。反省しないと学べないことがあると気が付かない。気が付く意思がない。つまり反省しない。それでは停滞があるだけだ。

 確証バイアスの繭に閉じこもり、馬のような幸福の中で生涯を過ごせばいい。
   例えば『一夕話』の結びで藤井は寝ている。名前のない「わたし」と藤井を除いた登場人物のイニシャルを並べると和田のW、飯沼のI、野口のN、木村のKとなる。つまり芥川は読者にwinkを送り、これがその夜だけの話ではないだろうという皮肉を伝えている……と書いてしまえば、これは嘘である。まあ、与太話だ。

 しかし豪傑をメリイ・ゴオ・ラウンドに乗せるという仕掛けに『一夕話』の肝があるという見立ては近代文学2.0そのものである。大学教授の野口を胃弱に設定しているという細かいところを見て、月曜か火曜の真っ昼間に浅草で医者と弁護士が メリイ・ゴオ・ラウンドに乗るという肝の部分を掴むのが近代文学2.0だ。これが夜なら侘しい絵になる。昼間では如何にも唐突である。

 学生時代は賄征伐、つまり寄宿舎の飯に文句をつけていた者たちが社会的に成功して、今や松花(松花皮蛋、ピータンの最高級品)魚翅(フカヒレ)といった高級中華料理を囲み、老酒を飲んでいる。ここは静止画ではなく、確かに時間の経過がある。

 そして肝心な点がもう一つ、ここが解っていないと『一夕話』が読めていないというポイント、「これがその夜だけの話ではないだろう」というポイントがある。

 僕もその時は立入っても訊かず、夫れなり別れてしまったんだが、つい昨日、――昨日は午過ぎは雨が降っていたろう。あの雨の最中に若槻から、飯を食いに来ないかという手紙なんだ。ちょうど僕も暇だったし、早めに若槻の家へ行って見ると、先生は気の利きいた六畳の書斎に、相不変らず悠々と読書をしている。

(芥川龍之介『一夕話』)

 僕はその日膳を前に、若槻と献酬を重ねながら、小えんとのいきさつを聞かされたんだ。

(芥川龍之介『一夕話』)

 月曜日か火曜日に浅草で昼間メリイ・ゴオ・ラウンドに乗り、二日続けて酒を飲む大学病院の勤務医の勤務スケジュールはどんなものだろう? 若槻と飲んだ日が土曜日、皆で集まり陶陶亭で深酒をしているのが日曜日、だとして月曜勤務は大丈夫なのか。

 つまりドクタア和田長平には既に実生活の木馬、メリイ・ゴオ・ラウンドから降りかかっている気配がみられるということだ。これがその夜だけの話ではないだろうというポイントだ。だから先がある、と思わせる仕掛けだ。これは「月曜か火曜」と「昨日」で仕掛けられた設定だが、芥川はこの程度では終わらない。終わるわけがない。

 わたしは横合いから口を挟んだ。その若槻という実業家とは、わたしもつい四五日前、一しょに芝居を見ていたからである。

(芥川龍之介『一夕話』)

 仮に皆で集まり陶陶亭で深酒をしているのが日曜日だとすると銀行に出ている実業家の若槻峯太郎は、火曜か水曜「わたし」と芝居を見に行き、土曜日には和田長平と昼間から酒を飲んでいたことになる。そんな実業家はあるだろうか。
 これが余裕なのか何なのか分からない。ただ余裕と嘯いても他人から見れば「崩れ」ではないか。ただ敢て同輩に括られた七人の中年者の崩れかかる寸前を捉えた動きのある物語が『一夕話』なのだということは間違いなかろう。

 これが書いてあることを読むということだ。




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