『写実的に且つ自然に描画する方法』小説作法1--解像度と解凍度
「説明は台詞でしなさい」という教えを守って、かえって不自然な台詞(説明台詞)に悩んでいる方へ。 あるいは、地の文でどこまで書けばいいのか正解の見えていない方へ。
本Noteでは、以上のような疑問に対して、解像度と解凍度という概念を用いて解説していきます。
私が経験測として身につけたものの言語化ではありますが、参考にしてくだされば、幸いです。
先ず、本Noteでは、次のことを前提としています。
小説を、文章を書くという行いは、貴方の内実として思い浮かびあがった情景への言葉による模写である。
もし貴方が小説を書いた事がある人であるならば、その時のことを、無い人ならば例えば国語の試験などで文章を書く場面を想起してみてください。
確信を持って、何かを書き始めようというとき――つまり、アイデアの不在によって一時しのぎの文を置いて閃きを待とうとはしていないとき――、貴方の内では描くべき場面を既に脳裏に描いている事に気が付くでしょう。
例えば、「森で走る二人の子が何らしている場面」を書きたいと思うとき、生い茂る、あるいは人工的に整えられた木々の情景と、子の、青い服、赤い服、黄色い服を着て、笑い、泣き、無表情であるような様が、湧いていると思います。その解像度の具合や靄の量などは個人差の認められるものですが、ともあれそのような映像を思い浮かべている。
或いは映像的でなくとも、「鬱蒼とした森の中」「笑う子供たち」「恐ろしい曇り空」といった具合の言葉の羅列を、頭の中で吟味し始めている。
そのような、意識の上のイメージを、文章として落とし込む作業。これこそが、小説を書くという行為なのであるとして、以下に本題を続けていきます。
出来るだけ写実的に描きたい!
(先ずは写実性の話)
写実性を高める技術。特に地の文
例えば絵画において、「書き込み」という作業がその解像度を上げるのと同様に、小説においてもどのような動作であろうと、どのように些細な動作であろうと、その写し出そうとしているイメージの解像度を上げることによって、数千字にも渡るより描画として描くことが出来ます。
実際、小瓶に入った水銀を受け取る場面の描画として、
例1. 水銀の入った小瓶は、意外なほどに重かった。
例2. 水銀の入った小瓶は、その大きさからして、重く見積もってもコップの一杯よりは軽いだろうと予期していた。しかし実際は、その何倍も重く、準備のできていなかった腕は、思わず数cmの間を下げさせられてしまう程だった。
という風に、第一の短く粗いものを、自身の具体的な予測と腕の移動とを取り上げて、より長く緻密なものにすることが出来ています。
ここからさらに、小瓶の質感や温度感、受け渡す人の姿勢や状況、周囲の様子に気温なども取り上げていけば、たった20字程度で描けていた場面は、100字、500字、1000字を費やして漸く描けるような、濃密な場面へとなっていくことでしょう。
もちろんここで注意すべきは、文字数が多ければより写実的であるというわけではないということです。文字として模写する前のイメージが、どれほど現実的であり、そして解像度の高いものであるのか。これが大切になってきます。
が、貴方の内に浮かび上がるものとは、元々貴方の内にあったものの錬成でしかありません。
よって、写実性を高めるためには、日常的な観察や豊富な読書(知識)量が第一に要求され、そして錬成されたものに対して、ここはどうだろうと新たな視点をぶつけ解像度を上げる事が必要となってきます。
また、人間の認識とは曲線的である事にも留意してください。例えば、ある人物の容姿を描く際に、足→目→手→唇→膝 などのような位置関係として飛び飛びの順序ではなく、足→膝→手→唇→目 などのようにより簡単な曲線で結べる順序によって、取り上げていくのが良いでしょう。
Topic💡
解像度とは
頭の中にある、今描こうとしている情景のイメージの、細かさや確かさの事。漠然としていて靄がかかっているようなイメージを零に、そこから靄が晴れていく方向を正としている。
「写真の解像度」という用法のものとほぼ同じ。
