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写生文とは何か④

「心をどこにもおかないこと」と「ただ拘泥せざるを特色とする」写生文の考え方はいかにも近いように思います。というところで止めておいた写生文についての考えをもう少しだけ先に進めてみたい。

 少し奇妙な話ではないかと思われる方もいようが、この斎藤茂吉の感覚をつかんでいただきたい。 

 正岡子規なんかは、三十六歳の若さで死んでゐるが、やはりその『厭味』といふことが強く身に答へたものらしい。現在の私はもう子規よりも十年生きのびてゐるが、いかにしても子規よりも甘いところがあり、厭味から脱することが出来ない。子規も病気になるまへには露伴の風流仏などに傾倒したこともあり、西鶴ばりの文章なども書いたのであつたが、晩年の随筆では、当時、露伴が非常に骨折つて書いた「二日物語」の文章をば貶してゐる。
 子規の随筆「墨汁一滴」には、『露伴の二日物語といふが出たから久しぶりで読んで見て、露伴がこんなまづい文章(趣向にあらず)を作つたかと驚いた。それを世間では明治の名文だの修辞の妙を極めて居るだのと評して居る。各人批評の標準がそんなに違ふものであらうか』。かう子規が云つてゐる。子規が写生文を創め、細かく平淡なものを書いてゐた時であるから、「二日物語」の文章に厭味を感じたのであらうか。(斎藤茂吉『結核症』)

 少々乱暴ながら斎藤茂吉の考えを要約するという云うことになる。つまり、

①子規は結核だった。

②結核になると神経が雋鋭になつて来て、健康な人の目に見えないところも見えて来る。

③子規は結核になった後写生文を創め、細かく平淡なものを書いてゐた。

④結核になった子規には露伴の「二日物語」の文章に厭味を感じることができた。

 ……こう讀んで見ると、「結核」→「写生文」なのである。いやそれでは贔屓の引き倒しで、小宮豊隆の「糖尿病天才論」や漱石の「神経衰弱善人説」となんら変わらないじゃないかという人もあるかもしれないが、そもそも子規や漱石はそれを何と呼ぶかは別として、明らかに真面でないところがあり、そのことと作品が無関係ではないと考えられる特殊な人物である。

 真面なものが「肛門 プレートニツクラツブの条と連結す」などという断片を残すわけはないのだ。

 斎藤茂吉は写生文の特徴を「細かく平淡なもの」であり、『厭味』のないことと捉えたようだ。自分には甘いところがあり、厭味から脱することが出来ないという斎藤茂吉は、単なる鰻好きの覗き魔ではない。立派なド変態だ。ドンキホーテの自社ブランド製品と間違われても仕方がないくらいだ。

 しかしこの書きようから察するに、斎藤茂吉には厭味のない細かく平淡な写生文を目指さないまでも評価するところがあり、写生文に届かないところを感じてもいたようだ。

 ここで排除したいのが「厭味」であるとして、その方向性はやはり「心をどこにもおかないこと」と「ただ拘泥せざるを特色とする」に近接してはいまいか。さらにいえば『明暗』という謎の作品と「肛門 プレートニツクラツブの条と連結す」という断片を結びつける鍵が斎藤茂吉の言うところの病気にあるのではなかろうか。

 実は夏目漱石作品は漱石の死に近づくにつれフリチン性を増してきた。と同時に『道草』に象徴されるような細かく平淡な文体に変わってきた。それはもう『草枕』などと比べれば厭味のない、拘泥せざるを特色とする文体である。このことは果して偶然なのだろうか。

 私は既に漱石のフリチンが至って真面目なものであり、人間を描くという文学の本質であることを確認してきた。そもそもフリチンがなければ人間は存在しない。その位の事は小学校八年生になれば解る。フリチンが嫌なら、花鳥風月だけ詠んでいればいい。漱石の遺作は人間を描いてフリチンの手前で閉じている。しかしその手前までは突き進んだのだ。その作品は一作ごとに深みを増し、『こころ』おいて一つの到達点に至ったと私は考えている。明らかに健康な人の目に見えないところも見えている。

 そのことは百年以上の長きにわたり、漱石作品が徹底的に誤読されてきたという事実が証明していよう。

 斎藤茂吉の主張に反して、単純に結核により脳機能が亢進するというようなエビデンスは見つからない。斎藤茂吉の主張は単なる専門家の意見に過ぎない。しかもメカニズムが解らない。ただ、それはおそらく真面目な主張なのだ。のぼせ上っている訳でもない。あくまで冷静に結核文学の可能性について考えている。

 若し結核性の病で倒れずに、病に罹りながら五十年も文学者的活動を続けられるものならば、興味あることに私は思ふが、佳境に入れば死んでしまふし、癒つてしまへば平凡になつてしまふからやはり駄目である。(斎藤茂吉『結核症』)

 この斎藤茂吉の理想をわずか十年にも満たない期間ながら実行に移し、平凡にならないまま死んでしまったのが漱石ではないのか。漱石は目の前に迫りつつあった死の予感の前に、道に這入ろうと志し精神を研ぎ澄ました。その入り口は冗談でもなんでもなく、フリチンだった。そして『明暗』のフリチンはその先に「心をどこにもおかないこと」と「ただ拘泥せざるを特色とする」世界を見ていなかっただろうか。「死の予感」→「道」→「フリチン」→「写生文」→「則天去私」。

 うーん、これではまだどこかにたどり着いた感じはしないが、とりあえず斎藤茂吉の「結核」→「写生文」という指摘には一考の価値ありと云うお話でした。


[付記]

 また、この寫生文から虛子、左千夫、節等の小說が發展し、漱石、紅綠等の小說もはじめはその影響を蒙つた。子規が小說を否定したのに、寫生文が小說となつて發展したのは一つの興味ある氣運であつた。(斎藤茂吉『正岡子規』斎藤茂吉 著創元社 1946年)

 この辺りの問題はどうも「ねじれている」ことだけは確か。

 また、必至的に彼の寫實主義は後年文壇の自然主義に直接關聯することなく、それは、かへつて虛子漱石の餘裕派へ展開して行つたのである。彼のこの主觀的態度は心理的美學を想はしめる。(『歌人子規とその周囲』小泉苳三 著羽田書房 1947年)

 この問題もねじれと云えばねじれ。「写生文」→「寫實主義」→「自然主義」ではなくて、「写生文」→「寫實主義」→「餘裕派」というところには、漱石でいうところの自分本位と「主觀的態度」、プラス何かがないと上手くつながらないように思う。それが「結核」→「写生文」理論の前提にある健康な人の目に見えないところも見えていることによる厭味の排除だけではまだ何か足りない。

[余談]

 「結核」→「写生文」も「糖尿病」→「天才」も極論だが、「神経衰弱」→「人の見えないことが見える」は当たり前だろうと思う。当たり前でないのは「道」→「フリチン」的展開だが、良し悪しでも善悪でもなく、漱石はそちらに展開したんだよなあ。














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