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埼玉県郷土史6をわかりやすく! 埼玉と朝鮮の深いつながり

今回は、埼玉県郷土史第六章「朝鮮人の帰化」を現代語訳します。章の名前を見ていただければわかると思いますが、千熊長彦と同じ朝鮮を取り巻くものです。最後までお読みいただくと、埼玉はかなりヤマト王権・大和政権に貢献していた事が分かります。

■ 3行でわかる!この史料のポイント

・奈良時代になって朝鮮半島や唐との交流が盛んになり、百済人・新羅人・高麗人が武蔵国に次々と帰化してきた

・元正天皇の時代(716年頃)には高麗人をまとめて入間郡に住まわせ「高麗郡」を設置し、淳仁天皇の時代(758年頃)には北足立郡志木町付近に「新羅郡」を設置した

・帰化人の子孫は土着の民となって開拓や朝廷への出仕で活躍し、中には新羅語を研究させられ国家事業に貢献した者もいた

■ 現代語訳

奈良時代になると、朝鮮半島や唐との行き来が盛んになり、これらの国から我が国へ帰化する者が非常に多くなった。この中には百済人、新羅人、高麗人がいて、それぞれ住む場所を別にしていた。

我が武蔵国では、天武天皇の時代に百済人が初めて帰化してから、続いて仏教が栄えたことに伴って、僧侶などの帰化する者が多くなった。元正天皇の時代には、北足立郡の西部から入間郡の南部にかけて住んでいた高麗人を入間郡にまとめて住まわせ、「高麗郡」を置いた。さらに淳仁天皇の御代には、帰化人のために北足立郡志木町付近に「新羅郡」を置いた。

これらの子孫は、いずれも長く住み着き、開拓事業にあたる者もいれば、朝廷に仕えて高い官職に上った者もいた。特に孝謙天皇の時代、新羅征伐が計画された際には、武蔵国と美濃国の少年をそれぞれ20人ずつ選んで新羅語を学ばせたという。これなどは、帰化人たちが誇るべき功績と言えるだろう。

■ 埼玉在住の私のひとこと解説

「高麗郡」「新羅郡」という地名が、実際に武蔵国(今の埼玉県)に置かれていたというのは驚きです。今の日高市には今も「高麗」という地名や高麗神社が残っていますし、新座市の「新座」という地名も「新羅」がなまったものだという説があります。奈良時代、朝鮮半島から渡ってきた人々が土地を開拓し、朝廷にも仕え、さらには国家事業(新羅語教育)にまで貢献していたという事実は、埼玉が古くから「外の世界とつながる土地」だったことを物語っています。


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