論説古代史 その1
見出し画像はペルシャの「ゾロアスター教の守護霊フラワシ像」
(Wikimediaコモンズ、メデイアリポジトリよりダウンロード)
ペルシャの姫君
聖徳太子の母とされる穴穂部間人(あなほべはしひと)皇后はペルシャ人であるという説がある。
それは名前にある「間人」という字がペルシャ人を指すからである。
当時、中国ではペルシャのことをパラシと発音し波羅斯と書いているが、そこからペルシャ人の事を波斯(はし)人と呼んだのである。日本ではそのまま「波斯人」とも書くが、多くは「間人」と書き「はしひと」と呼んでいる。「間人」はマロウドとも読まれ、他所の国から来た人=異人と理解される。また間人皇后は孔部間人公主とも呼ばれており(中宮寺の天寿国繍帳に公主との記載が残る)、公主とは中国では皇帝の娘の事を指すので、間人公主とはペルシャ王の娘、ペルシャの姫君という意味になる。
その間人公主と用明天皇のあいだに生まれたのが聖徳太子(厩戸皇子)である。厩戸皇子は上宮太子聖徳王と呼ばれているので聖徳太子と同一と考えて問題ないと思う。「間人」と書かれているだけでペルシャ人と断定できるのかということについては異論もあるかもしれないが、穴穂部間人皇后の周りにはペルシャ色が濃厚に出ている。 その一つが正倉院に残るペルシャの宝物である。正倉院には聖武天皇、光明皇后の御愛用品のほかに、飛鳥時代の法隆寺から持ち込まれたペルシャの宝物がある。中でも「白瑠璃碗」と呼ばれるガラス碗はペルシャの王立工房で作られたもので王候が所持するものであり、これだけ秀麗で無傷のものは他にはない。恐らく間人皇后が持参したものであろう。
間人皇后もペルシャ王家であることを証明するレガリアを必ず持参しているはずである。正倉院にはこのほか幾つものペルシャから来たと思われるものがあるが、当時は法隆寺は祟りの寺であり、これらの宝物は江戸期になってから正倉院の奥深くから発見されたと言われている。
もう一つは弥勒菩薩信仰である。ここでペルシャと言っているのはサーサーン朝ペルシャの事であるが、サーサーンという名前は建国者アルデシール1世の祖父の名前からきている。祖父はゾロアスター教の大寺院の守護者であったため、サーサーン朝ペルシャの国教はゾロアスター教(拝火教)と定められた。
弥勒菩薩というのはギリシャ・ローマでは「ミトラース」と呼ばれた太陽神であり、ペルシャ起源の太陽神「ミスラ」であり、大月氏国クシャーナ朝ではバクトリア語で「ミイロ」と呼ばれた神が大乗仏教と習合して出来た神である。このミイロが弥勒菩薩の語源になったと言われている。そして日本の弥勒菩薩信仰は飛鳥の聖徳太子から始まったのである。現存する半跏思惟と呼ばれるスタイルの弥勒菩薩像は聖徳太子の時代のものであり、間人皇后の寺である中宮寺のものはアルカイックスマイルで特に有名である。つまり、間人皇后は弥勒菩薩を祀り信仰していたのであり、そのことはペルシャの国教であるゾロアスター教の神「ミスラ」を信仰していたということに繋がる。
それでは間人皇后はなぜサーサーン朝ペルシャから日本にやってきたのか。
サーサーン朝ペルシャ(224年~651年)は大国であったが、5世紀頃から白いフン族とも呼ばれるエフタルの侵攻を受けた為、西突厥と組んでエフタルを滅ぼす。ところが今度は西突厥に侵攻され、7世紀にかけて苦しい国家運営を余儀なくされた帝国である。
その対外戦略は「遠交近攻」であり、「婚姻外交」であった。そのため6世紀頃からは盛んに東アジアの大国であった北魏と通交を結び、エフタルや西突厥に対抗しようとした。所謂、挟み撃ちにしようとしたのである。このころおそらく北魏にたいしてペルシャから婚姻外交が展開されたと思われる。
