第10話|三つの『空白』
五人がシュクルタウンのケーキ屋を後にし、次なる目的地へと出発する少し前のこと。
お忍びから帰還した王様は、紅き精鋭たちを下がらせ、王城の奥にある自身の執務室へと一人静かに戻っていた。
ガチャ。
静かに鍵を閉める。
ハンチング帽を脱ぎ捨て、机の上に置かれた絶対の調和の象徴――黄金の王冠へと、ゆっくりと手を伸ばした。
その王冠を持ち上げ、頭へと戴こうとした、まさにその瞬間だった。
「……うっ……っ!!」
激しく、割れるような頭痛が王の脳骸を襲った。
あまりの激痛に視界が歪み、手元に持っていた王冠が一瞬だけ、不気味に【七色の光】を放って激しく明滅する。
頭痛の奥、歪んだ視界の向こうに、幻影が浮かび上がる。
丁寧に波打つ、真っ白な生クリーム。
美しい三角形をした、ショートケーキの土台。
その中央に、ちょこんと乗せられた赤い苺。
これらはすべて、先ほど彼がパティスリーで愛おしそうに見つめていた、あのショートケーキの形そのものだった。
だが、幻影はそれだけで終わらない。
生クリームの向こう側から、誰かの、楽しげな笑い声が聞こえる。
それは、少年のようでもあり、少女のようでもあり、あるいは――。
その中心に佇んでいるのは、一人の人物の姿。
しかし、どれほど目を凝らしても、その人物の顔だけが見えない…。
王は机に手を突き、王冠を握りしめた。
「またか…」
こびりついて離れない、正体不明の記憶の残渣。
王は、すでに消え去った幻影に向けて、低く、寂しげな声で言った。
「お前は一体、誰なのじゃ…」
その問いに答える者はいない。
王都の最高権力者が抱く、致命的な記憶の空白。
王は王冠を頭に戴き、冷たい沈黙の闇の中へと沈んでいった。
一方、五人はすでにシュクルタウンを出発し、一路、南へと向かっていた。
「今度はかっちの工場のチョコが味方だから頼もしいわ!」
きゃるるが元気よくましゅまろの大地を踏みしめる。
今回のルートは時間との戦い。
ビッグチョコマウンテンを越えてパレット村には立ち寄らず、南下し、そのまま一気にキャンディブリッジへと直行する。
「のんきなことを言うな。僕たちの目指す先には、あの不気味な声が告げた占拠された地『二グロム・グレイ』があるんだ。大賢者様から一刻も早く情報を引き出さないと!」
さくるが先頭に出て急ぐ。
「フンッ!どんな絶望の土地だか知らねぇが、俺たちの足で踏み固めるだけだ」
「ふわぁ~。キャンディの床が見えてきましたわ🍒」
めるるは気怠げに目を細め、前方を指さした。
見えてきたのは、かつてミラーグレーズ侯爵と激闘を繰領り広げた、あのきらびやかなキャンディブリッジ。
五人は迷うことなく透明な橋を渡りきり、その先にある、白く静寂に包まれたましゅまろ神殿の巨大な扉を力強く押し開けた。
――すぅ……。
外の不穏さが嘘のように、神殿の内部は、異物の一切を排除した完全な静寂と白に満ちていた。
白い床。
白い柱。
その中央。
手を繋いだまま立っている、二人の大賢者が、一行を静かに迎え入れた。
「いらっしゃい……。アイスランドの極寒を越え、無事に戻ると思っていました」
姉のふわりが、いつも通りやわらかな微笑みを浮かべて五人に語りかけます。
しかし――。
その隣に立つ、過去と未来を視る能力――ドリームオラクルを持つ妹のゆめの様子が、明らかに異常だった。
「あれ……?」
ゆめは、繋いでいたふわりの手を思わずぎゅっと強く握り締め、信じられないものを見るかのように、大きく瞳を揺らして五人を凝視した。
きゃるるが話しかける。
「えっ、なに!? ゆめちゃん、あたしたちの顔に何かケーキのクリームでもついてる?」
さくるの目が、一瞬で警戒の光を宿した。
「落ち着いて、きゃるる。大賢者様の視線……僕たちを見ているんじゃない。」
ゆめの瞳には、確かに五人の姿が鮮明に写っていた。
赤いキャンディのきゃるる。
青いゼリーのぷるん。