そして写実的台詞文について
台詞文の写実性を高めるにあたっては、地の文とは別の問題が現れます。
不意に漏れた短い言葉や感嘆などは、なるべく取りこぼしたくはないものですが……、しかし当然、その自然さ(写実性)への追求の結果として、
「あー、それは、ええっと、なんというかぁ倫理の規範、に反していて~」
「はぁ、はぁ、はぁ」(荒い息の音写)
などと、発音の全てを拾い上げ、台詞文として写すのでは、どうしようもなく読み難くなってしまう。或いは、意味の薄い語が増え、まるで空行が挟まれているような印象を読者に与えてしまうことになります。
従って、「あー」などを一々書く写実的台詞文は、あまりに冗長とならざるを得ないものなのです。
この問題は、娯楽小説というよりも、自然な精神応答を描きたいとする私たちにとって重く圧し掛かります。
単に削るのであれば、それは信念の放棄であるし、放置しておくのも好ましくない。
こうした問題を解決しつつも、全体としての実際性を保っておける。そのような方法は、皆さんすでにご存じのはずです。
そうです、ここで先ほどの技術を用いればよいのです。
描こうとする情景の解像度を高め、フィラーなどに代わる、発声に伴う発声以外の部分を見つけ出し、これを代替として地の文に描けば良いわけです。例えば「言葉に詰まっている様子」であったり、「目線を悩ませている様子」などが挙げられるでしょう。あるいは、そのまま「フィラーを発した」等でも構いません。
こうして写実的台詞文において描いていた情報を、地の文へ解凍していけば、冗長さの問題は解決されるわけです。
Topic💡
解凍度とは
情報を文字として開く、その量の事。
ここではとりわけ、地の文で表現できる事も台詞で描画する方法:説明的台詞や感嘆など を、圧縮と捉え、その対極の側、台詞で表現しているものを地の文で表現する方法を、解凍と呼んでいる。
以下では高圧縮されている側を零として、解凍されていく方向を正とする。
説明的台詞を実際的台詞に!
(ここから自然さの話)
不自然な台詞とは、本来、地の文で描かれるべきものを、台詞文に圧縮し詰め込んでいるから起こるものです。と言っても、安直に解凍していけば良いというわけでもありません。
その代表例が説明的台詞文でしょう。
解凍せよという以上の言に反して、むしろ圧縮せよと言う「説明は台詞でしなさい」という言葉を、どこかで聞いた事がある人も多い筈です。
以下からは、説明的台詞文の解凍について述べてまいります。
『説明は、台詞でしなさい』は本当?
この言葉は、地の文で説明すると話が折れてしまうから、台詞の中に自然な形で説明を織り込むべきだ。といった意味合いで語られます。が、「自然な形」とはよくわからないし、話が折れる、その理由もよくわかりません。
かといって、これを愚直に徹底すれば……
「お前、斎藤和也の親友、この俺由良琢磨が~~」
「これはホッカイロ。砂鉄の~」
という風に、新しい登場人物は、知己の仲であってもその都度自己紹介をするし、その世界の住人であれば日常的生活を送る中で当然に知っている筈の事項に対して、あまりに無知すぎてしまう。というような、不自然な事が起きてしまいます。
結論から言ってしまえば、適度な分には説明的台詞を解凍し、実際的台詞にすることは問題がありません。
『説明は、台詞でしなさい』の肝
この教えが一体何を意図しているのかと問えば、それは「台詞で説明をする」という形式の推奨なのではなく、飽くまでも「話の腰を折らないようにせよ」という読者への配慮を失念してしまう事への警句であると言う事になります。
ある説明の量があって、これを地の文か台詞文か、どちらか一方に配した場合の展開の進み方について考察してみましょう。
あとで詳しく述べますが、先で述べたように地の文での説明は、少なからずの停滞を招きます。
一方で、登場人物の発話という動作の伴う台詞文での説明は、不自然さを孕みつつも一応のところ進み続けている。
この対比的な特性によって、とりあえず全部を地の文でするよりは、台詞文でする方が良いとなるのです。
そもそも地の文での説明は悪なのか?
