『失恋専門のカフェ、あります』|第5章 最後のスイーツ(前編)
注文票のペン先が、かすかに震えていた。
「……本当に、これでいいのか」
心の中で、何度も問いかける。
それでも私は、静かに、一文字ずつ──名前を記した。
──中原 直也
もう、この名前を書くのは最後にしたい。
そう思いながら、私はゆっくりとペンを置いた。
「……お預かりしますね」
朔さんが、変わらぬ静かな声で注文票を受け取る。
まるで、その名前の重さを知っているかのように、彼の手つきはどこか慎重だった。
あれから、何日も──何週間も、私はカフェに来るのをためらっていた。
でも今日だけは、なぜか違った。
朝から降りそうで降らない空模様のせいかもしれない。
けれど、きっと胸の奥で──私の中の“なにか”が、終わりを求めていたのだと思う。
カウンターに腰を下ろすと、店内はいつもより静かだった。
常連の気配もなく、ほかの客の気配もない。
あるのは、淡いランプの灯りと、かすかに漂うバニラと紅茶の香りだけ。
「……お待たせしました」
やがて朔さんが運んできたのは、丸く仕上げられた美しいタルトだった。
その上に、金色に透き通ったゼリーの層。
中央には、刻まれた柑橘の皮とキャラメリゼしたアーモンドが控えめに添えられていた。
「“名前の終わり”という名前のスイーツです」
その言葉に、私は小さく息を呑んだ。
「名前の……終わり?」
「はい。“その人”を思い出すたびに胸が痛むのなら、その痛みを、最後に“味わって”昇華してもらいたくて。そんなイメージで作りました」
朔さんは穏やかに続ける。
「中には、ほんの少しのビターリキュールを忍ばせています。ほのかな酔いが、思い出にやわらかな輪郭を与えてくれるかもしれません」
私はスプーンを手に取り、ゼリーの層をそっとすくい、口に運んだ。
──すっぱい。
けれど、それだけじゃなかった。
最初に広がる柑橘の酸味。
そのあとを追いかけてくるのは、かすかに甘くて、どこか懐かしい香り。
そして最後に、リキュールの静かな苦みが残る。
そのすべてが、記憶の断片のように──一枚ずつ、舌の上に積み重なっていく。
「……涙が、出そうになりますね」
ぽつりと漏れた声に、朔さんはやさしく頷いた。
「それでいいんです。泣いても、食べ終えたあとには、きっと心が少し軽くなるように──そう願って作りました」
ふと、入口のベルが鳴った。
振り向くと、そこには千早さんが立っていた。
その手には、小さな花束が握られている。
「……お邪魔します」
「どうぞ。ちょうど今、琴葉さんに“最後のスイーツ”をお出ししたところなんですよ」
朔さんの言葉に、千早さんは笑って頷いた。
「私も、同じものをいただけますか?」
「もちろんです」
こうして、再び──三人の時間が、静かに流れはじめた。
(つづく)
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