黄色いクッキーのさくる。
緑のクリームソーダ妖精のめるる。
オレンジチョコのかっち。
彼らの色も、形も、全てがはっきりと視えている。
なのに――。
「誰……?」
恐怖に震える小さな声が、静かな神殿に冷たく響いた。
「五人は、視える。でも……その真ん主に、誰かがいるはずなのに……。何度視ても、真っ黒で、何も分からなくて……」
ゆめは、自分の頭を押さえながら首を振った。
五人は顔を見合わせた。
自分たちの中心には、誰もいない。
しかし、過去と未来のすべてを映す大賢者の眼が、真っ黒な何かを捉えていた。
「どうして視えないの…?」
神殿の空気は、かつてない不気味な謎に包まれていった。
その夜。
二グロム・グレイ地方への出発を翌日に控え、五人は神殿の一室を借りて休息をとっていた。
マシュマロのように柔らかい白い寝具の上で、一行は静かに寝息を立てている。
夜の静寂が広がる部屋の片隅。
大賢者の妹、ゆめは、どうしても昼間の不気味な予知が頭から離れず、静かに五人の寝顔を見守っていた。
「すやぁ……むにゃ……🍒」
クリームソーダ妖精――めるるだった。
彼女の周囲で、いつものように炭酸の泡が優しく、しゅわしゅわと弾けている。
ゆめがその規則正しい泡の音に耳を傾けていた、その時だった。
「……ん……っ……」
めるるが、微かに、苦しげに震えた。
いつもおっとりして、何があっても微睡んでいる彼女が、珍しく寝返りを打つように小さな頭を揺らす。
そして――。
めるるが小さな声で寝言を言った。
「…れいん……待って…」
「えっ?」
その言葉が鼓膜に触れた瞬間、ゆめは息を呑み、思わず小さな両手で口を覆った。
脳裏を、激しい衝撃が駆け抜ける。
「…れいん……?」
そんな名前の住人は、どこを探しても存在しない。
だが、めるるがその名を呼んだ瞬間、神殿の白い空気が、ほんの一瞬だけ【七色の光】に揺らめいたような錯覚を覚えたのだ。
「すやぁ…」
めるるはそれ以上、何も言わなかった。
再びいつもの穏やかな呼吸に戻り、深い微睡みの底へと沈んでいく。
ゆめは、ただ一人、暗闇の中でその名前の残響をじっと噛み締め続けていた。
翌朝。
神殿の窓から、やわらかな白い光が差し込む。
出発の準備を整えたきゃるる達が、ロビーへと集まってきた。
ゆめは、ハーブティーを淹れてくれためるるの元へと歩み寄り、意を決してその小さな顔を覗き込んだ。
「めるるさん…。あの、昨日……夢の中で、誰の名前を呼んでいたんですか?」
「……?」
めるるは、淹れたてのティーカップを傾けたまま、不思議そうに綺麗におめめをパチパチと瞬かせた。
その表情には、一切の嘘も、隠し事もない。
「夢ですか? 何か、とっても大切なものを見ていたような気はしますけれど…」
少しだけ、小首をかしげる。
「…ごめんなさい。私、おめめが覚めると、すぐに忘れちゃうのですわぁ、ふふ🍒」
いつもの、のんびりとした笑顔。
いつもの、おっとりとした気怠げな声。
めるる本人すら無意識に消去されている、失われた名前。
この世界の構造は、思っている以上に、致命的に壊れてしまっている。
出発のために荷物をまとめるきゃるる達の背中を見つめ、ゆめは祈るように、その小さな声を震わせた。
ゆめ
「…本当の試練は、ここからです。アッシュカラット城での戦いは、至難を極めるでしょう…。決して、迷ってはなりません」
旅立つ五人の背中に厳かに投げかけられた、大賢者の静かで、重い予言の響き。
その言葉を背負い、五人の足音が、ましゅまろ神殿の白い床を鳴らす。
北の絶望の地、二グロム・グレイ地方へと向かって、彼らは力強く歩み始めた。
🧊 氷菓探偵事務所・極秘調査報告書《第10報》
【案件名】
大賢者再接触、および世界構造における「三つの異常事象」に関する緊急調査
【行軍ルートの記録(ログ)】
一行は首都シュクルタウンを出発。