説明文が悪い状況とは。
当然、行き過ぎた説明は、物語が進んでいくのを楽しむ読者にとって、さながらスキップする事のできない操作説明の様であり、退屈というほかにありません。
例えば、
魔法とは、~である。
〇〇が為したのは、魔法の~。
以上の例では、語の定義が挟まれることによって、読者は一度、物語を理解する場から、物語の表現手段を理解する場まで引き落とされる結果になります。
別に地の文で説明することが常に悪しかというとそうでもありません。
前述したように、これが問題となるのは、展開を一時停止させる効果を発揮してしまう場合であって、展開に要求された時に、それに応じた量でそうする分には、読者の熱量を覚ます事なく、このようなものを挿入することが出来ます。
すなわち、実は前後関係に破綻しないよう置く限りでは、問題がないわけです。
それでは、どうやって破綻なく説明するか。
そもそもとして、破綻している状況とはどういったものなのでしょうか。
これに対して解凍度という概念は、上手に説明を果たしてくれます。
そうです、前後との解凍度の不一致が、これを招くのです。
自然な説明とは、前後と解凍度が一致しているものである。
具体的に説明していきましょう。
例えば、まったく解凍度が低いもの。
「母さん、おれのご飯はこれだけかい?」
「……」
「へへ、こうして食えば、寿司みたいだな」
「……」
「母さん、どうしておれのこと、無視するんだよう」
「……あんた、まだいたの」
そして、この小説の解凍度を高めると、次のようになります。
榎本一平は、どんぐり一つほどの白米が盛られた茶碗を前に、暗い表情をして座っている。
「母さん、おれのご飯」
と、キッチンのある方へ向かって一平はこぼした。返ってくるのは、母が食器を洗う音だけだった。
一平は箸も用意されていなかったので、仕方なく手で摘まみ上げて食べようとする。その僅かな白米を寿司に見立てて、微笑んだ。
近くに家族もいるというのに、一平の胸奥は暗い、孤独感に溺れてしまいそうになっていた。
「あんた、まだいたの」
これらの例では、どちらに対しても違和を覚えないかと思います。ですが、一部分だけ解凍度を高めた次の例ではどうでしょうか。
「母さん、おれのご飯はこれだけかい?」
と、キッチンのある方へ向かって一平はこぼした。返ってくるのは、母が食器を洗う音だけだった。
「へへ、こうして食えば、寿司みたいだな」
「……」
「母さん、どうしておれのこと、無視するんだよう」
「……あんた、まだいたの」
無言を表す「……」の意味が変わり、流れの断絶というべきものとして現れていると感じられたかと思います。
唐突というわけでもないのに不自然な説明とは、おおむねこれの同型であると言って良いでしょう。
上の例では、低↗高↘低→低→低→低という風に、解凍度が上下しています。語彙の説明をどこかで挟むという場合でも、やはりそうなのです。
語彙の説明部分だけの解凍度が他と比べて高い。だからどこか浮いた感じになって感じられてしまうのです。
どうやって解凍度を調整するのか。
このような場面に遭遇した場合に、講じるべき策とは、当然、その解凍度を下げるなり上げるなりする事となります。
地の文での説明を避けるべき状況とは、話の腰を折る場合であり、展開に要求された量に過不足した場合であると言いました。そして、台詞文は音という物語の一部分が進むため、話を屈折させにくいという特性についても触れました。
これは、ある場面の説明的台詞を話の腰を折らない程度に解凍する事を、逆に話の腰を折っている部分を台詞文へ圧縮していくことを、許容していることを表しています。
また、戯曲という作品形式は、すべてを台詞によって説明するものですが、つまり超低解凍度で貫かれた作品なわけですが、これを読む中で写実的でないという不自然さはあっても、突っかかりになるような不自然さを持つものではありません。すなわち、すべてが台詞であるところから解凍していく事も、また良い事を表しています。
そこで、まずは台詞文ですべてを説明したのちに、地の文へ解凍していくという方法があります。
(私の場合は逆に、地の文ですべてを説明したのち、台詞文へ圧縮していく手法を採っていますが、どちらを端にするかは好みです)
説明的台詞の解凍の更なる例示。
解凍という作業を、概念的なままに留めていては役立たないでしょうから、具体例をさらに提示していきます。
主人公が初めて登場した場面の例。
「おはよう。私、伊藤の席の斜め前に座っていて、サッカー部の山口君」
↓
伊藤は、斜め前に座っているサッカー部の山口に「おはよう」と、挨拶をした。
フィラーを解凍する例。
「ええ、あー、うん。私は好きだよ。渡辺君の、そ、そういうところ」
↓
柳は頬を赤らめ俯いている。口元をまごつかせ、前髪を弄りつつ、ちらちらと渡辺の顔を覗いている。
そうして、うんと小さくうなずくと、渡辺に向き直った。
「私は好きだよ。渡辺君の、そういうところ」
と、柳はどこか言葉を噛みつつ言った。
解凍度は平坦であるべきか?
