険しさを。
通勤電車。たまたま目の前の席が空いて座る。左右に草臥れたサラリーマンと寝不足の男子高校生。慣性力に抗えない高校生の頭が肩に触れる。サラリーマンに皺寄せが至らぬよう反対側の太腿に力を入れて堪える。停車駅が近づくにつれて高校生はまた無責任に彷徨い始める。あろうことかサラリーマン。経験の差か、既所で自我を取り戻し居直る。高校生が降りて別のサラリーマンが座る。昨晩はきっと盛大に飲んだのだろう、漂う呼気は嫌悪感を直接表現するように振る舞っていた。
我々は険しさに日々直面する。軽く腿上げすれば越えられるものから回復し切るのに数か月かかるものまで、あらゆる程度の、種類の、険しさに直面する。そしてこの険しさについては絶対的な尺度が存在せず、誰かが「ヨイショ」と言いながら跨いでいる隣で同じ険しさに茫然自失する人がいたりする。向き合い方も様々で、自分を鼓舞して立ち向かう人がいれば「誰だここに壁を作ったのは」と喚き散らす人もいる。
あらゆる境界を取り払い、段差を均し、焚き火を囲って車座になり、歌を歌おうとする人たちがいる。社会に散らばる険しさを見つけては出自を特定して中央の火に焚べる。よく燃えればそれだけ歌も盛り上がり、社会のありとあらゆる個性が険しさに晒されにくくなったと賛美する。どんな人も文化も境界と段差のないスーパーフラットな世界で一つの大きな共同体になれると、嬉し涙を流す。燃えて灰になった険しさのなかに人々の差異を緩衝するものが含まれていることなど気づかずに。愛と平和を旗印にした地鳴らしは、平坦な地上で顕在する賜物の差を自己責任の四文字で個人に縛り付ける。
「風の時代」が来たらしい。スタートアップ界隈に身を置いていたからか、2022年〜2023年頃は頻繁に耳にした。それまでの「地の時代」とは違ってお金や物質より体験や人のつながりを重んじ、個人で所有せず他人と共有し、タテよりヨコのつながりを好み、出世や成功よりも精神的な喜びを求める、らしい。200年ほどはこの時代が続くそうで、十二星座の双子座、天秤座、水瓶座がこの時代を得意とする、らしい。宇宙での出来事に起因したこの時代の変化をわざわざ後ろ盾にしなくとも、社会はこの10年で大きく変わった。むしろ社会の変化を何かで追い討ちして決定づけようとする言葉の一つが風の時代、と言ってしまっては界隈に怒られるかもしれない。
端的に言ってしまえば社会は繊細になった。それもかなり。ハイパーセンシティブという言葉が本当に文字通りの現代であると思う。数を減らしつつある鈍麻な人々の価値の高まりに乗じて、ハードワークを爽やかにこなす若者がSNS上で『成長以外、全て死』(中野優作、幻冬舎、2025年)などの言葉を掲揚するが、彼らもある日突然深々と頭を下げながら活動休止の挨拶を配信したりする。掴もうとした途端にその指の間からするすると抜けていくような、目の前に捉えたかと思ったら次のフレームにはもう映っていないような、儚さや刹那性を、ほとんど当たり前のものとして含み置いておく必要がある。して、僕たちは険しさをどう語れば良いものか。
険しさを乗り越えた先にこそ成長が、と思うのは時代錯誤なのだろうか。箪笥の奥に眠っていた親の服を子供たちが今の流行りだと言って着こなすように、険しさを随所に仕込んだり、そもそもあえて環境整備をしすぎないような教育が当世風だと言い切れるような日はもう来ないのだろうか。そうであった時代からそうではない時代に、僕らの歩みは一本道なのだろうか。
カーリング型の子育て(教育)という見方を提案してみたことがある。カーリングについてそんなに詳しいわけではないので、お茶の間からオリンピックを観ていた程度の知識で。選手の1人が約20kgのストーンと呼ばれるものを氷上に放つ。チームメイトはストーンの軌道上をブルーム(ブラシ)でスイープし、速度や方向を調整する。お互いのストーンを妨害したり弾いたりしながら位置取りを競い、勝敗が決まる。現代の子供達はまるでカーリングのストーンのようで、周囲の大人たちは選手たちのようだ、というのがカーリング型子育て(教育)の意味するところである。子供達はされるがままに投げ出され、スルスルと滑っていればよい。どれくらいの強さでどこに向かって投げるか、道中をどう切り拓いて整えるか、どんなポジショニングを狙うかは子供本人でなく周囲の大人たちのスローとスイーピングによって決められる。長らく子供達は石の上から降りなくて良いと言われ、自力で立って歩くための足腰も方向を決めるための思考力、判断力も満足に得られないまま、突然「成人」や「自立」といった言葉に直面する。そんなの氷上で転げ回るに決まっている、傍から見ていれば当たり前に思えるが、日々のスイーピングに必死でいると案外気づかないのかもしれない。険しさは子供に出会うことなく大人たちに擦られ溶かされていく。
主人公の成長物語を描いたマンガやアニメはどのように受け取られているのだろうか。そんなのイマドキじゃないと総好かんを喰らっている様子はなく、なんなら険しさはインフレを起こし続けているような気もする。主人公は作者の妄想の海に従順で、どんな荒波にも立ち向かわなければならない。大事な人を失う者、何度も同じ時空を繰り返される者、自分の心身に大きな損傷を受ける者、挙句命を落として仲間に蘇生される者もいる。僕らは虚構に険しさのカタルシスを得ているのか。対岸の火事であれば盛大に燃えてほしい、遠くで火垂る空なら見上げて「綺麗だね」とうっとりしたい、のか。こうした傍観のバイオレンスは強まれど焦点化されず、人々はただひたすら自分が渦中の主人公にならないことだけを祈り続けてそれを対象化し、消費する。
器械体操の補助はすごい。段違い平行棒、勢いをつけて一方の棒から高く飛び上がった選手がくるくると回転して次の棒へ向かう。回転も捻りもうまくいき、あとは棒を掴むだけ、というところでわずかに手が届かない。このままでは華奢な身体がマットに叩きつけられる、そう判断してコーチが選手を受け止める。判断から受け止めまでの猶予、わずか0.7秒。最初からガチガチに補助しているのとでは練習効果が全く違う。限界までリスクに接近するからこそ最高到達点を更新できる。それでも怪我は良くない、続けられるからこそ高みを目指し続けられるし、競技人生を楽しめる。この両立をギリギリのところで実現するための補助、職人技。
険しさを事前回避するための技術や制度が日々成熟していく。そしてそれらはSNSなどによって広く人々に知れ渡っていく。みんな知っている。知っているんだからそれを取り入れないのは各々の怠惰である。あなたの努力が足りないから険しさを取り除くことができないのだ。そうやって互いに自己責任論で指さしあう。そもそも険しさとの向き合い方は「取り除く」だけなのか、そんなことを問えばただ手元に苦情が殺到するだけ、そんな社会になってしまった、というのは悲観的すぎるだろうか。
険しさを。僕たちはどう向き合い、どう…していけばいいのだろうか。似たようなことがらに頭を抱える友人がこの世界にまだいることを願って。