「ビッグチョコマウンテン(麓のチョコレート工場)」を再度越え、かつて侵食事案のあった「グミジャンプ丘」の境界線を通過。時間短縮のためパレット村への帰還ルートを排除。そのままキャンディブリッジを経て「ましゅまろ神殿」へ直行した。
【観測された異常:三つの『空白』】
本調査において、世界の前提を揺るがしかねない**【三つの記憶・認識上の異常事象】**を別々の地点で観測。
当事務所では、これらに何らかの関連性がある可能性を考慮し、重要断片として記録する。
❌ 断片①:最高権力者の記憶障害
お忍びから帰還した王が王冠を手にした瞬間、原因不明の激しい頭痛と、王冠の【七色の明滅】を観測。
王の脳裏に「真っ白な生クリーム」「三角形のショートケーキ」「赤い苺」という具体的な映像記憶の断片がフラッシュバック。
同時に、楽しげな笑い声と共に一人の人物の姿が浮上するが、【顔の部分だけが視認不能】であった。
王の音声ログ:「お前は一体, 誰なのじゃ…」
❌ 断片②:ドリームオラクル(予知能力)の強制エラー
神殿に到着した一行を迎えた大賢者「ゆめ」の認識能力に、深刻な機能不全が発生。
きゃるる、ぷるん、さくる、めるる、かっちの五人の姿は鮮明に視えている。しかし、五人が並んだその中心だけが、まるで黒く塗りつぶされているような……。
大賢者ゆめの発言:「何で視えないの…?」
❌ 断片③:緑のクリームソーダ妖精の「消された寝言」
神殿の就寝中、普段は極めて高い微睡みを保つ「めるる」の脳波が激しく動揺。
夢の底において、以下の明白な固有名称を呟いた。
めるるの深夜音声ログ:「…れいん……待って…」
【異常点】:当該名称を発した瞬間、神殿の空間が微かに対比的に七色に揺らめいた。しかし翌朝、めるる本人に確認したところ、【当該名称についての記憶は確認できなかった】。
【探偵のロジカル考察】
現時点で確認できる異常は三つ。
① 王が見た「顔のない人物」
② ゆめが捉えた「五人の中心にある黒い空白」
③ めるるが夢の中で口にした、意味不明な固有名詞――「れいん……」
三つの事象には、奇妙な共通点が存在する。
いずれも、本人たちが意識的に認識しているものではない。
王は「誰か」を思い出せない。
ゆめは「何か」を見ることができない。
めるるは「れいん……」という名前を覚えていない。
しかし、現段階ではこれらが同一の存在を指していると断定するには証拠が不足している。
……ただし。
「存在しないはずの何か」が、三つの異なる場所から同時に浮かび上がっている。
これは偶然として処理するには、あまりにも不自然である。
【結合結論】
敵の目的である「均一化」と、今回確認された異常現象との間に関連性がある可能性も否定できない。
ただし、現段階では推測の域を出ない。
【大賢者ゆめの最終予言】
本件において最も深刻なのは、めるるの「忘却」を目の当たりにした大賢者ゆめが、世界の構造的破壊を察知し、強い戦慄を覚えた点である。
出発の際、大賢者ゆめより、次なる決戦場に関する最高警戒レベルの神託が下された。
「……本当の試練は、ここからです。アッシュ・カラット城での戦いは、至難を極めるでしょう…。決して、迷ってはなりません」
【結論】
謎を解くためのピースが、いくつか見つかった。
しかし、それらが何を意味するのかは、まだ分からない。
👉 一行はすべての前提を抱えたまま、ましゅまろ神殿よりさらに北――占拠された絶望の地「二グロム・グレイ地方」の『針晶城アッシュカラット――今は支配された苦みの城』へと、突入する。
🧊 あいすきゃんでぃ探偵しゃーべっと:
「『れいん……』。それは一体、何を意味する名前なのでしょうか」
ノートから切り取ったページに書いた【王】と【めるる】に
【ゆめ】
の文字を書き加え、それぞれ線で結んだ。そして…中央を黒く塗りつぶす。
「私たちの足元は、思った以上に脆い氷上のようです。さあ、その城の『苦み』の正体を、見に行くとしましょうか」