(全体としての解凍度と解像度の話)
地の文は、その効果として、展開の速度を遅くしたり一旦止めたりと、ブレーキのような振る舞いをします。
そして読者は、どうでもよいシーンは早く済ませたく、気になるシーンは長く深く楽しみたいと考える生き物です。そして爽快なシーンなら潔く、激重シーンなら湿っぽく進んでいくのが、情動と理解との速度が合致し、分かりよいと感じるものです。
また、解像度を高めることが写実性を高めるのだと言いましたが、解像度の展開(視点の情動)に対する不一致が、読者を停滞させ、不自然さを招くことがあるとは留意しておかなければいけません。
ですから、読者が気になるシーンでは高解凍度、どうでも良いシーンでは低解凍度。という具合にこの盛り上がりの程度が同等ならば、解凍度も同等でなければなりません。
そして、視点の登場人物の情動が動いた場合には、それに合わせてそもそもの解像度も調整しなければいけません。
例えば視野狭窄に陥っているのならば、焦点部分だけ高解像度、他は低解像度などとするのが良いでしょう。これは、三人称小説でも観測者の情動に合わせることで、読者の情動さえも操作できるため重要になってきます。
ブレーキの塩梅と自然さとを見極めて、どちらをどの程度そうするかは作者である、貴方の自由によって決めるのが良いでしょう。
これに加えて、文章にはテンポというものも存在しています。イメージを思いついたそのままの語彙によって模写するのではなく、負荷の少ないシーンでは地の文の一文一文を短めに、負荷の多いシーンでは地の文の一文一文を長めにと、描画する文章量の調整もしなければいけません。
台詞の写実性と解凍度とは概ね一致する!
説明的台詞は、写実性も解凍度も低い台詞の形態でした。しかし、それが備えてしまっている冗長な部分を削り(写実性を高め)、その内容を地の文で補え(解凍度が上がる)ば、描画としての解像度はそのままに、より写実且つ自然な描画をすることが出来ます。
正確には、解凍度を高めれば、伴い写実度も上がります。
(台詞の不自然さを地の文へ均せば、解像度をそのままとして、写実性を下げていた要因がなくすので、写実性が高まる)
しかし、逆は成り立ちません。
というのは、写実性がいきすぎて「ええっと…うん」などを省かず書きすぎる様になると、むしろこちらに内容は圧縮され、解凍度が下が結果となるからです。
まとめ
以上を通じて、写実的で且つ自然な描画をするには、どうすれば良いかを説明してまいりました。
写実性をいきなり高めようとするのでは、それは経験がものをいう世界であって、厳しいものがあります。そこで即座に使える技術というのが、解凍です。
冗長な台詞文を見つけ出し、これを解凍していく。
すると今度は、地の文が冗長となるのではと思えば、解凍度の一貫性がこれを防いでくれます。
Topic💡
より写実的にするには、
・描きたい情景の解像度を高め、
・それを文字として展開する。
・写実性の行き過ぎた台詞は、解凍し、地の文へ情報を移す。
そしてそれをより自然にしていくには、
・解凍度の前後関係を調整し、
・重要なシーンでは高解凍に、
・些細なシーンでは低解凍にと、盛り上がりに合わせた解凍度にする。
・あるいは、高解像度、低解像度で描き出すようにする。
・爽快なシーンでは短めに、
・重いシーンでは長くなるように、文章量を調整する。
これまでを通じて、できる限り解凍していくべきだという方向性によって論じてきましたが、対立する立場として、エンターテイメント性などを大事とする小説であって、楽読性の為にあえて解凍度を低くしている立場もあります。
小説を推敲するにあたって、書き足りない感覚や過剰に書きすぎているのではないかと思った場合には、解凍度に着目して見直してみてください。きっと役立つことだと思います。