ところが、北魏もまた分裂と滅亡の時を迎えようとしており、やむを得ず当時北魏の支配下にあった高句麗にペルシャの姫が送られたのではないかと私は考えている。しかし高句麗もまた北魏滅亡の後、中国を統一した隋の侵攻により、滅亡へと向かいつつあった。これが、6世紀末期のユーラシアの情勢であり、日本はまさに蘇我氏が飛鳥王朝の全権を握ろうとしていた時期である。拙著「満の国からの渡来人」で述べた如く、高句麗は倭国の蘇我氏と繋がっていたため、倭国の蘇我氏と連絡をとり、ペルシャの姫は高句麗から倭国に送られたのであろうというのが、私の推測である。
丹後半島の間人(タイザと呼んでいる)に間人皇后は丁未(ていび)の乱(蘇我氏と物部氏の戦い)を避けて避難したと伝えられているが、私はこの時、間人皇后は丹後半島に到着したと解釈している。乱を避けるために丹後半島の先まで行くことは常識的は考えにくいし、丹後半島は高句麗の対岸にあり、高句麗からの船の多くはこの丹後半島に漂着するからである。
〇法隆寺の秘密を握る二体の仏像
間人皇后の宮である中宮寺は現在法隆寺に隣接しているが、もとは500mほど東の中宮寺史跡公園のところにあり、16世紀に現在の場所に移されている。中宮寺という呼び名は葺垣宮と鵤(いかるが)宮と岡本宮の3つの宮の中にあったので中宮と呼ばれ、尼寺とされたので中宮寺と呼ぶようになったと言われている。法隆寺には現在、聖徳太子と母の間人皇后の死後作られたと思われる仏像が二体存在する。一体は夢殿にあった「救世(ぐぜ)観音像」である。もう一つは金堂にあった「百済観音像」である。
(*百済観音という呼び名は歴史を知らない、または無視した呼び名である。こういった名称が歴史の正しい理解を歪めてしまうのである。本文では私が勝手に名前を変えることは出来ないので、百済観音のままとするが、早急に訂正すべき事である。また救世観音も観音像ではなく救世菩薩と呼ぶべきであろう。)
いずれの像も国内産のクスノキとヒノキを用いた日本で作られた仏像である。作風からみて同じ仏師による作と考える。
この二体の仏像はおそらく鎮魂のために作られたのであろう。
私がなぜこの仏像の話をするかというと、私はこの仏像は間人皇后と聖徳太子をあらわしたものであると考えているからである。
「救世観音像」はアーネスト・フェノロサにより明治になって夢殿で発見されるまで木綿布でぐるぐる巻きに封印された禁断の仏像であるが、この像は生前の聖徳太子を模したものと考えられる。 なぜならもし聖徳太子に似ていなければ封印する必要はないからである。178センチを超える身長の仏像は当時の日本人の規格ではない。
聖徳太子とその一族は罪なく百済系氏族に殺されている。中大兄皇子を中心とする百済系氏族は聖徳太子の祟りを恐れ、法隆寺にあった太子の像を457mの布でぐるぐる巻きに封印して夢殿に密閉し、封印を解けば大地震が起きて法隆寺は崩壊するとの言い伝えを遺したのである。
もう一つの「百済観音像」は現在は法隆寺に安置されているが、もともと法隆寺にあったわけではない。法隆寺第208世管主の高田良信によれば、元は中宮寺にあり、中宮寺を現在の位置に移す時に、他の多くの寺宝と共に法隆寺に移されてきたとのことである。
この「観音像」はおそらく間人皇后に似せて作られているに違いない。
中宮寺は間人皇后のために作られた宮であり、尼寺である。祀られる仏像は間人皇后以外には無い。八頭身で鼻が高く端正で美しい風貌のこの像は、優しい女性のものであるが、この像も当時の日本人の体格からは外れている。
観音とは観音菩薩の事であるが、弥勒菩薩よりも、より現世の御利益を求めたかたちの仏である。この観音菩薩はペルシャ神話の「清浄」の女神であり、ゾロアスター教の水の神「アナーヒター」からきていると言われている。この観音像も手には水瓶を持っているので観音像と呼んでも差し支えないと思う。アナーヒターは女神であり、従ってこの百済観音像も女性である。
二体の像は聖徳太子とその母である穴穂部間人皇后を偲んで、あるいは
鎮魂のために作られたものであろう。いずれの像もいわゆる仏像の顔ではなく人間の顔をしている。
我々は奇しくも現代に、聖徳太子と間人皇后の御尊顔を拝することが出来るのである。
論説古代史 その1 完
